第十四章 使徒・ペドロフ
1
――勇者よ!
壁の中に長い杖をついた蓬髪の老人が立っていた。
古代ローマ人のように、ウールの長い布を体に巻きつけただけの衣装だった。
朧(おぼろ)ではなく、皴(しわ)をつかんだ顔に、落ち窪んだ目、高い鼻、薄く引き伸ばされた唇、尖って割れた顎まで、はっきり見えたーーけど、その実体はなかった。
壁に映し出されたホログラフのように。
老人の周りの壁といい天井といい、独房はいつの間にか無数の星が輝く銀河になっていた。
老人の体を透(すか)して遠くに銀河の渦巻きが幾つも見える。
ーーあなた様が?
――さよう、わしは『無いもの』の主・シャドー様の使徒・ペドロフである。
――勇者と、いわれましたか?
――そうだ、お前は勇敢な勇者だった。
――では使徒様、ぼくはどうすれば救われるのでしょうか?
――見よ。
といって使徒・ペドロフは両腕を広げた。
ーーマクロコスモスを見よ!
いわずと知れたことじゃが、サンのような恒星が一千億集まって、このような銀河を成し、この銀河が一千億集まって銀河団を成し、銀河団が一千億集まってーーというふうに、マクロコスモスは果てしない。
そして恒星は、それぞれ惑星や衛星を幾つも抱えておる。
――今のところ百三十七億光年辺りまでですね。
秒速三十万キロの光が、百三十七億年かけて、今ようやく届いております。
つまり、今のところ、宇宙の規模は百三十七億光年、年齢は百三十七億年ということにーー。
――うむ。
賢い子じゃ。だがな、勇者よ、それはほんの一部なのじゃ。その中でも神軍が支配するのはわずかなもの。
シャドー様はこの世界の九十七パーセントを支配しておられる。
――そのようにシャドー様からお聞きしました。
でも確かに、宇宙は外縁部に向かって、果てしなく膨張を続けておりますから、銀河団や銀河や星雲や星と星との間がどんどん広がって、いずれ途方もない無の空間になることはーー。
――そうじゃ。その通りじゃ。
――ということは使徒様、元に戻せば、ビックバン以前の宇宙は光の玉だったことに。
ホ―キンス博士などは光の玉どころか、特異点だったと。超高圧高密のプラズマ状態。
最近テレビで観たのですが、その点が、コンマ何秒かの間に、野球のボール大にインフレーションして、そこでビックバンが起き、百三十七億年かけて爆発的に広がり、冷えた物質を撒き散らしながら今のように飛び散っていると。
ということは使徒様、以前は神様のほうが圧倒的にーー。
“はじめに光ありき!”
と神の声がヒカルの頭に割り込んだ。
――そんなことはどうでもよい!
勇者よ、よく聞け!
と、シャドーの使徒・ペドロフは姿を濃くした。手を伸ばせば触れるくらいの密度になった。
――これらの星々は、神軍の監獄なのじゃ。
監視塔である恒星を中心に、惑星や衛星にシャドー軍の捕虜が閉じ込められておる。
無論、このアースにも高貴なお方が虜囚(りょしゅう)になっておられる。
――月にもですか?
ー―いや、ムーンとマーズは今空いている。
そのほかの惑星や衛星には捕虜がいて、サンの光で監視されておる。
――使徒様、ぼくに使命をお与えください! ぼくはどうしても生きねばならないのです。
ー―されば、お前には双子座で虜囚になっておられる高貴なお方を救出してもらおう。
――双子座ですか、随分遠いですね。
――心配するな、そのためにまず、このアースで虜囚になっておられる高貴なお方をお救いして、そのお方の背中に便乗させてもらって向かえば、一分とかからないーー。
――この地球の地下に囚われの身になっておられるお方は、どのようにして救出なさるのですか?
――今我が軍の特殊部隊が救出に向かっておる。
――そのお方はどの辺りに?
――さよう、頭はインドの地下深く、胴体は中国、手足は東南アジア、尻尾がちょうど、ここ日本でとぐろを巻いておられる。
――ええ~っ!
そんなに大きなお方ですか。ゴジラみたいですね。
でもそんなに大きなお方が出られたら地球が壊れてしまいます。
――おほほほ。
案ずるでない。案ずるでない。
勇者よ、そのお方は変幻自在に大きくなったり小さくなったりなされるのじゃ。
神軍に気付かれないように、富士山の火口から出られるから、それ相応の大きさになっておられるじゃろう。
――ということは、そのお方は空を飛べるわけですね、ラドンのように。
――飛べいでか。
尻尾をちょっと振っただけで、マーキュリー辺りまでひとっ飛びじゃ。
――おお見よ! 早くもご到着のようじゃ!
部屋の中が目映いばかりの明るさで満たされ、大風が吹いた。
杖を持った老人は両腕を広げ、トガをはためかせて宙に浮いている。
――勇者よ、まいるぞ。
ヒカルも体が宙に浮く感覚がした。
耳たぶ辺りの産毛が風になびく感覚もした。
宝石のように輝く、夜空の星を遮(さえぎ)るように隈取られたそれは、竜のような形をして浮かんでいた。
まさしくそれは伝説のドラゴンだった。
老人とヒカルはその背に跨(またが)った。
――いざゆかん!
目指すは双子座カストルじゃ。
――ゼウスの息子の双子の兄、カストールですね。
――神の国の話をするでない!
わしらはシャドー様のしもべなのじゃ。
――はい、すみません。
――ダスビダーニャ!
――なにかいいましたか?
――プーチン大統領にお別れをいっただけじゃーー。
2
フェードインすると、そこは褐色の荒涼とした世界だった。
天も地も、褐色のフイルム越しに見るような、鉄(てつ)錆(さび)色(いろ)の景色だった。
ゴロゴロした岩と砂の砂漠のような所だ。
――火星みたいな天体ですね、使徒様。
使徒様?
ヒカルは周(まわ)りを見まわした。
老人の姿がない。乗って来たドラゴンの姿もない。
ー―使徒様!
ペドロフ様~あ!
と、ヒカルは叫んだ。
叫びながら近くの砂丘を駆け上った。
頂上から見る景色も、見渡す限り、低い丘陵(きゅうりょう)と、砂丘がうねうね続く砂漠だった。
地平線まで。
人っ子一人見当たらない。
地平線の上の空はしかしブルーに染まりかけていた。
夜明けかも知れない。
とりあえず、もよおして来たので、ヒカルは立ちションを始めた。
高い砂丘の上は爽快な風が吹いていて、気持ち良かった。
小便は霧のようになって散っていく。
――ちょっと、こんなとこでしないでよ~!
という小さな声がした。
ヒカルはびっくりして振り返った。
だが誰もいない。
気のせいだと思って、体を揺すって滴(しずく)を切った。
――ああ~っ、きっちゃな!
飛びかかっちゃったじゃないよ~!
また声がした。
今度ははっきり聞き取れる大きな声だ。
ヒカルは納めるものを納めて、その場をひと回りした。
が、やっぱり誰もいない。
だけどファスナーを上げるため、ふと下を見てギョッとした。
足が二本多かったのだ。
四本の足が、その場を回ったり、戻ったりした。
――わっ!
――なにこれ!
首を捻じ曲げて見ると、同い年くらいの少女の横顔があった。
お互いびっくりして見つめ合おうとする。
けど、尻尾を追いかける犬のように、その場を廻るばかり。
太陽が両方から上がって来た。
カストルとボルックスだろうか?
するとここはカストルの衛星かなあ?
不思議な光景だった。
その朝陽を受けて、東か西か北か南かわからない空に、黒点のような影が見えた。
と思う間もなく、あっという間に飛んで来て舞い下りた。
――顔合わせはすんだようじゃな。
ドラゴンからコンビニ袋〈のようなもの〉を下げた老人が降りて来て、いった。
ドラゴンはその場にラクダのようにうずくまった。
――使徒様、これって、どういうことなのですか?
ぼくが背負っているのは何者でしょうか。
――それはこっちのいうセリフよう。
――勇者ヒカルよ、剣士カレンよ、聞くがよい。
ここ双子座ではまだ進化の過程で、オス・メスの雌雄同体なのじゃ。
そのシキタリに習って、お前たちも二人であって二人ではない、お尻の、尾骶骨で繋がれた一人なのじゃ。
――ええ~っ! マジっすかあ~。
――信じられな~い。
――従って、ここでは二人仲良くしないと生きてはゆけない。
ましてお前たちは戦士であるから、二人の呼吸が合わないと、戦えない。
これから一年かけて、お前たちを鍛え上げてから戦地に送り込む。
生き延びたければ、二人で一人になることじゃ。
――て、ことはあれですか、使徒様、寝る時も風呂に入る時もこの子と一緒ですか?
‐―無論そうじゃ。
――なにニヤついてのよう!
――で、でも用を足す時ぐらいはーー。
“絶望せし者たちよ。
どちらか一方が死ねば、骸骨を背負って歩くことになるであろう”
天からシャドーの声がした。
――ええ~っ!!
ヒカルとカレンは首を捻じ曲げて顔を見合わせようとひと回りした。
二人とも同じようなことを考えたのだ。
(この子がしゃがんでオシッコをしている時、俺は背中で赤ん坊のように手足を縮めていなければならないのか?)
(見ないでよ)
(もし恋人ができたら……)
(いやだ……)
(下敷きになった俺はどうなるんだ……)
3
――あ、ほれ! あ、ほれ! ほれ、ほれ、ほれ、ほれ、ほっ、ほっ、ほ・ほ・ほ、ほれ~っ!
――あ、ほれ! あ、ほれ! ほれ、ほれ・ほれ・ほれ、ほれ~っ!
次々に繰り出される老人の杖を、ヒカルとカレンは、短剣と長剣でさばいた。
だけど三回に一回はさばききれずに、頭を叩かれ、胸を突かれ、小手を打たれて、向こう脛(ずね)を蹴られた。
ヒカルは短髪の坊主頭丸出しで、半袖の鎖帷子(くさりかたびら)のハーフコートのような胴着に、脛当(すねあ)て姿で、サンダルのような靴を履いている。手にしているのは両刃の短剣。
カレンは顔だけ出した黒革のマスクに、やはり半袖のハーフコートのような赤い革の胴着、その上から鎖帷子のベスト、脛当てと靴〈赤い〉は同じ。手にしているのは両刃の長剣である。
――まだまだ呼吸が合っておらんな。そんなことでは四方八方から来る敵には対処できないぞ!
――ですが、使徒様、背中に重い荷物を背負ってるみたいで。
――それはこっちのセリフよお!
――それがいかんのじゃ。
いいか、お前たち、プロレスの選手が巨体を軽々と持ち上げ、技が決まるのは、お互いの呼吸が合っておるからなのじゃ。
呼吸が合わないとケガをする。呼吸が合えば、倍のスピードとパワーが出る。
――あれを見よ!
老人が杖で指すほうを見ると、砂丘をムカデのような生物が這っているのが見えた。
――あれは?
――なに、あれ?
運動会でした“ヘビの皮むき”みたいになって進んでいる。前の者の腰に手を当て、次々に寝転んで行く。そして今度は逆に起き上がって行くやつだ。
みんな丸坊主だった。男も女も。
――あの者たちは砂漠のヘビと呼ばれておる平和主義者で、人畜無害な生き物じゃ。あのように呼吸が合っておるから、日がな一日、ああやって、行ったり来たりできるのじゃ。
中には屁をこく者もおるじゃろうにーー。
目の前をダチョウが三匹走って通り抜けた。
と思ったら違った。
両足首をつかんだ男たちであった。
口のまわりだけ黒い髭を生やしたひょろ長い顔の男が、こっちを見て通った。
――あやつらには気をつけろ、食い物を盗んでいくからな。
ああして獲物盗りの時は単体で行動しているが、普段は連結して動くから、草原のムカデと呼ばれておる。
――使徒様、お腹ぺこぺこなんですけどお……。
――ぼくもです。
――うむ。
メシにするとしようーー。
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