第二章 イタチのいちばん長い朝
駄々っ子につける薬なし
「しかしそちも災難だったのう、あのようなドブスに迫られるとは」
「あんな化け物にブスも綺麗もあるのか……?」
「わらわも言わば奴と同じ、
「お前もその……えーと、ヤクシャ? とかいうあの化け物の仲間なら、なんで俺を襲わないんだ?」
「わらわをあのドブスの仲間呼ばわりとは! そのうえ出逢ったばかりの
「あー…………話進まねぇー……」
唐突に刀が喋り出したかと思えば、あっという間に女に化けて、今はずけずけと家に上がり込み勝手にくつろいでいる。この女を理不尽の塊と呼ばずして何とするか。威太刀はとっさに“グレートフル・デリシャス・おっぱい”などという言葉を閃いてしまった自分を恥じる。
女はあの後、いつの間にか蔵に落ちていた藍色の着物――おそらく鞘が変化したものだ――を淡々と着込み、いのいちばんに「わらわをもてなせ。ひとまず、くつろぐ場を提供せよ」と告げた。その結果こうなっている。
居間のソファを乗っ取られた威太刀は、渋々床に座りこんで話を続ける。あの化け物のことをはじめとして、いま威太刀が欲している情報を持ち合わせているのは、きっとこの女しかいない。いい加減に説明されなければ気が狂う所だった。
「では改めて自己紹介と参ろうか。ほれ、名を申せ」
「俺からかよ……。
「うーむ、ちと味気ないのう。おなごの趣味はどんなものぞ?」
「なんでお前に教えなきゃならない……」
女は唇に指をあて、わざとらしく胸を寄せる。
目の前におあつらえ向きの良い女がいるぞ、とでもアピールしているつもりだろうか。ただでさえ豊満な胸がさらに寄せられると、いまにも着物から禁断の果実がポロリしてしまいそうでハラハラする。
顔が熱くなるのを感じながらも、威太刀はそこから目が離せないでいた。
「むふふ。なんぞ、早速わらわに惚れてしもうたか? よいぞよいぞ。健全なる
「押しつけがましい女、あざとい女は嫌いだ。あと傲慢、自己中心的、自意識過剰な女もな」
「そのわりには視線が釘付けのようだがの? む・ね・に!」
「それとこれとは別だ。おっぱいは目に焼き付けなきゃいけない。男とはそういう宿命なんだ」
「なかなか難儀な性分をしとるの……」
出逢って一時間と経たずに
この女のペースに合わせて話していると、どこまでも脱線していってしまう。ひるんだ隙にすかさず軌道修正するのが一番なのだろう。
「じゃあ次、お前も自己紹介しろよ」
「ふむ。わらわの名はさっきも申したが……スティーク。刀に封じられてはおるが、わらわもれっきとした
直前までの話からとりあえず、“
一方で未だに解せないのは、なぜ厄叉であるスティークが厄叉を倒すのに加担したのか。そもそも厄叉とは一体何なのか。この二つだ。
しかしそれらは急かさずともスティーク自らが話し始めた。
「厄叉というのは、ありていに言って妖怪のようなもの。人を貪り、魂を喰らう。それのみに留まらず、執拗に嬲り殺す。あやつらにとっては一種の享楽よ」
「化け物のくせに悪趣味なんだな……」
「そうは言うがの。そちとて、さきほどは享楽のために生き永らえんとしたであろ?」
「俺は人を殺して喜ぶようなクソじゃない。俺の遊びのために人が死ぬこともない。そのへん一緒くたにすんな」
「ふぅむ…………なるほどなるほど。そちはその手のやつか」
柄にもなく義憤じみた感情を吐き出す威太刀を、スティークは品定めするようににやにやと見つめる。
儚きものを見守る、上位者の目。威太刀はなぜだか無性に腹立たしく思え、更に言い返してやろうとするが、それよりも続きを話し始めるスティークのほうが早かった。
「さて、そんな厄叉の中にもわらわのような変わり者はいる」
「自覚してたのか……」
「こほん。変わり者というのは、すなわち同族喰らいの厄叉であるということ。わらわは厄叉をおもに喰らう」
「ああ……さっきのアレか」
厄叉を斬り捨てた直後の光景を思い出す。塵と化して散った厄叉の残滓を、スティークは刀身に取り込んでいた。あれが彼女なりの捕食なのだろうか。
なんにせよ、共喰いすることを差し引いても、どのみち彼女が変わり者であることに違いはあるまい。
「はじめに言うた通り、わらわは人の子の卑俗で凡庸で憐れなまでの欲望を愛でておる。それに引き換え、厄叉は見ていてもつまらぬ。ゆえに人は喰わず、厄叉を喰う」
「もしかして俺、今すっげーディスられてない?」
「あと、たんなる味の好みもある。エグい味のほうが好みでの」
「味とかするのか……ほとんど砂だっただろアレ」
「人の子の味覚と同じようなものよ。同族の肉はなんとも言えず……エグかろう? あ、喰うたことはないのか。うむ。いや、ほぼ砂というのは否定せぬが、中々エグいぞ?」
茶目っ気のある表情から打って変わって、スティークは妖艶にして含みのある微笑を浮かばせる。さも、その気になれば人間だって食べるぞ、と言わんばかりの口ぶりだ。彼女はどちらかといえば、同族を喰うという行為自体の背徳感を好んでいるらしい。
人を喰うのは当然のことで、倒錯してしまったが故に生じた特性が“同族喰らい”。ただそれだけのことに過ぎないのだ。
いつ何時、気まぐれで貴様を喰ってしまうかわからない。そう暗に告げている気がした。
「案ずるでない。少なくとも当分、そちはわらわを飽きさせそうにないぞ……ふっふっふっふっ!」
威太刀の危惧する感情を嗅ぎ当てたのだろうか。直前まで漂わせていた大人の色香とも呼ぶべき危険な雰囲気を、今度はおどけた表情に覆い隠してしまう。ころころと態度が変わるせいで、本心がどこにあるのかまるで読めそうにない。
「説明はこんなところで良いかの? わらわは久方ぶりの外界に疲れてもうた。ちっとは休ませろというのだ!」
「お、おう……わかった」
ほどなく説明に飽きてしまったスティークは、子供のようにソファの上で跳ね、水泳ごっこをしはじめる。
さして疲れているようにも見えず、威太刀は威太刀でほかにもまだ知りたい事があったのだが、ここはあえて引くことにした。これ以上スティークの気まぐれな話芸に乗せられていては、むしろこちらが先に疲れ果ててしまう。明日へ持ち越しだ。
時計を確認すると、早くも午後十一時を目前とするころ。極度の緊張から解放されたことに加えて、昨日の寝不足も少なからず威太刀を消耗させている。早く睡眠をとりたい。
あまりにも濃密すぎる二十六時間だった。大きく溜息を吐き、寝床に向かうべく腰を上げる。
気掛かりなことといえば、あとはスティークをどうするかだけだ。曲がりなりにも命を救ってくれた恩人であり、蔵にいた躑躅ヶ崎家の所有物。いまさら追い出そうとも思わない。
「俺はもう寝るけど、お前はどうするよ。刀でも夜は寝るって言うなら、じーちゃんの布団があるけど」
「何、ジジイの布団で眠れと? わらわは老いぼれの臭いが大嫌いであるぞ。それならばまだ若き
「まぁ……そう言うと思った」
「すでに以心伝心の仲と申すかっ。まずます愛いの、イタチとやら!」
わがままなこの女のことだ。寝床についても好き勝手のたまうだろうことはとっくに読めている。
和室の押入れから毛布を取り出し、居間に放る。一晩くらいは自室を譲り、ソファで寝てやろうと考えた。スティークへの温情というよりも、なるだけ居間から動きたくないという魂胆ではあるが。
「俺の部屋は廊下の突き当りから向かって右側、ドアノブがついてるほうだ。そっちのベッドを貸してやるから、寝るならとっとと寝ろ」
なおも水泳ごっこを続けるスティークをつまみ出し、ようやくソファの上を奪還する。ほどよい跳ね返りと、身体をいたわるような柔らかさ。睡魔に意識を持っていかれるまで、そう長くはなさそうだ。
スティークが不服げに顔を覗き込んでくるが、無視した。
「俺はもう疲れた……クソ疲れた……だりぃ……」
「まったく不遜なやつだのう。だが許す。今宵は大義であった。そちの身体、じつに使い心地の良いものであったぞ……」
夜中の出来事を思い出すが、やはり一昨日のことと同様、現実のものとは信じられなかった。だが不思議と気分は悪くない。
上半身を起こそうとして、ふと重苦しさを覚える。手足も思うように動かせない。
(やっぱ化け物と戦ったりしたせいかな…………疲れが残ってるのか)
剣術を辞めてからというもの、トレーニングとは無縁の生活を送ってきた。それがたった一瞬とはいえ、限界を超えた身のこなしで鉄の塊とも言える刀を振り回したのだ。身体が音を上げるのも当然だろう。
とにかく時刻を確認をしよう。そう思い目蓋を開いた威太刀の視界は、一瞬のホワイトアウトの後、すぐさま肌色に埋め尽くされた。中央には、二つの膨らみが作り出す桃源郷の深淵。
昨夜、確かに目に焼き付けたものがそこにあった。見紛うはずもあるまい。おっぱいだ。
「お前は何やってんだ……よ!!」
寝起きも相まって不機嫌な威太刀は、己の顔の上にあるであろうスティークの顎へ、容赦のない頭突きを放った。鈍く重い音が頭蓋を通して伝わってくる。
いかに尊いおっぱいであれど、邪魔なときは邪魔なのだ。匂いは存分に嗅いでおいたが。
「うぐぉ…………おのれイタチ! 痛いではないか!」
「だから、何やってんだって言ってんだろ!!」
「見ての通り夜這いじゃー!!」
「ガキかお前は!!!」
スティークは威太刀の全身を羽交い絞めにするかたちで抱き付いていた。おそらく抱き枕の代わりにされたのだろう。こんな幼稚な夜這いがあってたまるものか。
絡みつくスティークを強引に引き剥がし、ソファから放り捨てる。思えば眠っている間もいくらか寝苦しかった気がする。
「そちには性欲というものがないのか!? これほど上玉のおなごが添い寝しておったのだぞ! 喜ぶならば兎も角、頭突きとは何事か!!」
「お前は一応、刀だろが! 寝てる間に刀に戻ったら危ねーだろ!!」
「危険な火遊びというやつであろ!? 興奮しなかったとは言わせぬぞ! それ朝ボッキ! 朝ボッキ!」
「不貞者どころの話じゃねーなお前!!」
ひどく血圧の上がる朝である。スティークは腑に落ちない顔のままだったが、放置。
時計の針はまだ六時を指す直前だが、起きてしまった以上は仕方がない。未だ眠たがる身体を叩き起こし、早々に朝食の準備に取り掛かることにする。
「なんぞ、もう朝飯の支度か。折角の二人きり水入らずの朝であろ。もっと淫靡な戯れに興じようではないか!」
「こっちは学校行かなきゃいけないんだ。こんな時間に起きるつもりは無かったけどな」
「おぉ、そちは学徒であったな! 高校というやつをわらわはよく知らぬのだが、イタチのような若き人の子らが大勢おるのか?」
「そりゃそうだろ。生徒だけで七〇〇人はいる」
「なんと!」
スティークが爛々と目を輝かせる。インスタントコーヒーを淹れながらそちらに目をやった威太刀は、ふいに襲ってきた嫌な予感に震えた。
「よし、決めたぞイタチ。わらわも……」
「お前は留守番だ。大人しく家で寝てろ」
「わらわも行きたい! 行きたい行きたいぃー!」
「ほんとにガキだなお前は……」
「決めたぞ! わらわは頑としてついてゆく。絶対についてゆくぞ!」
案の定、スティークが駄々をこね始める。新たな一日の始まりだというのに、早くも憂鬱の種は尽きそうない。
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