第二章 警部・滝川晴信
1
〇▽川にかかる鉄橋の下で、若い男女五人の死体が発見されてから三日目に、警察は事件の鍵を握ると思われる少年を、全国に指名手配した。
―ー真部光(まなべひかる)(十六才)。
未成年であるにもかかわらず、警察が公開捜査に踏み切ったのは、少年が拳銃を所持しているとみられ、まだ未発見の実弾二発が残されていたからである。自殺の恐れもあった。
河原に遊びに来た児童らと犬が第一発見者であった。
五人の遺体の死因は、二人は銃撃により即死、二人は水死、一人は失血死であった。
事件現場に駆けつけた滝川警部は、最悪の事態になって、天を仰いだ。
滝川警部の公園での聞き込みによる容疑者は、浮浪者と、学生服姿の少年。
拳銃と実弾十一発を公園に棄てた、元暴力団構成員の亀谷正己はすぐに名乗り出たし、学生服姿の少年も、被害者の高校の制服と一致、被害者らに手ひどいイジメを受けていた事実もあって、すぐに突き止められた。
しかし、少年はすでに家出していた。
滝川警部は少年の家を訪問して事情を聞いた。少年が行きそうなところを家族にたずねた。
行きがかりから、定年間際の窓際族であった生活安全課の滝川警部は、そのまま事件捜査の捜査一課とは別に、少年・真部光の行方を追跡する専従捜査員となったのである。
家族三人は刑事らの質問ぜめにあったあとなので、もううんざりした顔をしていた。
スーパーに務める四十五歳の母親と、銀行員の二十一歳の姉と、十二歳の小学六生の弟、父親とは十年前に死別していた。
表にはマスコミや、やじ馬が大勢押しかけていて、母親と姉は出るに出られず会社を休み、小学生の弟も学校を休んでいた。
滝川警部はまず表の連中を追い払った。若いころはマル暴の荒くれ刑事だった警部の人相は決してよくない。中肉中背ながら、声にも凄(すご)みがあった。
だけど年齢とともに刻まれた皺(しわ)から、苦(にが)み走った顔に人のよさが滲(にじ)み出ている。
「早く見つけてあげないと、自殺の恐れがあるのですよ」と警部にいわれて、母親はうろたえ、すがるように警部を見た。
「親しくしていた友達とかは?」
「それが……」といって母親は娘と息子を見やってから「誰もいないと思います」という。
同意を求められた娘と息子は下を向いて、ふたりとも泣きやんだ幼子がするように、身震いして声もなくしゃくりあげた。
弟と母親が〈ふくよかな〉体形がよく似ていた。姉はまったく顔つきが違って、小顔で細身の美形だった。どちらかというと光少年もそう、ふたりは父親似かも知れない。
その娘子がぽつりとつぶやいた。
「死ぬとしたら黒岳かなあ……」
少年が立ち寄りそうなところへはすでに刑事課の連中が飛んでいて、その情報は逐一滝川警部の耳にも入った。刑事課の中に、警部と親しい警部補がいたのだ。
もう靴をすり減らして飛び回る歳でもなかった。もっぱら、隅に追いやられたデスクで腕を組み、壁に張られた府警管内地図を眺めていた。
有力情報が入った時だけ出かけて行って、防犯カメラに映っている少年を確かめ、捜査員らが付近の聞き込みに歩いたあとを、猟犬のようにうろついた。
そしてまた署に戻り、地図上に、少年が現れた位置を示す緑色の丸い磁石を貼りつけて、それが一個一個増えていくのを、デスクで腕を組んで眺める。真部光が管内を逃げ回っている様子が手に取るようにわかった。
真部光は、その人となりから、あのような大それた罪を犯すタイプではない。じっと忍ぶか、どちらかといえば、家族のために自分のほうを殺すタイプである。
多くの犯罪者や反社会的性格者を見て来た警部にはそう思える。家族や周囲の誰もが信じられない、というのももっともである。
だがその一方で、誰しも犯罪者たりえる素因を持っているーーというのも、警部の持論である。閉じ込めておく錠前の強弱はあってもーー。
不幸にして拳銃を手にしたことが、その錠前を外す一因となったことは否めないだろう。
それほどまでに今日日の“イジメ”はひどい! 逃げ場がないところまで追い込む。許せないのは、イジメる側が卑怯にも多勢であることだ。一人で多勢に立ち向かうことはできない。
たいてい悔し涙を流しながら独り淋しく死んでいく。
まったく許しがたい連中だ。警部は憤懣(ふんまん)やるかたない怒りに震えた。
願わくば、追い詰められた少年がこれ以上罪を重ねることがないように、そして自殺することもなく、無事確保されることである。
情状酌量の余地は充分にあるのだ。
そこへ、刑事課の志村警部補から携帯に電話が入った。
――タキさん、大阪駅構内の防犯カメラに少年らしき姿が複数映っておりました。
「なに、本当か!」
――昨日の午前九時頃のことですが。詳しいことは、今、画像解析しておりますのでーー。
「よしわかった! すぐに向かう」
(昨日の午前九時頃か……)
滝川警部は携帯を閉じてから改めてまた管内地図を見た。
(少年はもう管内から出たかも知れないな)
管内を超えて追跡するのが警部の役目だ。
少年が家から持ち出したお金は四十数万円。そのうちどれだけ少年らに脅し取られたか知れないけど、所持金がなくなるまでが勝負。
それから先は危険だ。
♤
光は、その日のうちに家を出ていた。
リュックには、聖書と、衣類に包んだ拳銃と、ほかに細々とした日用品を詰め込んでーー。
所持金は十万円少々――。
あれだけ降っていた雨はウソのように止んでいた。
悪い血を洗い流して、清々(すがすが)しい霧が立ち上っていた。
西の空は焼け爛(ただ)れた鉄のような色で暮れなずんでいた。
まるで光のゆく道を照らすかのように。
朝焼けといい、豪雨といい、夕焼けといい、これが神の御徴(みしるし)でなくて、なんであろうか。
神は堕落したソドムとゴモラの町に燃える硫黄の雨を降らせて焼き滅ぼされた。
老人も女も子供も病人も妊婦も容赦しなかった。
正しい行ないをしない者たちのために、そのような者たちまで犠牲になるのは悲しい。
ゆえに神に代わって自分が悪を滅ぼした。
――目には目を!
命には命を以って、償(つぐな)わなければならない。
だから今度は神との契約によって自分自身を滅ぼさなければならない。
残り弾は一発。
光は足のおもむくまま、神に導かれるように、死出の旅に出たのだった。
2
少年は大阪駅でスイカを買い求め、東海道本線上りの急行に飛び乗っている。京都まで移動し、京都のどこかで一泊したものと思われる。
翌朝には姿を変えて、警戒が厳しい京都駅を避けて無警戒の山科駅まで移動し、そこから湖西線に乗り、午後三時過ぎには北陸本線の駿河駅に達していた。
東海道上り線の主だった駅を警戒していた警察は完全に裏をかかれて、見失っていた。
少年は無警戒の北陸本線で金沢駅へ。金沢からどうやら七尾線で、和倉温泉に向かったようだ。終着駅の和倉温泉で車掌に現認されている。
車掌は眠り込んでいる少年に声をかけたのであるが、その時は単なる観光客と思っていた。少年の風貌も手配写真とは随分違っていて、違っていないのは草色のリュックだけだった。
後日、のと鉄道の車掌から心もとない通報を受けてようやく、湖西線の山科駅と、北陸本線の駿河駅、金沢駅などの防犯カメラが調べられ、和倉温泉までの少年〈らしき者〉の足取りがつかめたのだ。
その映像の転送を受けて滝川警部は叫んだ。
――真部光に間違いない、草色のリュックを追え!
滝川警部も和倉温泉に向かった。
♤
光はいつしか夢と現実の狭間をさまようようになっていた。
京都の公園で野宿して目覚めると、京都の街中に自分の姿が氾濫していた。繁華街のテレビにはきっと自分の姿があった。家を出た時のTシャツにジージャン、リーバイスにスニーカー姿。
要所要所には警察官の姿と、物陰からパトカーが見え隠れしていた。
街頭の看板から自分の姿が自分を指さしていた。
街中の目が自分に向けられているようで、光は自分の姿に追われて衣装を替えながら逃げ惑った。
しまいには青いフーセンを持った小さな子供にまで指さされ、走って来たバスに飛び乗って京都を出た。
青いフーセンを持った女の子は、バスの中でも光を見つめて悪魔のように嗤った。
バスは小さな駅に着いた。
光はそこに停まっている短い電車に逃げ込んだ。
そして窓辺に顔を伏せているうち眠り込んだ。
いつ目覚めるとはなしに目覚めると、ボーと窓の外を眺めている自分がいた。
電車は湖に沿って走っている。
窓の景色はしかし幼い頃の景色に変わって流れた。
そのころの楽しい思い出が次々に思い起こされた。
そこにはおぼろげな父の姿もあった。
母と姉と弟とーー。
遠くでクジラが跳ねてわれに返った。
やがて駿河(するが)という文字が目につくようになって駿河駅に着いた。
駅のホームには鋭い目つきの人間たちが棒のように立っていた。
人をかき分けて電車から出ると、光はホームや階段をむやみに走った。
人の視線が絡みついてくるのを振り切って走った。
そして滑り込んできた電車に飛び乗った。
誰も座っていない席を探して座り、リュックを抱いてうずくまった。
そのまま眠ってしまい、周りが騒がしくなって目覚めた。
電車は駅に着いていた。
じっとしていると疑われると思い、トレーナーのフードで顔を隠すようにしてみんなと一緒に並んで電車から降りた。
そこは金沢駅だった。
そこからまた乗降客の少ない電車に乗り換えた。
途中の駅で、またさらに乗降客の少ない短い電車に乗り換えた。
乗客はまばら。
もう誰も追って来ない。
朝から飲まず食わずでそこまで来て、ようやく安心した光は急速にまた睡魔に襲われた。
そして車掌に揺り動かされて目覚めると、そこは知らない町の終着駅だった。
海に面したその温泉町のコンビニで、ジュースと菓子パンを買ってむさぼり食べた。
そこは大阪よりずっと寒いのでトレーナーの下に肌着を何枚も着込んで歩いた。
知らない町を当てもなく歩いていると、
ーーウウウ~ッ!
と、いきなりサイレンの音がして、パトカーに取り囲まれた。
♤
町中を逃げ回り、でもどこへ逃げても先まわりされて、からくもかわして逃げた。
逃げて、逃げて、随分遠くまで逃げたからもう安心――と思っていると、パトカーは数を増やして、四方八方から現れた。
――うわ~っ!
と、悲鳴を上げて目が覚める。
目が覚めると、暗がりにうずくまっている自分がいた。
目が慣れて見ると、そこはちょろちょろ水が流れる水路の、暗渠(トンネル)のような所だった。両サイドに明るみがあった。
髪はぼさぼさ、灰色のトレーナーはボロボロ、草色のリュックだけはしっかり抱いていた。
そして猛烈にお腹を空かせていた。
♤
そしてまた気がついたら、荒れる海岸端を歩いていた。
暗い海は夢の中の魔獣のようだった。
魔獣の咆哮(ほうこう)のような音を立てて岸壁に打ち上がり、身を切るような冷たい風と、水しぶきを、光に浴びせかけて来た。
フードを被り、トレーナーの上から襤褸(ぼろ)を纏(まと)った光はーー背中のリュックだけは変わりなかったーーガチガチ歯を鳴らし、ブルブルふるえながら歩いた。
時折、車のライトが行き来したけど、止まりはしなかった。
水しぶきはいつの間にか霙(みぞれ)に変わっていた。
霙はやがて雪に変わった。
稲光がして、遠くで雷鳴が轟いた。
――魔物がまたやって来る。
ゆらりと体が揺れて、光は襤褸(ぼろ)布のようにバサッと崩れた。
また意識が遠のくーー。
♤
フェードインすると、そこは雄大な北海道の原野だった。
外国のような雄大な景色に、気分がスカッとした。
谷から霧が這い上がって来て、ダケカンバの林を縫ってゆく。
石北峠の、そして黒岳の幻想的な景色……。
父が死んで、母と姉と弟と三人で行った、初めての家族旅行の夢だった。
――北海道に行ってみたいな……。
とつぶやいて、光は目覚めた。
目の上に、皴が深く刻まれた老人の顔がふたつ、次第に形を整える。
――おお、気がついたか。
――よかった!
と、しわがれた声が降って来た。
老人と老婆だった。
その家で、温かい食べ物を食べさせてもらい、炬燵とストーブで温まり、そして風呂にも入れさせてもらった。
体の内外から、芯から温まった光は、正体なくまた爆睡した。
♤
そしてまた夢を見た。
雨戸を蹴破って逃げる夢を見た。
大勢の警官や消防団や犬に追いかけられる夢を見た。
♤
そして気が付いたら、海蝕(かいしょく)洞(どう)の中で拳銃を口に咥(くわ)えていた。
3
石川県能登半島の七尾線和倉温泉駅で、真部光らしき少年が目撃されたというので、滝川警部がすっ飛んで来ると、大勢の刑事や警察官が少年の行方を追っていた。
少年は駅前のコンビニで菓子パンやジュースなどを買っており、海岸端で食べた形跡があった。
田鶴浜の海岸を歩いているところを発見、包囲したのであるが、間一髪取り逃がしてしまった。
次に少年が目撃されたのは事件から十三日目の夕方だった。
能登半島の突端部分の、宝立山の林道を歩いているところを、キノコ採りの町民によって誰何(すいか)され、山の中に逃げ込んでいる。
その時の風貌は、薄汚れた農作業服姿で、髪も伸びていて、目が異様に輝いていた。背中のリュックだけは、手配写真のままだったという。
大がかりな山狩が行われたにもかかわらず、少年は再び姿をくらませた。
それからまた一週間が経ち、事件から二十日目の朝、新潟県の柏崎市笠島の民家から通報があって、最寄りの警察が駆けつけたけど、またしても間一髪のところで取り逃がしている。
ここでも大がかりな捜索が行われたものの、杳(よう)として少年の消息はつかめなかった。
そしてそれを最後に、少年の目撃情報はふっつり途絶えた。
海に身を投げたのではないかという風説がもっぱらだった。
少年の草色のリュックが、鯨波の海岸に打ち上げられていたからである。
だけどリュックの中から拳銃は見つからなかった。
滝川警部は、荒れ狂う北陸海岸に立って海を見つめた。
偶然拾った拳銃が、少年の人生を狂わせたのだろうか?
少年はイジメの現状を、他人事のように、大学ノートに書き連ねていた。
そして、こう何度も何度も殴り書きしていた。
――殺してやる!
――死ぬしかない。
殺してやりたいけど、家族のことを思えばできない、という煩悶だった。
ならば、首を吊るなりして少年が独りで死ねばよかったのか?
そうすれば自殺に追い込んだガキどもが反省するとでも?
イジメによる痛ましい子供の自殺事件はあとを絶たない。そのたびに警部は、警察官らしからぬ憤りに身を震わせる。たいがい、家族のために自分が死ぬほうを選ぶからだ。
――人の痛みがわからないやつには、同じ痛みを味あわせてやるしかあるものか!
警部は抑えがたい憤怒を、白い息にして吐き出した。
少年にはどこかで生きていて欲しいと思う。
これ以上罪を重ねなければ、情状酌量の余地は充分にあるのだ。
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