第九章 精神鑑定人・瀬川義久と助手たち
1
真部光は、鑑別所での二週間の観護措置からさらに延長に次ぐ延長で、家庭裁判所の調査を受けていた。
その間に三度(みたび)付添人の弁護士の面会を受けているが、家族との面会は本人が拒否している。
少年鑑別所も家庭裁判所調査官と同じように、裁判官の審判に資するために、少年の資質を調査、行動観察をするが、基軸を社会環境より、主体である少年自身に置いている点で、両者は補完関係にある。
それゆえ、心理学、教育学、社会学に加えて、医学的見地が重要な役割を果たす。
身体検査〈血液検査、頭部のCT撮影、MRI撮影、脳波検査など〉に始まり、知能検査に、心理検査も実施される。
心理検査では、〈浅田調査官も行なっているが〉ロールシャッハテストに、バウムテスト、文章完成法テストなどが実施された。
面白いのは、浅田調査官の時は、白い用紙にインクを垂らして二つ折りにした図形を見て、「これは宇宙モデルですか」といったのに対して、ここではーー。
真部光は、じっとその黒と白のインクの染み模様を凝視していたが、「……藪の向こうから誰かがこっちを見ている」といったかと思うと、急に、「ウワ~ッ!」と叫んで、腕で顔をかばい、机に突っ伏して怯えた。
白紙に適当にインクを垂らしてできた染み模様なので、当然、浅田調査官の時と同じ模様ではないのだがーーインクの染み模様が、その時の心理状態を表して見えるのは同じである。
幽霊見たり枯れ尾花――というやつだ。
真部光にはそれが藪のように見え、藪の向こうから、じっとこっちを見つめる不気味な存在が見えた、そこから無数の黒アゲハが飛び出して来て、部屋中を満たしたとゆうのだ。
この時の彼の心理は大きな不安を抱えた状態だったことがわかる。
幻覚は不安の産物である。
黒アゲハ蝶は悪魔のように見えなくもない。
ロープレイも鑑別所の技官によって、浅田調査官に先だって行なわれていた。
ただし、技官が行なったのは、単に加藤誠、吉山真一、下村浩二、加藤法子、速見徹と、真部光の、立場を入れ替えた役割演技だったので、真部光をシラケさせただけに終わっている。
浅田調査官は五人それぞれに、環境調査して知り得た彼らの〈真部光が知らない〉キャラクターを与えていたから、真部光は興味を示したのだろう。貴重な資料を提供してくれた。
家庭裁判所から委嘱された精神鑑定チームは、大学教授の瀬川(せがわ)義(よし)久(ひさ)〈精神科医〉と、民間病院から精神神経科の医師がひとり、それに大学病院から鑑定助手が三人ついた、都合五人態勢である。
瀬川らも、捜査機関の「一件記録」の閲覧から始めた。
そしてチームは鑑別所の医務室ではなく、小さな会議室で、真部光と対面した。
瀬川も、史上稀にみる凶悪犯罪を犯した少年を目(ま)の当たりにして、違和感を覚えた。ほかの者たちもそうだったろう。
水溜まりに遺体がゴミと一緒に折り重なって浮かんでいる、凄惨な現場写真からは、あまりにも隔絶して見えた。
ことに、顔を上向けて白眼を剥いている少年の死に顔は、当分目に焼きついて離れそうにない。裁判官の心証形成に与える影響は極めて大きいであろう。
ところが、目の前に座っている少年は、少しも悪びれた様子がない。目を細めて欠伸(あくび)さえした。今時の小顔の美少年だった。
瀬川の問診に、真部光はこう答えた。
「悪いことをしたとは思っておりません。でも、罪を犯した。犯した罪は償います」
瀬川の質問は、君はどう思ってる? 君が犯したことについてーーというものだった。
期せずしてそれは、家裁の裁判官が真部光にしたのと同じ質問だった。のちの刑事裁判でも同じ質問をされ、真部光は裁判官に同じ返答をした。
この時から真部光の思念は一貫していて、最後までブレはなかったと、後年、瀬川教授は雑誌のインタビューで語っている。
張り出したお腹(なか)を白衣から弾けそうに膨らました瀬川は、メガネを光らせて、真部光を暫(しば)し眺めた。
そして、父親のことを聞いた。
「君のお父さんだがねーー」
本来なら父親を面接して、必要とあらば父親の精神鑑定をすることもあるのだが、死亡していては致し方ない。
幼少期の子供には、父親は神のように君臨する。傲慢で、独善的で、嫉妬深い。良くも悪くも子供に多大な影響を及ぼすのだ。
動物でも同じだけど、生まれた子はまず父母の仕草を真似することから始めるのである。
だが、少年の供述からは満足な父親像は浮かび上がって来なかった。
2
日を改めて瀬川は母親を呼びつけて事情を聞いた。
母親からの影響も無視できない。自分が生み出したのだから、自分のものだと思っている者が多い。母親だけが、自分の子であるという確信を持っている。
少年はしかし母親には似ていない。母親は色白で豊満。
その母親はいった。
「夫は、そりゃあ頑固でしたけど、子供たちに暴力をふるったりしたことはありませんねーーいえ、一度だけありました。
忘れましたけど、光が弟の星也に理不尽なことをいって泣かしていた時でしたかね。
光も父親に似て、思ったことをどこまでも押し通す癖があって、その時は子供なりの理屈に合わないことだったのでしょう」
――自分の考えを子供に押しつけることはありませんでしたか?
「やろうと決めたことはなにがあってもやり通せ、一度途中であきらめると、今度なにかやる時に“やりきる”という確信が持てなくなる。
自分との約束は守れーーとはよくいってましたね。そしてその通りに、夫が途中で挫折したことはありません」
――光君の幼少期ですが、なにか大きな事件はありませんでしたか? たとえば木から落ちて頭を打ったとか、高熱を出して引きつけを起こしたとか?
「それはなかったです。高熱を出して引きつけを起こしたことは何度かあります。疳(かん)の強い子でしたからーー」
――なにか変な夢を見たとか?
「あ、それはあります。白昼夢というんですか、昼日中にお婆ちゃんが、寝たきりのお婆ちゃんがお化けにさらわれる夢を見て、泣いて帰って来たことがあり、その晩お婆ちゃんは死んでしまった。
そういうのってあるんですねえ。でもそのほかにも何度かそういう夢を見たようですが、それは小学校低学年までだと思います。
テレビドラマなんかを観て、その中に入り込んでしまって、泣いたり笑ったり、そういう感受性の強い子でした」
大学チームの鑑定助手のひとりである、心理学が専門の浜本準教授は、真部光の精神分析をして、彼の心理的負因を探った。
ユング派の彼は、フロイトの自由連想法とは一線を画した方法で、真部光の深層心理を探ったが、これといったコンプレックスは発見できなかった。
その一方で、大学チームが、捜査機関の供述調書や、現場写真、実況見分調書、現場検証調書などの捜査記録から、裁判所調査官、鑑別所技官が行なった色々な調査を参考にしながら、独自に家族からの聞き取り調査も行なって、多角的な情報を集めてから、診断を下そうとしているのに対してーー。
R病院の精神神経科の医師近松(ちかまつ)新作(しんさく)は、実務での経験豊富な経験知から、早々と診断結果を出していた。
べっ甲メガネをかけたフクロウのような顔で、仕草で、真部光を眺め回し、問診をしただけで、ラベルを張りつけた。
病名をつけるのが医師の仕事、病気は患者が治し、医者は金を取るーーと、荒っぽい言い方をする者もいるが、病名さえ決まってしまえば、あとの段取りも決まる。
仰々しく大名行列をして、手間暇かけてはいられない。医師不足で過酷な労働を強いられているのだ。
3
約三ヶ月かけて、ようやく精神鑑定の結果が出揃った。
瀬川義久教授の鑑定主文はーー。
「少年は、犯行時も現在も、ストレスによる解離性同一障害、及び、軽度の人格障害である」
近松新作医師の鑑定主文はーー。
「少年は、犯行以前に、ストレスにより統合失調症を発症、破(は)爪型(かがた)である。青年期以降、自然寛解(かんかい)の可能性がないわけでもない」
というものであった。
ちなみに、浅田調査官の「少年調査票」にはこう記されてあった。
--色々な環境条件が重なって、追い詰められた少年が、過度のストレスから一過性の解離障害を起こし、不安を増幅させた妄想人格が暴走したものと思われます。
少年にとって不幸だったのは、拳銃を手にしたことと、禍根(かこん)を残して死ねなかったことです。
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