第七章 警視正・黒田武虎
1
雪渓に小さな影があった。
小さな影は、まばらな高山植物や岩陰に見え隠れしていたが、全く姿が見えなくなった。
――どうした?
ややしばらくして、雪の斜面を掃くように流れる雪煙の中から、ウサギのように姿を現した。
雪崩地帯はそうとうな風が吹いているはずだ。風は昨日(きのう)降った表層雪を吹き飛ばして、波状にその姿を具現している。
気温は年平均でも頂上付近はマイナス3・8度だから、今は推して知るべし。信じられない光景である。
万年雪帯を抜けると、随分背丈が短くなったエドマツ・トドマツ、そしてダケカンバやナナカマドから、強風に耐えられる、もっと低いハイマツやハンノキなどに植生が変わる。
小さな影が長らく姿を消すことがなくなった。
ホッとしていると、麓(ふもと)の谷底から霧が這い上がって来て、たちまち小さな影を呑み込んでしまった。
リフト乗り場も、ペアリフトも、エドマツの梢(こずえ)も、なにもかも真っ白にして、山頂に向かって這い上がって来る。
――あとは天に祈るしかないな。
真部光が雪渓に姿を現した。
銀色のダウンジャケットの上に、出馬亀成カメラマンから調達したと思われる、丈の長いモスグリーンのヤッケを羽織り、腰の辺りを天然(てんねん)蔓(かずら)で縛って、とんがり帽子のようなフードを被っている。
長い木の棒を杖にして、一歩一歩足場を確保しながら、斜面を登って来る。
その姿は、背負ったリュックを含め、たちまち雪の粉を塗(まぶ)して雪と見分けがつかないくらい白くなってしまった。
フードには氷柱(つらら)が下がり、黒ずんだ顔の、眉毛(まゆげ)や睫毛(まつげ)、伸びた髭も、針のように煌(きら)めいていることだろう。
吐く息は金粉のように輝いて、舞う。
何しろ氷点下10度以下なのだ。
♤
黒雲の中で無数の稲妻が光り、天が割れんばかりの雷鳴が轟いている。
“――罪深き者よ。
わたしが大陸から転がして来た山々を見よ。
聖なる光を見よ。
それが、わたしだーー“
天蓋(てんがい)にひびが入って、そこから光のカーテンが下りて来た。
それが揺れながらひとつにまとまり、光の柱となった。
――おお、神よ!
♤
背負ったリュックには食料品は入っていない。
衣類と聖書と拳銃だけ。
テントには豊富に食料はあったけど、もはや必要ないのだ。
カメラマンに教えてもらったコースを登るだけ。
うまくいけば、七合目のリフト乗り場より上の登山道に出るという。
標高1520メートルより上だから、そこから標高1954メートルの頂上までは、わずか500メートル余りの距離になる。
――おお、霧だ!
霧が這い上がって来る!
ダケカンバの林を縫うようにしてーー。
♤
――光、これからはあんたが父さんの代わりに、母さんと聖也を守るんだよ。
――ふん! 中学生になったからって、偉そうに。
♤
――お許しください、なにものにも代え難い家族を守るためにはああするしかなかったのです。
♤
――驚いたやつだな。
とうとう登山道まで登りよった。
やれやれだが、これからが大変だぞ、強風と、百メートルごとに0、6度気温が下がる狭い尾根だ。
♤
霧が晴れると風は治まった。
天空を覆っていた黒雲の群れは綺麗に掃き清められていた。
インジゴブルーの空には白い雲が幾つか浮いているだけ。
西の空に金色に輝く大きく丸い月があった。
そのそばで明けの明星がチラチラ輝いている。
月と星と、そして日輪ーー大パノラマの東の稜線から上の空が、明るさを増していた。
“急ぎなさい”
真部光はウラジロなどの下草に足を取られて転び、滑っては転びしながら急坂を急いだ。
つもりだけど思うように足が運ばない。
過呼吸に喘いだ。
樫の杖に寄り掛かり、虚空(こくう)を見上げて気息を整える。
――もう少し、あと少しです。
再び感覚のなくなった足を運ぶ。
一歩一歩。
また一歩。
急坂を過ぎると、登山道は緩やかに蛇行しながら山頂に向かっている。
山頂はまだ薄ぼんやり白んでいた。
一歩一歩、また一歩。
進むにつれ、次第に景色は下のほうに移動した。
足元にひれ伏すように。
蒼茫(そうぼう)とした虚空は広がる。
大雪山の嶺々――北海岳、烏帽子岳、赤岳と、肩を並べる。
嶺の上の月は輝きを失い、薄らんでゆく。
明けの明星はいっそう輝きを増した。
そしてついに真部光は神(カムイ)の山の頂上に立った。
樫の杖を置き、リュックを下ろして、両手を虚空に差し伸べて立った。
大パノラマは彼の足元に広がっていた。
今まさに姿を現そうとしている東の稜線の日輪でさえーー。
そのために彼は跪(ひざまず)かなければならなかった。
曙光(しょこう)に向いて跪いた。
リュックから拳銃を取り出して、ハンマーを起こし、シリンダーを回して銃弾の位置を合わせた。
引き金を引けばーー終わる。
煉獄(れんごく)の火に焼かれ、審判が下される。
真部光は冷たい銃口を咥えた。
そして待った。
月と星と日輪が揃うのをーー。
やがて清澄(せいちょう)な東の空が赤らみ、稜線にチラチラ炎(かぎろい)が瞬いて、日輪がその姿を現した。
月と、星と、日輪――。
真部光は勢いよく引き金を引いたーー。
♤
――おお、見よ!
――あれはなんだ!
――なんなんだあれは!
2
――ブロッケン現象だ!
――なんです? それはーー。
――日の出の光を受けて、少年の影が雲に映っているんだ。
後光が射したように半円形の虹が取り巻いているだろ……。
――仏像のようですね。
♤
――?
カチャッというハンマーが銃弾を叩く音はしたけど、弾は出なかった。
光は極度の緊張によりブルブル震えながら、膝の上に上体を倒した。
両手に握った拳銃を咥えたままーー。
頭の中は真っ白で、なにも考えられなかった。
♤
「行きますか」といって滝川警部は身を起こした。
「よし、行こう」
という黒田警視正の一声で、登山道に伏せていた厚い防寒服を着た警官たちが、雪を払いながら立ち上がった。
無線機を持った警視正が「行くぞ」というと、北海岳へ向かう石室(いしむろ)トイレ辺りからも、大勢の警官が黒岳山頂に向かった。
滝川警部はゆっくりと真部光に近づいた。
ひざまずいたまま、呆然(ぼうぜん)と拳銃を見つめている真部光の肩に手を置いて、警部はいった。
「神の審判は下されたようだな」
真部光は警部の顔を見上げ、そしてまた拳銃を見た。
朝日を受けて白く光る山頂に、黒い人だかりが影をなして、マリーブルーに変わった大空には、イヌワシが二羽、悠然と舞っていた。
かくして、事件からひと月余りで真部光の逃走劇は終わった。
少年逮捕に協力したカメラマンは、厚い雲の切れ目から漏れた光のシャワー写真や、黒岳山頂をバックに撮った少年とのスナップ写真共々、マスコミの脚光を浴びることになった。
光のローブをまとった神の御姿(みすがた)を撮った男“雪上カメラマン”ともてはやされ、一躍、その独特の柔らかい口調で、バラエティーの寵児となった。
彼は真部光少年が眠っている間に、銃弾から火薬を抜き取り、警察に連絡した。
その勇気ある行動は少年の命をも救ったのである。
逮捕された真部光は、少年法に基づいて、家庭裁判所に送致され、家庭裁判所の審判を受けることになった。
島袋カレンは両親に引き取られて沖縄の実家に帰り、高校生活に戻った。
そして、滝川警部は、警視に昇進して定年を迎えたのである。
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