第十九章 検事・神山宗一郎


    1


 ――カレン、しっかりしろ!

 ――ヒカル、置いてかないで……。

 ――置いてくもんか、そういったろ。

 ――サロマ湖に連れてって……。

 ――ああ、いいとも。

 ――だが待ってろよ、今また新手が現れやがったからな。

 ー―今度はどんなの……強そう?

 ――ドイツ軍のような制服着たのが六人、いや、七人になった。

 ――気をつけて……。

 ――ペドロフ隊長はどこ行っちゃったのかなあ……肝心な時にいつもいないんだからーー。

 ――あれ?

 ――どうしたの?

 ――ぺぺ軍曹殿がいない! 剣もない。

 これじゃあ、戦えないよう!


 死刑囚は、右肩を上げ、その方向に首をねじ曲げて、なにやら意味不明の言葉をつぶやいっている。

 背中に向けてーー。

 女声になったりーー。

 かと思うと、片膝立てに腰を落として、誰かと会話を始めた。

 首はねじ曲がったままだ。

 坊主頭で、いまだ少年のようだった死刑囚の顔が、今は引きつったように歪(ゆが)んで〈口も歪み〉別人のような面相になっている。


 刑務官たちは唖然として見つめた。

「げ、月曜日までは、こうじゃなかったです」

 牧看守部長が弁明した。

「火曜日あたりからおかしな素振りはありましたけど……」

「すると、月曜日の家族との面会でーー」副看守長の阿部がつぶやいた。

「面会は誰が?」

 と主席矯正処遇官の今宮が厳しい口調でいう。

「はい、母親が死んだので、それをどうしても兄に伝えたいからと、弟の真部星也が面会を求めて来ましたので、嫌がる死刑囚を説得しました」

 阿部副看守長が、今宮主席矯正処遇官に説明する。

「家族との面会はいつも本人が固く拒絶しておるのですが、法務大臣から執行命令書が届いたおりでもありますし、強引に面会させたのでありますが……」

「そのストレスで……か?」

 今宮主席矯正処遇官は腕を組んで顎(あご)を撫でた。

「いくらなんでも、このままじゃ、まずいな。首をもとに戻してみろ」

 屈強な警備隊員が三人がかりで、死刑囚の頭をもとに戻そうとした。

 だが、頑として頭は肩に張りついたまま戻らない。

 しまいには、一番ガタイの大きな警備隊長の杉山が、死刑囚の片腹に編み上げ靴を当て、力任せに頭を起こそうとしたけど、びくともしない。

「強情なやつだな。もういい。それ以上やると首がもげてしまう」

「詐病(さびょう)ということにすれば」と警備隊長の杉山は息を突きながらいう。

「そうだな。よし、連行しろ!」


 真部光は必至の抵抗を見せたけど、三人もの屈強な警備隊員にかなうわけがない。

 なんなく取り押さえられて、後ろ手に手錠を打たれた。


 ――カレンごめん、捕虜になっちまったよう。


 刑場までの道程でも、真部光は、背中に向けて意味不明の言葉を喋りかけていた。

 やがて、刑場への階段を両側から腕を取られて上る。

 一歩一歩。


 ーーカレン、残念だけど、ぼくたちの命も、これまでかも知れない……。

 ー―ふたり一緒なら本望だわ、ヒカル。


 ーーシャドウ様、シャドウ様、どうしてぼくたちをお見捨てになるのですか。


 階段を上りつめると、廊下を少し進んで、左側のドアが開けられて、中に入った。

 そこが刑場であった。


    2


 ――そうしますと、ゼロ様、この宇宙は一方ではブラックホールに吸い込まれているとおっしゃるのですか?


“――そうだ。


 ――特異点から野球のボール大にインフレーションして、そこから大爆発を起こして百三十七億光年先まで飛び散った宇宙が、今度は一方から収縮を始めるというのですか?


“というより、針で突いた穴より小さな、わがブラックホールに吸い込まれているーーといった方が正しい”


 ――うふふふ。

 この宇宙が針の穴より小さいブラックホールにですか?


“ーーそうだ。

物質が粒子であると同時に波動である、というのは知ってるな“


 ――はい。わが国の偉大な物理学者の波束の理論ですね。


“物質を細かく砕いていくとどうなる?


 ――はい。原子から電子・陽子・中性子に砕けます。それからさらにクオークなどの素粒子に、それが今のところ最小の基本粒子ということになっております。


“それをさらに砕くと、チミとミロになり、ミロを砕くとミユーとニールになり、ニールを砕くとミリアムとアムスになり、アムスを砕くとセシルとマシラになり、マシラを砕くとイムとシムになり、シムを砕くと、ウドンとタドンになり、タドンを砕くとーー。

 そうやってとどのつまっりはゼロになるのだ。

 プラスでもマイナスでもない、大きさのない、ゼロになるのだ。

 つまり、波のない空間になるのだ。

 だからどんなに小さな穴でも通り抜けられる。


‐‐在るものでもなければ無いものでもない存在になると?


“――そうだ。

そうしてわがブラックホールを抜けると波が生まれ、粒子となり、ウドン・タドンになり、イム・シムになり、セシル・マシラムになり、ミリアム・アムスになり、ミュー・ニールになり、チロ・ミロになり、クオークなどの素粒子になり、原子になり、分子になり、高分子になり、鉱物になり、生物になり、星になり、星雲になり、銀河になり、銀河団になり、大宇宙になるのだ。


 ――それを永遠に繰り返していると?


“そしてその運営を任されているのが、この『在るものでも無いものでもない主』・ゼロである。

 わたしは希望を持たせたり、絶望から救ったはりしない“


 ー―カレン聞いたかい?

 運用を任されているんだって、一体誰に任されているんだろう?

 ――ねえカレンてばあ~、……カ、カレン!

 ――ちょっと、変なとこ触らないでよ!

 ――あ、ごめん! 後ろに手を回すと、ちょうどそのう……。


「所長、これは一体どういうことですか?」

「それが、検事さん、執行命令書が届いてから、急にこの有様です。でも作病だと思います」

「執行前告知をしたのですか?」

「いえ、以前のように、二、三日前に告知するということはしておりません。今は告知後すぐに執行することにしておりますので」

「どこからか漏れたということは?」

「それは、決してありませんーーですが、検事さん、死刑囚というのは敏感に感じ取ることはあります」

「この受刑者は自殺願望が強い。自殺防止房の中でも、しばしば自殺を図ったのでは?」

「はい、……」

「それがどういうわけで、執行を怖がるのでしょうかな」

「はあ……」

「ご覧なさいー―」


 刑の執行を指揮監督する検察官であるわたしは、求刑検事でもある。

 最後まで責任を持つて見届けるのが、求刑検事の本文であるが、仕事の都合で、代理人を立てる者が多い。

 でもわたしは、求刑検事として、その責任を全うすべく、ずっと当該犯罪者を見守って来た。

 警察や、家庭裁判所の関係者から聞き取り調査をしながらーー。

 そのわたしがーー。


 刑壇の上で、死刑囚は、垂れ下がったロープの白い輪に頭を当てて戯れている。

 輪っかが、ひとつ足りないと駄々をこねている。

 真部光はもうそこにはいない。

 受けいれ難い現実に耐えかねて、ファンタジーの世界に行ってしまっている。


「所長、執行指揮監督検察官として、刑事訴訟法第479条1項に基づき、刑の執行停止を命じます!」

「えっ! ですが検事、法務大臣の執行命令が出ているのですぞ」

「所長、わたしは執行指揮監督検察官として、ここにいるのです。

 事情が変わった、法務大臣への報告は後になりますが、とりあえず、執行は停止。なにか異存がありますか?」

「いえ……ございません」


 刑事訴訟法第479条1項は、死刑の言い渡しを受けた者が、心神喪失の状態に在る時は、刑の執行はできない、となっている。

 神山宗一郎検事から報告を受けた法務大臣は、執行命令を撤回し、当該死刑囚・真部光は、医療刑務所送致となったのである。

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