刃冴ゆ夜


“親戚同士の急な集まりに呼ばれたので、家を留守にする。火の元・戸締りに用心せよ。蔵の整理は引き続き頼む。”


 補充しておきたかったものをあらかた買い終え、自宅に帰り着いた威太刀を迎えたのは、祖父が残した一枚の置手紙だった。

 ちなみに、同窓会があるなどという話は前もって聞かされていない。かねてより前触れなく、事後報告だけをくれることの多い祖父だったが、それにしても唐突すぎる。人の心配をするより自分の心配をしろ、と言いつけてやりたい。

 すこし早めの夕食をささっとこしらえ、しばらく携帯ゲームに没頭し、時刻が午後七時を回ったころになって、渋々重い腰を上げる。向かう先は蔵だ。

 一日くらいは蔵の掃除を先延ばしにしても良いかと考えたが、祖父がいつ帰ってくるかもわからない。

 蔵の中身は、昨日の作業ですでに半分近く片付けが済んでいた。最初に想定していたよりもペースが早い。あまり長引くのも嫌なので、このまま今日のうちに全て終わらせようと決心した。口では不満を言いつつも、いざ作業をはじめると案外楽しいものである。

 今日も今日とて、壺だの巻物だのといった骨董品が次々に湧いて出てくる。祖父が買い集めたものなのか、それとも家に代々受け継がれてきたものなのかは定かでない。だが、なかには素人目にもわかるほど貧相な品もあることに気付き、祖父の“捨てられない”性分にほとほと呆れる。あの意地っ張りな祖父のことだ、贋作がんさくだと気付いているのに敢えて保管している物も多々あるに違いない。

 仕分けを続けるうちに、不要となった家具類もそれなりの量になっていく。ひとまず蔵の外に出しておくが、いずれは粗大ごみ回収業者に依頼しなければなるまい。


「ふぅ。結構やったな」


 全体の七割ほどが片付き、一旦の休憩を挟む。残り三割もその気になればすぐに終わるだろう。骨董品を見つけるたびに一人で鑑定の真似事をしてしまうせいで、無駄に時間を食ってしまっているが。

 携帯のホーム画面は、すでに午後九時一〇分を過ぎたことを示していた。昨夜、威太刀が奇怪な化け物に襲われた時間から、ちょうど二四時間が経ったほどか。

 薄くかいた汗を拭い、一段と明るい満月に目を向ける。

 片付けをしている間、なんども昼間の不快感がぶり返しそうになり、そのつど鑑定ごっこへ強引に意識を切り替えてきた。

 あれは本当に夢だったのだろうか。

 放心状態のまま家に戻ったあと、朝になるまで一睡もしなかったし、その間の記憶もしっかりと残っている。それでも現実に起きた出来事だとは、どうしても信じられなかった。

 いや、信じたくなかった。

 この一日、昨夜の出来事を証明しそうなものから必死に目を背けてきた。

 テレビは極力見ないようにした。皚貴市の路地裏でバラバラの死体が発見されたなどと報道されたら堪ったものじゃない。

 二ノ宮をはじめとして、人の噂話が耳に入らないよう努めたのもそのためだ。靴にわずかに付着した血液のようなものも、泥かなにかだと思ってすぐに拭った。

 されども現実はひどく無慈悲で、すっかり油断しきった威太刀がテレビに目をくれたちょうどその時に、ニュース番組で『バラバラ殺人』という文字が表示されていたのだ。すぐに電源を切ったが、簡単に忘れることはできない。実のところ、蔵の掃除を始めたのも気分転換のためだった。

 助けを乞う人を、見殺しにした。

 なによりも受け入れ難い事実。最低の行為をしたという、他ならぬ自分自身からの烙印。目を背けなければ正気が保てなかった。


(やっぱ……夢じゃないんだよな)


 もしもあの時、死に瀕していたあの人影に、手を差し伸べていたとしたら。

 無論むろん、結果は変わらないだろう。とても助かる見込みがあるようには思えなかったし、助けようとすれば威太刀まで化け物に殺されてしまうだけ。化け物が現れると同時に逃げた判断は間違いではない。しかし“逃げた”という言葉は胸の奥に重くのしかかる。

 克那と剣術の世界に背いてから、なにもかもから逃げてばかりの人生。いつ、何を相手にすれば逃げずに立ち向かえるようになるのか。

 息苦しさと吐き気がこみ上げてくる。あわてて息を整え、思考を切り替え、早々に作業を再開しようと顔を上げた瞬間。

 威太刀の目はまたもを正視してしまった。


(ああ――――結局、そういうことかよ)


 この世界の慈悲のなさを、改めて突きつけられるような気分だった。逃げ続けた先に待ち受けるものなど、行き止まりのほかに何もないと。

 威太刀の視線の先。隣家の屋根の上、月光を背に受けて立つ禍々しき異物。昨夜見た化け物と寸分違わぬシルエットがそこにあった。

 化け物もこちらに気付いたらしく、腰をかがめ、跳躍の予備動作と思しき体勢にうつる。遠目ゆえに明らかではないが、怨嗟に満ち満ちた般若の面がにやり、と笑った気がした。

 動かなければ死ぬ。そして、背を向けてはならない。確証はなくとも本能がそう告げていた。

 直感に従い、あわてて後方へ飛び退る。動揺しているせいか、足を絡めて無様にも倒れ込んでしまう。

 気づけば一瞬前まで威太刀の立っていた場所へ、鉈が振り下ろされていた。

 化け物の跳躍は想像を絶して速い。克那に救われたときとは違い、直線的に間合いを詰め、追い込むような迫り方だ。威太刀と化け物の間に開いた距離は約三メートル。次は避けきれない。

 背後には逃げ道を断つようにそびえる蔵。左右へ逃げ込もうにも、中途半端に広い庭のせいで、家へも敷地外へも遠い。


(逃げて逃げて、逃げ続けて…………どこまで逃げても、最後に辿り着くのはどうせ、袋小路なんだ)


 今度こそ威太刀は死を覚悟した。克那による助けも二度までは期待できない。路地裏に倒れた名も知らぬ誰かと同様、無惨に斬り刻まれ、バラバラの肉片と化す。そうなる運命だ。

 数日経って祖父が帰ってくるまで、威太刀の死体は誰にも発見すらされないのだろう。威太刀の名は連続殺人の哀れなる被害者としてニュースを飾る。きっと学校では全校朝会が開かれて、二ノ宮による美少女図鑑の作成など不謹慎と見なされる空気が充満する。

 次の一手で仕留めきるとあちらも確信したのだろうか。化け物は顔を上げ、ゆらりと鉈を振りかざした。脳天から真っ二つ、といった具合か。


(ああ、そういえば。美少女ランキングで一儲けする話も、もう無理だな)


 ふと下らない未練が頭をよぎる。

 まだ皮算用に過ぎない段階だが、うまくいけばそこそこの金額が手に入るはずだった。ざっと見積もっても一万五千円ほどは儲かるだろう。家計の足しにするか、それとも欲しかったゲームを買うか。そんな夢想もすべて水泡と帰すのだ。

 世界中で期待が高まっている新作FPS。プレミアが付いているインディーズの名作格ゲー。どちらも捨てがたい。あらかじめ今日死ぬと分かっていたなら、財布が空になろうとも買ったのに。

 いっそ素直に斬られてくれようと思い、構えなおそうともしない。すっかり諦めきった威太刀は、突如として幻聴を耳にした。


『良いのか? 命が潰えれば、もはや享楽に身を委ねることは叶わぬぞ?』


 己の内なる声というやつだろうか。それにしてはいやに艶っぽい声色、というより女の声だ。いわゆる悪魔の囁きが、この期に及んで未練がましく生存する道を求めているというのか。


「無理無理。だって死ぬじゃん。もうコレ、絶対死ぬやつじゃん」


『ならばここで死しても構わぬのか? えふぴーえす? とやらはどうした。かくげー? とやらも。ここを生き抜けば、欲しているものが手に入るのであろう?』


「あのな、じゃあどーしろってんだよ。お前どうにかできんのか!? 俺! 俺の心の声! こっからすんごい勢いの屁でもかまして大気圏に逃れるか? 無理だろ! 出来るなら俺もやってるよ! バーカ! バーカ! うんこ!」


『う、うんこ…………とな……。そち、いくらなんでも無礼が過ぎるぞ……。わらわはそちに呼びかけておるというのに』


「はえっ?」


『わらわが力を与えてくれる、と言うておる。その醜悪しゅうあくなる化生けしょうを打ち倒す力をな』


 おもわず素っ頓狂な声が飛び出す。どうやら心の声などではなく、何者かが威太刀に話しかけてきているらしい。見れば化け物も、どこからともなく聴こえてきた声の主を探してきょろきょろしている。

 しめた、と思った。

 手近なところにあった扇風機を掴み、力のかぎり化け物へと投げつける。扇風機は、すっかり気を散らしていた化け物の顔面に痛々しいまでに見事的中した。これが火事場の馬鹿力か、と我がことながら感心する。

 化け物がひるんだ隙を見逃しはしない。意を決した威太刀は、正真正銘の袋小路たる蔵へと飛び込んだ。

 どこからともなく聴こえる謎の声。それは昨夜、克那と相対したときに起きたあの現象によく似ていた。

 躑躅ヶ崎つつじがさき家の庭に、威太刀と化け物以外に声を発しうる者の姿はない。克那が現れたときもそうだった。だがなら、威太刀にも心当たりがあった。


「もしかして、お前が喋ってるのか……!?」


『然り。わらわこそ、そちの命を救うもの。常世より外れし異能の力を授け、魑魅魍魎ちみもうりょうを断つあやかしの剣』


 克那が化け物を相手に振り回していた得物。蔵のなかで長年眠っていた“家宝”。すなわち、刀だった。

 鼓動を高める胸を抑え、包みから取り出す。入口から差し込む僅かな月光に当てられた鞘。やはり何度見ても美しい逸品だ。これが意思を持ち喋っているとは、誰も思うまい。


「本当に……お前が俺に力を貸してくれるのか!? 昨日は鞘から抜けなかったぞ!?」


『そちの心の声が漏れ聞こえてきての、気が変わった。わらわは人の子の欲をこそ愛す。そちを気に入った』


「この際なんでもいい! お前を使えばあいつと戦えるんだな。ってか、ちゃんと抜刀できるんだな!?」


『応とも。剣術の心得など要らぬ。わらわが心となり、技となり、体となる。さあ早う抜け!』


 がちゃがちゃと耳障りな物音――蔵の外に出した家具が散乱する音だろう――がした。振り向くと、すでに入口まで化け物が迫ってきている。迷う暇などない。

 喋る刀を水平に構え、勢いよく鞘を引く。刀はつっかえることもなく、今度こそすんなりと抜けた。

 剥き出しになった刀身は、深い色の鞘とは対照的に、暗闇のなかですらまばゆいほど白く輝いていた。着物をはだけた女性の素足のごとく、なめらかにして確かな曲線。鞘に納められた状態とはまた別段に美しい。

 抜刀したその時、威太刀は確信した。


(やれる……っ!!)


 全身にみなぎる充足感。空気中にただよう微細な埃の流動を一つ一つ感じ取れるまで、感覚が研ぎ澄まされてゆく。かつてないほど四肢が軽く、満ち足りている。まるでアスリートの身体に生まれ変わったようだ。

 威太刀の手に握られた妖刀が、最終確認を申し付ける。


なんじ、わらわと契りを交わさんとするか?』


「ああ。よくわかんねーけど、乗ったぜ」


『くくくく……まったく、後先を考えぬ愚か者よ。それもまたいぞ! 契約はここに結ばれた!』


 宣言と同時に、刀身から猛烈な覇気が放たれる。それは風圧を伴って、いくつかの骨董品をなぎ倒していった。

 心なしか化け物が怯えているように見える。鉈を構える右腕が、躊躇の念を隠し切れずに揺らぐ。

 戦いを前にして躊躇ためらう者は、真っ先にくたばるのが必定。威太刀の身体がそれを覚えていた。斬るなら今しかない。

 ぐっと腰をかがめ、前傾姿勢のまま峰を肩につける。すかさず踏み込み、化け物の懐まで飛び込む。

 わずか一歩。逃げ続けるばかりの威太刀が、ようやく踏み出した最初の前進。

 空気と同化し、風に乗った。瞬く間に化け物の目と鼻の先まで肉迫する。そうして振り抜いた逆袈裟ぎゃくけさの斬撃は、ナイフにバターをすくうような軽い感触とともに化け物の腕を斬り落とした。

 切り離された鉈が塵と化し、夜風にさらわれる。目に見えてたじろいだ化け物は、急ぎ残る左腕を鉈へと変質させていく。

 変形するのか、と驚いたのもつかの間、威太刀の意思から離れた第二撃が振るわれる。

 横凪ぎの一閃。生成された新たな鉈を振り下ろすいとますら与えず、化け物の胴は真っ二つに裂かれた。

 永遠にも思える一瞬。動きを止めた化け物は、己が斬られたことに遅れて気付き、眼下の威太刀に視線を向ける。おぞましい面貌とは裏腹に、怨嗟とも憤怒とも異なる感情がそこにある気がした。

 刀傷からこぼれる塵は広がり、やがて全身を覆って、然る後に散り散りになった。


『ざっとこんなものよな』


 得意げな声が刀から発せられる。対して威太刀は言葉も出なかった。

 幼き日に羨望した克那の剣。決して届くことのなかった剣技。それを今、この身体が再現した。信じられないことだ。

 茫然とする威太刀をよそに、喋る妖刀は更なる覇気の風圧を纏いはじめる。やがて竜巻状と化した風は、舞い散る化け物の残滓を拾い集め、刀身へと呑み込まれていった。


「す、げぇ…………すげーな、お前……っ?」


 気が付くと威太刀の手に妖刀はもうない。そのかわりに、目の前には一糸纏わぬ姿の、花魁おいらんじみた妖艶な美女が立っていた。

 遠大なる渓谷を形作る二つの果実。アンティークの陶器を想起させる芸術的なくびれを経由し、その下に再び現れる零れ落ちんばかりの豊穣。すらりと伸びる手足はそれらを隠そうともしない。男の欲情をそそりながら、聖母の如き神性をも同時にたたえる、美女という概念の理想形とでも言うべき顔立ち。かつて数多の画家たちが夢想し描かんとした、原初にして究極の美が威太刀の目の前にあった。


「我が名はスティーク。これよりそちとわらわは一蓮托生よ。くれぐれも丁重に扱うが良いぞっ」


 美女はあっけらかんと告げる。

 もはや理解しようなどとはすまい。威太刀はこの二日間にわたる奇妙な出来事の連続を、受け入れつつある。

 そして思った。グレートフル・デリシャス・おっぱい。




 この夜を境に、躑躅ヶ崎つつじがさき威太刀いたちの日常は大きく様変わりする。

 運命の岐路を前に、戦い、進まざるを得ぬ道を選び取った。

 自覚なくして大いなる渦へと巻き込まれたのだ。

 既に彼の手には過去と未来を問わず、多くの者の命運が握られている。だが、そのことを威太刀はまだ知る由もない――――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る