第十二章 死刑囚・真部光と弟・聖也

    1


 死刑囚・真部光は一日の大半を眠って過ごした。

 点呼や掃除や食事や入浴や運動などのほかは、無気力に横たわっていた。

 厳正独居拘禁の自殺防止房で、昼中は小机に官本を広げ、その上に顔を横にしてうたた寝することが多かった。

 それでも一日に一度だけ、緊張を強いられる時がある。

 正座して向かう廊下を、死神の行進が始まる時だ。

 コツコツ靴音を響かせて。

 

 ――ガチャッ!

 という音がして、

 ――うぅう……。

 という泣き声とも呻(うめ)き声とも知れぬ声を、一度聞いた。


 一週間に二度、房内にテレビが入れられて、ビデオ観賞ができる。

 それだけが唯一の楽しみだった。

 その時だけ、感情が鈍麻した真部光の顔にも、少年らしい表情がよみがえった。

 最初はアニメのリクエストが多かったけど、一度看守先生に寅さん映画を勧められてから、寅さん映画にハマッた。

 日本全国の情景が見られるし、新鮮な空気も感じられたーー。

 だけどそれを観ると切なくなる。

 毛布を被って泣いたーー。

 でも期間をおいて、同じものを何度も飽きずに観た。


 日用品や菓子類に不自由することはなかった。

 面会は拒絶したけど、手紙や金品は容赦なく入って来た。

 手紙は読まずに捨てた。


 神の声を聞くこともなくなった。

 いや、正月前に一度、夢の中で、

 ――正しい行ないをする者が一人だけいたらどうですか?

と聞いた。


“一人正しい行ないをする者がいたらわたしは街を滅ぼさない”


 と神は答えた。


 そうしてまた五年の歳月が流れた。

 真部光は二十三歳になった。

 死神の行進にも慣れて、自分が死刑囚であることを忘れかけたころ、看守がやって来ていった。


 ――面会だ。


 面会者はめっきり減って、忘れ去られた存在になっていたけど、いつものように、真部光は面会を断った。

 だが今回は、看守の顔が強張っていて、ダメだといった。

 強硬に迫られて、仕方なく面会を受けることにした。

 それは月曜日の午後のことだった。


 面会室の真ん中に木製の大きな机があり、そこに太った若い男が座って待っていた。

 すぐにそれが弟の星也だとわかった。

(――どうしてお母さんではないんだ?)

 真部光の胸に久々の不安が宿った。


    2


 光とは五歳違いだから聖也はもう十八歳になっているはずであった。

 それにしては大人びた顔つきをしている。

 丸く大きな顔の上に、もじゃもじゃした髪が鬢まで張り付くようにあった。

 それもヤンキ―のように茶髪に染められていた。

 衣装も派手なシャツに白いズボン、白い革靴を穿いている。

 精々(せいぜい)いきがった格好をしていても,どんぐり眼(まなこ)の奥に、幼い聖也が膝小僧を抱えているのが見えた。

 高校へは行かず、建設現場で働いているという。

 机を挟んだ距離は一向に縮まらず、話は弾まなかった。

 光は焦った。

 岩倉弁護士との面会は十分か精々十五分で打ち切られる。

 聞きたいことが喉元まで来ているけど、怖くて聞けない。

「どうして返事くれないんだよう」と聖也がいった。「読んでないのか?」

「母さんになにか、……あったのか?」

「あったのかだって、」

 聖也は憐れむような目で光を見た。

 顔を歪め、そして叫んだ。

 

 ――死んじまったよう!

 ――兄ちゃんはまだ生きているのに!


 それから聖也は怒涛のように思いの丈をは吐き出した。

「家屋敷を売り払い、売れるものはなんでも売って、足りない分は借金をして賠償金を払い、昼夜(ひるよる)働きながら裁判を戦ったんだぞ!

 なのに兄ちゃんは控訴しなかった。

 自分勝手に死を選んだ。

 母さんは十も二十も老けて、無気力になって、次々に体を悪くして、先週肺炎で死んだ。

 兄ちゃんが、家族をメチャクチャにした。どうして兄ちゃんはいつも自分勝手なんだよう。

 どうして我慢できなかったんだよう!」

「――おれは、」

(おれは家族を守ろうとした。ウソじゃないよ、聖也。みんなを頼むって、父さんがそういったろ、おれに託して死んだ。

 不安がーー。

 不安が夕闇のように迫って来ておれを急き立てたんだ。

 おれは自分勝手なんかじゃない! 

 自分のことなら、どんなことでも我慢できる!)

 だからおれはーー正義を行なった。災いの種を摘み取ったんだ。その責任は取らなければならない」

「なんだよそれ、正義って。責任? 責任取れんのかよう、母さんばかりか、おれの人生もメチャクチャにしておいて。姉ちゃんの人生もメチャクチャにしておいてーー」

「なにっ! 姉ちゃんも? ――姉ちゃんがどうした!」

 光は体を乗り出した。


    3


「婚約は破談になったんだぞ! 貯めていた結婚資金も賠償金につぎ込んだんだぞ! 昼は会社で働いて、夜は夜で、母さんと二人でビルの清掃のアルバイトをして、母さんが倒れてからはーー」

「――どうした?」

「母さんの介護しながら働いて、母さんの分まで稼ごうとーーそれには短時間で稼げる水商売しかないだろ! 女を売るしか!」

「――なにっ!」

「借金返すの、それしかないだろ!」

「――お前はなにしてたんだ!」

「おれは、おれはどこ行っても人殺しの弟、死刑囚の弟といわれて、まともな仕事に就(つ)けず、トビをやったり、型枠工やったり、建設現場を転々と渡り歩いて、食うのが精一杯。男だからな。売るものなんてなにもねえしな。

 男を売る商売のヤクザになってひと稼ぎーーなんて度胸もねえしな。でも、五人も殺した兄貴の威光で、ヤンキーどもにはちょっとした顔なんだぜ」

「――バカ!」

「バカいうな!ーーバカってなんだよーーおれらのことに目え瞑(つぶ)って、兄貴は誰にも会おうとしなかったじゃないか!

 兄貴のことは弁護士から聞くしかなかった。母さんや姉ちゃんやおれの気持ちなんか、どうでもよかったのか!

 母さんが死んでから姉ちゃんは魂が抜けたようになって毎日泣いている。

 水商売で知り合ったバカな男に寄り掛かろうとしている。

 ヤクザな男だ。

 そんなの見ちゃあいられない。

 おれはもういやだ!

 おれはおれで生きて行く、家族はもうバラバラだ」


 ちゃんと伝えたからなとって、弟の星也は出て行った。

 呆然(ぼうぜん)と光はうなだれた。

 看守に腕を取られても立ち上がる気力がない。

 ちらっと看守の腕時計を見た。

 十四時を回っている。

 一時間も経っている、そんなことはあり得ないはずであった。

 面会時間は、長くても三十分が決まりのはずだ。


 光は独房に戻って、頭を抱えて頽(くず)おれた。

 膝をそろへ、抱えた頭を畳みに擦りつけて、泣いた。

 身悶えて泣いた。

 三日三晩泣き明かした。

 四日目の黎明に、


“汝殺すなかれ”


 という神の声がした。


 ――でも私は正義を行ないました!


“罪深き者よ!

 正義は独善と表裏(おもてうら)、果実によってのみ峻別(しゅんべつ)されるのだ“


 と神は答えた。


 そして五日目の夜――。

 いつものように小机に官本を開いて、その上に顔を横向けてうたた寝しているとーー。

 

“絶望せし者よ”


 という声を聞いたような気がして、光は目覚めた。

 寝ぼけ眼(まなこ)で辺りを見回す。

 鉄格子を通して、ヒマラヤスギの梢に掛った半割りの月が見えた。

 月光が差し込んで独房の壁に当たっている。

 そしてそこには刑庭の植え込みの影が映っていた。

 さわさわと風が吹いて、その影が揺れた。

 鉄格子の内側はガラス戸なので風は入って来ない。

 はずだけど、風を感じた。

 夢だったのか……。

 ――と、

 ふたたび、さわさわと風が吹いて、植え込みの葉っぱの影がカサコソと頷(うなず)き合い囁(ささや)き合った。

 

“絶望せし者よ”

 

 今度は確かな声が狭い房内に響き渡った。

 光は首を廻らせて天井を見上げた。

 天なる声は、


“わたしは『無いものの主』シャドーである”


 といった。



 


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