第六章 雪上カメラマン・出馬亀成
1
殉職者まで出した層雲峡温泉での逮捕劇の模様は、道警本部長の記者会見で明らかにされた。
本部長は、同志討ちの不手際を陳謝し、山に逃げた少年の行方を全力で追及していると語ったが、滝川警部は正直ホッとしていた。
仲間が殉職したのは痛ましいことだけれど、少年の家族と面会して少年の人となりを理解している彼は、それが少年であるべきだったとは思わない。
凶悪犯というレッテルのもとに、SAT投入に踏み切ったのが間違いだった。SAT隊長のミスがあったとはいえーー無線を切り替えずに司令車の判断を仰いだのを、隊員はゴーサインだと勘違いして発砲した。
警備隊員も無抵抗の少年の足を狙って撃っている。火器に頼るとそういうことになる。
少女に危険がなかったことは、少女自身の口から語られた。少年が死に場所を求めてさまよっていることも。そういえば少年の姉が、死ぬなら黒岳かなあーーといっていたのを思い出した。
だが、マスコミが殺到し、犬を使った大がかりな山狩が始まっては、いよいよ少年を追い詰め、手負いの獣にしてしまい兼ねない。山にはスキー客や観光客もいるのだ。
かといって少年が自ら人生の幕を閉じてしまうのを、座視するのも、あまりにも気の毒だ。それはなんとしても阻止してもらいたい。無事に保護されて欲しい。
道警の連中とテレビで記者会見の模様を観ていた滝川警部は、そう切実に思いながら司令車から出て、ヘリが旋回する山を見上げた。
――それにしても粋(いき)な運ちゃんがいたものだ。
そこからは見えるはずもない、原始林の麓(ふもと)を、常緑樹から落葉樹の林へと、ゴツゴツした岩の合間を、灌木の尾根を、見え隠れしながら、そして白い雪の斜面では黒点のようになって、真部光はひたすら山を登っていた。
真っ青な空を区切っている黒岳の峰を目がけてーー。
そういう自分の姿を眺(なが)めている自分がいたーー。
ただ逃げているだけだという自分もいたけど、かつて見たことがある原風景のような気がする。
それも神話の中でーー。
雪原では背中に日輪があって、反射熱で温かかった。
ただ、もう体力の限界が来ていた。
体から力が抜けて倒れそうになり、まばらに生えている灌木のひとつにつかまった。
そういえば朝からなにも食べていない。
光は足元を固め、背中のリュックから食べ物を取り出そうとした。
ー―その時である、
耳をつんざく爆音がして、右後方尾根から巨大な黒い塊が姿を現した。
その風圧でバランスを崩した光は、リュックを抱いたまま、雪の斜面を転がり落ち始めた。
小さな雪の塊のようになって転がり、それは次第に大きくなって雪煙りとなり、横に広がりながら、木々をなぎ倒し、根こそぎ剥ぎ取り、尾根と尾根との間の、小谷に向かって驀進(ばくしん)した。
――少年を発見しました!
雪崩に巻き込まれた模様、場所は黒岳中腹のーー。
ヘリは旋回しながら着陸地点を見だせないまま飛び去って行った。
光は斜面を転がりながら防衛本能から自然丸くなっていた。幸いなのはつかまる物があったことだ。それによって手足がバラバラにならずにすんだ。
リュックだ。リュックの中の聖書を抱き締めて、お祈りするように頭と膝をそれにくっつけた、胎児のようなポーズで丸まって、あらゆる方面からの力に抵抗した。
頭の中では亀をイメージしていた。固い甲羅で守られている亀。頭と手足さえすくめていれば象に踏まれても大丈夫。
というか、激突の期待不安に亀のようにすくんでいたというべきだ。
――ああ、神様!
体の方々に衝撃を受け、痛みと恐怖に耐えきれなくなって、空中に投げ出されたような浮揚感と、谷底に落ちて行く墜落感を最後に、激突の予感を感じつつ意識を失った。
♤
霧の中から無数の黒い人影と犬の荒い息遣(いきつか)いが近づいて来る。
大勢の警官と犬だ!
だがしかし、警官たちと犬は光の脇をすり抜けて行った。
――?
♤
光は意識を取り戻した。
ほの暗い闇の中にーー。
ほの白い壁が目の前にあった。
それが雪の壁であることを認識するまでに若干の間が必要だった。
そして、自分が雪崩に遭い、雪に埋もれているのだという状況を呑み込むまでには、さらに少しの間を要した。
――助かった!
と、じわじわ喜びがこみ上げて来たのは、どこにも傷みを感じないからだ。
感じないどころか手足の感覚がない。
急に不安になった。
足を動かそうとしてみた。
が、まるで自分の足がどこにあるのかさえわからない。
手を動かそうとした。
手の感覚もない。肩から下は雪に埋もれていて、右肩がわずかに動いただけ。
よく見ると、空間は肩から上の頭部周辺と、そこから右側に裂け目のような暗がりがあるだけだった。
凍傷で感覚がマヒしているのかも知れないと思う。
早くなんとかしないと凍死してしまう。
焦(あせ)った光はがむしゃらに手足を動かそうとした。
そうしたら、右手の指がわずかに動いたような感じがした。
気を集中して懸命に右手指を動かしてみる。
徐々に感覚が戻って、手指が動き、腕も動くようになった。
リュックをしっかり抱いていることがわかった。
左手を探り当てて、マッサージする。
そうしているうち裂け目の空間からほの白く突き出ているものが目についた。
右手を引き出して、それに触ってみた。
固いーーけど、足の親指のような形をしている。
左手も引き出し、抱いているリュックをほじくって、中から野宿の三点セットのうちの、火をおこすライターと明かりを灯す懐中電灯を探り出した。
リュックと一緒に背負っていた寝袋はどこかへいってしまっている。
懐中電灯の光を当てて、その周辺をほじくってみた。
ほじくってみて、ギョッとした。
――足だ!
紛れもない人間の素足だ!
ということはーー?
――ウワーッ!
と光は叫んだ。
2
滝川警部は道警のヘリに便乗して雪崩の現場に飛んだ。
烏帽子(えぼし)岳側の小さな尾根から広い所で幅約百メートルに渡って、ハイ松などの灌木から広葉・針葉樹までなぎ倒して、小谷を埋め尽くすようにしていた。
捜索隊が為す術なく引き揚げて行くのが見える。二頭の犬の姿も見える。
「お手上げのようだ。あれじゃあ、まず助からんな」
黒田警視正が幅広のサングラスを夕日に光らせていう。
「明日も捜索はするんでしょうな」滝川警部は不快感を顕わにして聞いた。
「天候次第だな。明日は吹雪になるそうだ。見たまえ、北の空に雪雲が出始めている」
「今晩は冷え込みますね、かわいそうに……」
「警部、歳取ると涙もろくなるのはわかるが、少年とはいえやつは、将来ある五人もの少年を殺した犯罪者だぞ。それも拳銃で、だ。その罪は計り知れなく重い。
おかげでこっちも優秀な警官を一人失っているんだ。身重の妻と子供が三人、残された遺族のことを考えてみろ。警大出たばかりの小僧っ子の失態とはいえーー」
「どうしてヘリなんか飛ばしたんです?」
「山の捜索にはヘリが一番、そんなこたぁ常識だろうが」
「でも雪崩を起こしてしまった」
「おい、そろそろ引き揚げようぜ」と黒田警視正は操縦士にいった。「シベリア寒気団がやって来るのも、こっちのせいにされ兼ねん」
♤
手の届く範囲の雪の壁を取り除いてわかったことは、目の前にぶら下がっている脹(ふくら)脛(はぎ)から下の脚は自分のものではないということだ。
あきらかに自分の脚より脹脛が太くて、山芋のような濃い毛が生えている。足のサイズもひとまわり大きいし、爪が伸びている。
なによりベタ足の自分の足と違って、湾曲した土踏まずがあった。自分よりずっと背の高い大人の脚だ。
それもアスリートのように、足首は細いのに脹脛が異常に筋肉で膨らんでいる。
相変わらず自分の足の感覚はないけど、ほぼ立ったような状態で、腿から下に両脚ともありそうだった。
――どうしてこんなところに人の足があるのだろう?
という思いはあったけど、自分のものではないことがわかって、ひとまず光は安堵(あんど)した。
それからそこらの雪の壁を削ってみて、意外と密度が濃く、かなりの重量で押し固められていることがわかった。
それは厚い雪の中に閉じ込められていることを意味している。
そしてそれは絶望的であると同時に、さしあたって、この小さな空洞が閉ざされることなく、命を永らえることができそうなのを神に感謝した。
とりあえず、これ以上の事態の悪化はないといえるのではないかと思う。
どうして自分の頭の周りだけ空洞になっているのかという疑問も、右側の亀裂に手を伸ばしてみて、その原因がわかった。
その亀裂は横のほうだけではなく、むしろ縦に深く伸びているようで、そこから生温かい風が吹いて来ているのだ。それゆえ頭も首も、肩まで、凍らずにすんでいるーーといえるのではないか。
そこまでわかれば、あとは大急ぎで自分の腰から下を掘り出すことであった。下半身が凍傷になってしまわないうちに。カマクラのような空洞を造ればーー。
そうすれば全身が温風の恩恵に与(あずか)ることができる。
――でも、その前になにか口にしなければ、エネルギーを補給しないと、力が出ない。意識も朦朧(もうろう)として来ている。低血糖になると昏睡(こんすい)に至ることは知らなくても、最も糖を消費する脳が糖分を要求しているのだ。
脱力感と空腹感に急き立てられて、光はリュックからチョコレートを取り出して貪り食べた。冷たいけど甘い缶ジュースを一気に飲んだ。
それから紙パックの牛乳を飲みながら、菓子パンを味わうように食べて、人心地ついたのだった。
そして何気に、目の前の亀裂にぶら下がった足の指が動くのを見た。
♤
ロープウエーもリフトも店仕舞いして、山にはもう人っ子一人いない。
なのに光少年はあの雪の下に一人で埋まっているのだと思うと、やりきれなかった。
「来年の夏を待たないと遺体の発見は無理だろうな」と黒田警視正がつぶやいた。
思ったことは口に出すタイプのデリカシーの欠片(かけら)もない男だ。
「でも明日も捜索はするんでしょうな」
滝川警部はまた念を押した。
「天候次第だって。そういってるじゃないか」
ヘリは大雪山連峰の横っ腹を層雲峡に沿って上川に向かった。
すでに空の半分をどす黒い雪雲が覆っていた。
♤
光はジュースの空き缶を使って雪を削り取った。
削った雪は亀裂の中に落とし込んだ。
亀裂が埋まってしまうのではないかと心配したけど、その心配はなさそうであった。底が知れないほど深いのか?
小一時間かけて、椅子に座ったような状態に堀り進み、遺跡から土器を発掘するようにして、自分のトレッキングシューズを二足とも掘り出した。
ありがたいことに、厚手の靴下を穿いた足が、二つともその中にちゃんと納まっていた。
感覚がないから、それが自分のものとも思えず、考古学者のような感慨に浸(ひた)っているとーー。
……キミ、すまないけど……そっちが形(かた)ァついたら、こっちもお願いできないだろうか。
足がかゆくてーー。
という声がしたーーような気がした。
光は空耳(そらみみ)かと思った。
懐中電灯の光を廻らせて辺りを見回す。
そして頭上の空洞を丹念に照らすと、そこに雪に塗(まみ)れたお面のような突起物が現れていた。
光は中腰になって、恐る恐るそのお面のような突起物の、表面の雪を撫で落としてみた。
蝋人形のような人間の顔が現れてギョッとした。
まさかーー?
――まさしく、キミが今撫でているのはワタシの顔です。
という声がして、蝋人形のような顔がクシャミをした。
――エエ~ッ!
驚いて光は仰け反った。
それから恐る恐る懐中電灯の明かりをその顔に近づけた。
「いやはや、とんだ災難に遭ったものだよ」
出馬(でば)亀(かめ)成(なり)と名乗る中年の男は、光のコンビニ弁当を平らげてからいった。
「でも、おかげで、大変素晴らしい写真が撮れた。いまだかつて、雪崩を直下から捉(とら)えた写真はないからね。これは高く売れる」
といって脇に置いてある一眼レフカメラを取り上げて、大事そうに撫でまわし、フレームを覗いたりした。
頭を防御して蹲(うずくま)るような格好で埋もれていた男を、天井から掘り出すのにさほど手間はかからなかった。
男も顔だけ空洞から出していたので助かったわけだけど、宙ぶらりんになっていた片足は、骨折しているようだった。
それでもまず最初に、カメラの所在を心配したほどで、それを近くから掘り出して安心し、入念に点検してから、喉の渇きと空腹を訴えたのだった。
「まさに、禍福は糾(あざな)える縄の如しだね」といって、口の周りだけドーナツのように濃い髭が取り巻いている顔で笑った。
瓢箪(ひょうたん)のように細長い顔。切れ長で一重瞼の細い目。痩せていて、背は相当高そう。シャツの上から毛皮のチョッキを着ていた。防寒服は脱げてどっかへ行っちゃったみたいだなといった。
「ほんというとね。もっと高く売れる戦場カメラマンを目指したんだけどね。弾が飛んで来て危ないからさ。もひとつ踏み切れないんだよなあ。
だけど、危険なんてものは、日常でも、どこに潜んでいるかわかりゃしないね。今年の夏に、知り合いのご老人が、家の近くの水深十センチにも満たない川で溺れかけている。
雨合羽のズボンとゴム長を穿いて川の中でウナギ釣りしていてね、滑って転んだわけさ。ズボンやゴム長に水が入って起き上がれない。仰向けに倒れたまま水を吐き出しながら助けてくれと呼ばわっていた。
夕方になってようやく通りがかった主婦が、橋の上からそのかぼそい声を聞きつけて助けられた。山芋を掘っていて、自分が掘った穴に尻を落とし込んで、そのまま飢死していた者もいるしね。
今回、ワタシはそうとうな注意を払って、山親父が冬眠するのを待ってから臨んだのに、まさかの雪崩で、このざまだ。キミがいなかったら一巻の終わりだった」
雪を削ってこしらえた腰掛けに腰掛けて、光と向かい合ったカメラマンは、とても柔らかい口調でしゃべり続けた。
家族を故郷に残して、日本全国の景勝地や未開地を回り、自然を活写してから、雑誌に売り込んで生計を立てているのだといった。
出版業界は不景気で雑誌や本が売れないから、専属というわけにはいかず、良い写真を撮らないと食っていけない。そのうち戦場にも出かけることになるかも知れないともいった。
話が青年時代に及ぶと、最初はカメラではなく、ノゾキが専門だった。デバ亀と呼ばれていた――といってニッと笑った。
デバ亀カメラマンが蛇のように長い胴体を伸ばして這い回り、ノゾキをしていた頃の姿を光は想像してみた。
「どうして生温かい風が下のほうから吹いて来るのだろう?」という光の疑問に、ニンマリ笑ってから彼は答えた。
「下を温泉が流れているからさ」
「温泉が? 本当ですか」
「上流の断崖の下でビバークしているんだ。テントを張ってね。そこへ行け食料も飲み水もある。焚き木だっていっぱい集めてある。川に温泉が湧いているから、雪で温度を調節して露天風呂としゃれ込んだものさ」
カメラマンの喋りは止(とど)まることを知らない。残りのおにぎりにまで手を出して、ペットボトルのお茶も、〈貴重なのに〉惜し気もなく飲んだ。
「それよりまず、ここからどうして脱出するかが問題でしょう」
そういうとカメラマンは、「それは心配ない」と言下にいった。
「下に堀り進めば川に出る。川というか今は岩清水のように温泉がチョロチョロ流れているぐらいなものだけどね。春になると雪解け水で水量が増し、滝ができる。
温熱でトンネルになっていてくれればありがたいのだけど。それをたどって登れば出られる」
「今何時ですか?」カメラマンが腕時計をしているのを見て聞いた。
「十時前だな」
「じゃあ、朝になるまではこうしているより仕方ないですね」
「そりゃそうだ。なんたって大きな岩がごろごろしている所だから暗がりではね」
明るくなれば追っ手がやって来る。ヘリに見つかったから。ロープウエーの始発が上がって来るまでに、なんとかしなければと光は焦った。
午後にはすでに捜索隊がやって来ていたのを光は知らない。二人とも気絶していたこともあるけど、犬の鼻も届かないほど深く埋もれているのだ。
出馬亀成カメラマンがビバークしているテントは、ロープウエーの発着場があるもっと上のほうの谷だといった。
そこまで登って、そこから登山道に出て、誰もいない早朝に一人で山頂を目指せばいい。
だけど、片足を骨折している男とそこまで登れるだろうか。
「まあ、ぼくのテントでゆっくり休んでから、温泉にでも入ってだねえ、山頂から大雪山連峰を眺めながらご来光を仰ぐのは最高だからね」
光はまざまざとその光景を思い描くことができた。ひざまずいて神に赦しを乞い、拳銃を口に咥えて撃つ!
銃声は嶺々に木霊するだろう。
「それにしても君の衣服は随分な血が染(し)みているじゃないか。ケガーー大丈夫かい?」
新しいのと古いのとがごちゃまぜになっている。痛くないからたいしたケガはしていないのだと思う。
この人は層雲峡での事件を知らないのだろうか。そもそも自分が何者なのか聞こうともしない。
「なんだか、カマクラようだね。ローソクはないのかい? ローソクの炎だけでも温かくなる」
「ローソクもあります」
光はリュックをまさぐってローソクを取り出した。
「キミは万事用意がいいね」
ライターで火を灯す。
「こう見えてもワタシは東北出身だから、子供時分にはよくこうして、おモチを焼きながらミカンなんかをむいて食べたものだよ。女の子なんかも一緒だと、秘密めいた楽しさもあってね。
……そういえば家(うち)の子どうしてるかなあ……めんこい小学生の男の子と女の子がいるんだども、もう何年も会ってないなあ……なにしろおどうは出稼ぎで忙しいがら……」
(そのままじゃん)
♤
――その黒いの、なんだろう?
――掘ってみましょうか?
というので光はその黒いぼっちの周りの雪の壁を空き缶で削った。
現れたのはヒグマの顔だった!
ヒグマは目を見開き、牙をむき出して、吠えた。
――ウワーッ!
3
夢を見ては目覚め、目覚めてはいつの間にかまた夢を見ている。
カメラマンの男も喋り疲れたのか、うつらうつらしている。光の着替えの衣服を下に敷いて座ったまま、腕を組んで。
光もそうだった。衣服を下に、リュックを背中に当て、ダウンジャケットのフードを被って、ポケットに両手を入れている。寝袋があると横になれるんだけど。
♤
――ダメです、下は熱湯でぶくぶく滾(たぎ)っています。
――そうかい、じゃあ上を掘ろう。階段のように堀進めばいつか外に出られるだろう。
――ダメです、倒れた木の幹や枝が邪魔をして。
――それなら反対側をーー。
――反対側は崖です。
♤
――ヒカル、置いて行かないでよう!
♤
――ダスビダーニャ!
♤
――おい、キミ。ダメだよう、こんなところで眠っちゃあ!
という声で揺り起こされた。
「ここは……?」
「眠ったら、そのまま凍死してしまう。体温が低下しているんだ」
「……寒い」
「寒いと糖分の消費が多くなる。チョコまだある? チョコを食べてから、体を動かそう」
「今、何時ですか?」
「まだ夜中の三時だけどね」
光はリュックから板チョコを取り出して、半分に割り、カメラマンと分け合って食べた。
「亀裂に沿って下を掘ってみよう。空き缶を潰せるといいんだけど。なにか固いものは持ってないよねえ」
「も、持ってないです」
肌着に包(くる)んだ拳銃を持っているとはいえない。
「よし、じゃあ仕方がない。始めよう」
それぞれジュースの空き缶を持って、足元の雪を削り取っては亀裂に流し込んだ。
それでは埒(らち)があかないけど体は温まった。
「熱湯が流れているってことはないですか?」
「上の源泉は熱湯だけど、ここまで来ればそうでもないさ」
二時間かけて、岩にぶつかった。
岩に沿って堀り進むと、ボソッと底が抜けた。
抜けたけど、その下にまた岩があった。
その岩を挟むようにして大きな岩があった。
つまりそこで行き止まりだった。
そこに下りてから向かい側の大きな岩をよじ登り、天井の雪を削り取りながらその岩を乗り越えるか。
もしくは一からやり直し、反対側に方向を変えて掘るか。
思案のしどころだった。
岩の切れ目からはせせらぎの音がして温風が吹き上げて来る。けど人が通り抜けるほどの隙間ではない。
それは上流に向かうか下流に向かうかの選択でもあった。
「キミはどっちを選ぶ? こういう場合、運を天に任せる人がいるけど、ワタシなら後悔しないように自分で選ぶ」
そういいながら人の意見を聞いているではないか。自分が間違った時の保険をかけている。
「自分は……」
「うん」
「自分は、か……」
「うん、うん」
「任せます」
「なに? ダメだよキミ、人の意見に追随しちゃあ。まあ、しかしどっちにしてもたいした違いはないけどね。一歩下って二歩上るって、手もあるし。
ならこうしよう、足を骨折しているワタシとしては、添え木もないことだし、キミの手を借りないと歩けない身だからねえ、キミに任せるよ。いってごらん」
「じゃあーー」
“わたしがその大きな岩を転がして来たのではない、山を転がして来たのだ”
「自分は途中から方針を変えるのは嫌いです」
「よし、じゃあそれで決まりだな。キミ、すまないけど、ワタシを背負ってくれないか。下りるのはなんとか手助けがあれば一人でも下りれそうだけど、登るのはねえ、踏ん張りがきかなくて」
カメラマンは思ったより軽かったけど、こんなんじゃ先が思いやられる。
一人でも難儀な所をーー。
「今何時ですか?」
「うんと、まだ七時前だよ」
二人三脚でなんとか大きな岩を乗り越えることができた。
それから大小様々な岩や岩盤を難儀しながら乗り越え乗り越えして、ひたすら上流を目指した。
もはや雪を溶かして渓流のように流れる川とフラットになっている。
相変わらず天井は厚い雪の壁で覆われているけど、水流の上はトンネルみたいになっていて、立って歩けるほどの高さの所もあった。
川に入り、ほどよい温水で手足を温めることもできた。
カメラマンは木切れを拾って添え木にし、素足には光の着替えの肌着を巻きつけている。
手頃な大きさの樫の枯れ木を杖にしていたけど、光の介助なしに岩を登ったり下りたりはできない。
空き缶を石で潰して、移植ゴテのようにして効率的に雪を掘れるようになったけど、ゴロゴロした岩や岩盤や倒木の枝がしばしば行く手を阻んだ。
逆に岩と岩との間にトンネルができていて、楽々抜けられることもあった。倒木を利用して垂直の崖をやり過ごすこともできた。
それでも百メートル進むのに何時間かかったか知れない。
お昼を過ぎたところで、最後の食事をした。
もうリュックの中には菓子類が少々残っているだけ。
日頃から菓子類はあまり食べない光だが、カレンのリュックに入りきれない分を入れていて助かった。
あとはカメラマンのテントの中の食糧が頼り。
二人は岩に腰掛け、足湯をしながらくつろいでいた。
「……そうだなあ、ここまで来ればもう外に出られるのは時間の問題だよ」とカメラマンはウエハースを頬張りながらいった。
「テントまではまだだいぶあるけどね」
光はできれば暗くなるまで雪に埋もれていたいと思った。
今頃は上に追っ手がうようよしているはずだ。
まさか物凄い吹雪だなどとは思いもしない。
カメラマンの男は、細い切れ長の目で時折盗み見るように光を見た。
が、依然として光のことはなにも聞かない。聞かないということは知っているということ。
光は彼の視線は感じていた。でも知っていようがいまいが気にしない。通報されたら困るけど、とりあえず今のところその心配はない。
光は他人(ひと)のことに興味がない。というかあらゆることに関心を失っている。
だから他人との会話は成り立たない。一方的に相手のいうことを聞くだけ。必要な質問はするけど、それ以上相手のことを知りたいとも思わないから、相手と会話を組むことがない。
だから他人との距離はいつも一定。それ以上縮まることはない。だから親しい友達もできなかったのだ。
カレンともそうだった。わずかな間だったけど、カレンを連れて逃げるほどの絆(きずな)を築けなかった。その後カレンがどうなったのかも、知りたいとも思わない。
出馬亀成カメラマンは焦れたように遠まわしにいった。
「山頂でご来光を拝むなら、登山道に出る道――といっても獣道だけどね。教えてあげるよ。山頂まで案内してあげたいけど、こんなんじゃあ、返って足手まといになる」
光は目を細めて答えた。
「お願いします。明日の朝一番に出かけたいですから」
その際、ご来光目当ての登山者はいるのだろうか聞きたかったけど、先まわりしてカメラマンがいった。
「今日あたりから天候が崩れるようなことをいってたから、ほかに登山者はいないと思うけど、山頂への道はわかりやすい」
しっかり携帯ラジオかなにかで情報を得ていたのだ。天候が変わりやすい山で、気象情報はなによりも大事。
だが光の頭の中は、今外に出るのはまずいということだけ。かといってカメラマンを引き止める気もない。
「さて、行こうか。あと一息だ」
といってカメラマンが立ち上がった。
上流に向かうほど水量は少なくなり、川の水の温度が高くなった。
硫黄のにおいがして来て、もはやお湯の域を超えて熱湯になり、手足を浸けることは叶わない。
ばかりか水蒸気が上がって前が見えないほどになった。
水蒸気は大火の煙のように風を伴っていた。
風を伴った水蒸気の煙の中を手さぐりで進んでいるうち、いつの間にか外に出ていた。
だけどどうしたことか、午後の三時だというのに外は暗かった。
暗いばかりか、荒れ狂う雪嵐だった。
雷鳴が轟き、稲妻が何本も立って、髪を振り乱した雪女の叫びのような雪(ゆき)坂巻(しまき)。
夢の中で見た光景そのままだった。
――ああ、神様、なにをお怒りなのですか!
4
ー―神の山だ!
ついにやって来た。
光は立ち上がって嵐に身を任せた。
モーゼになったような気分で両腕を差し出したーー。
カメラマンも樫の棒を杖に横に立った。
「これでは嵐が治まるまで雪の中にいたほうがよさそうだね」といった。
雪の中で一晩過ごすことになるかも知れないと覚悟していたら、小一時間もしないうちに、ウソのように嵐は治まった。
黒岳の嶺が姿を現し、上空の厚い雲が破れて、光がシャワーのように降り注いだ。
オーロラのように連峰の嶺々を明るく照らした。
――おお! なんという光景だ!
カメラマンは大急ぎで肩に掛けていたカメラを手にして、シャッターの連続音を立てながらぐるりと回った。
黒岳の嶺は夕日を受けて見る間に黄金色に染まった。
――おお! これは凄い! 凄いぞ、これは!
あわただしくフイルムを入れ替えて、機関銃のようにシャッター音をさせて撮影しまくった。
そしてカメラマンは最後に、黒岳の嶺をバックに二人のツーショットを自動シャッターで撮った。
のちに彼は雪上カメラマンとして名をなし、バラエティー番組の寵児となっているが、それらの傑作写真を含めて、それ以上のことを為(な)したがゆえである。
出馬亀成カメラマンのテントで一夜を過ごした光は神の声を聞いて目覚めた。
“山に登りなさい”
空は紫色に明け初めていた。
大雪の嶺々は稜線をくっきりさせていて、渓谷はまだ深い眠りに沈んでいた。
昨夜は焚き火を囲んで、晩くまで一人で喋っていたカメラマンは、蓑(みの)虫(むし)のように寝袋の中で寝息を立てている。
カメラマンがどこかに携帯で電話していたような気がするけど、夢かも知れない。
ごそごそ動き回っていたのもーー。
疲れ果てていて、それにしては色々な夢を見た。けど覚えているのはそれだけだった。
光は身支度を整えるとそっとテントを出た。
神の山を目指した。
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