遭遇
蔵の整理で遅くなってしまったため、今日の夕食は簡単な野菜炒めで済ませることにした。
よりにもよって連休が明けた直後に作業を頼んだ張本人だというのに、祖父は料理が出来上がるまでの間、「まだかのう?」「早くしてくれんか」「腹が減って死にそうだわい」などと子供のように愚痴をこぼしていた。そこまで文句を垂れるなら自分で出来るようになれ、とも言いたくもなるが、食えたものじゃない代物を無意味に量産されるよりはましというものである。
これといって話題もなく静かな食事を終えるなり、祖父はさっさと寝室に向かってしまう。時刻は午後八時五〇分。少し早いが、祖父の就寝時刻としては大体いつも通りだ。
一方の威太刀はといえば、冷蔵庫の中身を再確認していた。
野菜炒めを多めに作って明日の弁当に流用したかったが、調理中にキャベツや人参を主とする野菜類が足りないことに気付いたのだ。ほかにもトイレットペーパーや卵、牛乳など、補充しておきたいものは多い。
明日の下校時に買い物に寄ることも検討したが、今日は近所のスーパーでポイント5倍の日だったことを思い出す。
スーパーの閉店時間は午後一〇時半。まだ一時間半の猶予がある。移動と買い物自体にかかる時間を合わせても、長くてせいぜい五〇分ほど。既に売り切れている可能性もかなり高いが、行くだけ行ってみる価値はある。夜中にわざわざ買い物へ出かけるのは面倒ではあるものの、ケチ・守銭奴であることを自負する威太刀にとっては、節約のための労力を
薄めのパーカーを身につけ、戸締りを確認し、駆け足気味に家を出る。昼間は汗をかくほどだったのに、夜道はすっかり涼しくなっていた。当然だが、
住宅地を抜け表通りに沿って進んだ先に、目当てのスーパーはある。その道すがら、どうしても瀬田が不良に絡まれていた現場の前も通らなくてはならない。
歩を進めるたびに先日の記憶がまた蘇ってくる。意識すまいと思えば思うほど、近付いてくるあの路地が気にかかる。
瀬田がいるわけなどない。こんな時間に人がいるわけもない。そう頭ではわかっているのに、いざ通りかかると、視線がそちらに行ってしまった。
――――しかしその路地に広がっていた光景は、威太刀の想像とはまったく異なるものだった。
無人ではない。無論のこと瀬田や不良たちでもないが、人影ならある。だがそれは、威太刀が知る健常な人間とは乖離していた。両腕があるはずの場所からおびただしいほどの血を流しているのだ。
「ぁ…………ぁ…………ぁ…………」
人影は玩具のロボットのようにぎこちない足取りで、一歩、一歩とこちらへ向かってくる。小さく呻き声のようなものも聞こえ、殊更に不気味だ。
街灯の明かりも届かず、月が淡い逆光を注いできているせいで、人影は文字通りのシルエットとしてしか視認できない。
声をかけて安否を確かめるべきか。それとも見て見ぬふりをして逃げ出すべきか。
地面に縫い付けられたように足が動かない。目の前で起きている事態にどう対処すべきなのか、すぐには判断できない。
相手は今まさに命を落とすかどうかの狭間にいるはずだ。尋常なら助けに入るべきだろうし、事実として威太刀もそうしようと反射的に考えた。しかしあの他人を救おうとすれば、あの状況に介入すれば、自分の生命すら脅かされかねない。そんな直感が威太刀を引き留めていた。
ならば見殺しにするのか。
己に問いかけてしまう。
瀬田を見捨てた時とはわけが違う。あの人を見捨てて逃げれば、それは自分が殺したも同然じゃないのか。
(どうせ後で胸糞悪くなるだけだろ)
半ば考えることを放棄するように、とりあえず一歩だけ踏み込む。警鐘を鳴らす本能への、ささやかな抵抗だった。
その時、風が消え、空気が流動を止めた。
一閃。月光を反射する軌跡が、人影の胴を横断する。ほんの一瞬の出来事だが、それが刃物による斬撃であることだけは見逃さなかった。背後に何者かがいたのだ。
威太刀の足元にまで届くほどの血飛沫が上がり、然る後に切り離された胴体がぼとりと落ちる。
残された下半身越しに露わとなる、斬撃を放った殺人犯の姿。やはり逆光を受けて全貌までは見て取れないものの、そのシルエットを見咎めた瞬間、威太刀の足は一も二もなく勝手に動き出した。
「なんだよ…………なんだよあれ……っ!」
もと来た道を全速力で駆け抜けながら、威太刀はおもわず呟いた。
あれを殺人犯と呼ぶのは正確ではない。おそらく人間ではなかったのだから。
シルエットのみでも判るほど、その体躯は異常であった。皮と骨のみを残して身体の内容物をすべて吸い取られたような、あまりに細すぎる肉付き。鳥の
見てはならないものを見た。そして確証はないが、目が合ったような気がする。次の標的はきっと威太刀だ。
走りながら後方を確かめるも、相変わらず
住宅地との境い目である交差点まで辿り着いたところで一旦、足を止める。逃げてきた方面にくまなく目を配り、何も見当たらなければかわりに耳を澄ます。心臓の早鐘があたりに響くのではないかと思えるほどやかましい。
足音も、聴こえない。どうにか逃げ切れたようだ。
安堵の息を吐きそうになった威太刀は、ふと足元に違和感を覚える。
交差点の四方には街灯がそれぞれ設置されており、一つずつは心許ない明るさだが、光が重なることで交通に不便はしない程度に道路を照らしている。そんな場所に立っているというのに、威太刀の影だけは妙に大きく、薄ぼんやりとしていた。
まさかと思い、すかさず頭上に視線をうつすと――――先ほどの化け物が威太刀を八つ裂きにせんと飛び掛かっている、まさにその時だった。
憤怒。あるいは憎悪、怨念。
街灯のもとに照らし出された化け物の面貌は、それらの感情を全てない交ぜにし剥き出しのまま貼り付けたようで――――般若の面にも似ている――――このうえなく醜悪だ。
「えっ、マジか」
己が死に至るまであと数秒もないと認めるなり、ふいに間抜けな声が漏れてしまう。なまじ心構えが出来ていないからこそ冷静だった。
死ぬ間際のセリフはもう少し格好良いことを言いたかったな、斬り裂かれた後はすぐに意識が飛ぶといいな、などと下らないことを考える。
だが威太刀の身体が八つ裂きにされることはなく、眼前で起きた出来事に気をとられて、むしろ意識ははっきりと覚醒した。
禍々しい鉈をいまにも振り下ろそうとしていた化け物めがけて、横から突如として飛び出したもう一つの影。その“影”が化け物と重なり完全に隠れてしまうと同時に、数分前に見た斬撃よりも遥かに鋭く、素早い刃の閃光が化け物の身体を縦に斬り裂いたのだ。
化け物は奇襲についぞ気付くことなく、刀傷から波及するように塵へと分解し、たちまち消滅してしまう。
異形の化け物をあっという間に斬り捨てた新たな“影”は、呆けるように顛末を見届けていた威太刀の前へ軽やかに着地する。こちらは打って変わって、少なくとも見た目は化け物などでないらしい。だからこそ威太刀は目を疑ったのだが。
腰まで伸ばした漆黒の長髪。細く引き締まった四肢。凛として隙を感じさせぬ出で立ち。
「どう……なってんだよ、これ……」
威太刀の危機を救ったのは、あろうことかあの
「命拾いしたな。威太刀」
化け物の残滓たる塵が粉雪のごとく舞い散るなか、神々しいまでに悠然とした佇まいを保つ克那。その手に携えられた長刀が、異様さをいっそう引き立てる。
長刀は全長で一メートル二〇センチほどはあろうか。蔵で見つけた日本刀よりも更に長大だ。女子としては高身長の部類に入る克那でも、その得物に対してばかりは
「それ、本物の刀か? いや、じゃなくて…………何。何が起きてんだ……?」
礼を告げるよりも先に疑問が口を突いて出る。このたった数分間のうちに発生したあらゆる状況が、理解しうる許容量を超えていた。何よりも先に説明を求めるのは詮無きことかもしれない。
「…………」
押し黙ったまま、ひたすらに注がれる冷ややかな視線。それが克那にとって返答の代わりだとでも言わんばかりの態度だった。なぜなのかは解せないが、克那はいま、明確に威太刀を
理不尽極まりない対応にも食って掛かる気力すら起きない。ただ事態を受け入れるための材料が欲しい。
『どうしたのカテナ? そんなやつに構ってやることないじゃない』
唐突に、何処からともなく少女の無邪気な声が聴こえてくる。つくづく訳の分からないことばかり起こる日だ。克那の口から発せられた声では当然なく、周囲を見渡しても二人のほかに人の気配はない。いよいよもって威太刀は理解することを諦めた。
克那はこともなげに塵を払い長刀を鞘に収める。わずかに聴こえる程度の小さな溜息。
「この夜のことは忘れろ。威太刀の関わることではない」
ひどく冷めた声音で短く告げると、すぐさま威太刀に背を向けて歩き出す。夜の闇へ溶け込むように去っていく彼女の背中を、威太刀は茫然と見つめることしかできなかった。
夜が明け、登校前の支度の最中、ふと一睡もできなかったことに気付く。克那から告げられた忠告に反し、昨夜の記憶が焼き付いて離れようとしない。己の身に降りかかった出来事が非現実的すぎるあまり、夢遊病か、さもなければ精神疾患かと疑ったほどだ。
家を出て坂道を上り始めても奇妙な感覚は続いた。気怠げな生徒たちが無口に、淡々と坂を登っていく。目の前に広がる光景はいつも通り平穏そのもの。数時間前までとはまるで別世界だ。
「おっす、威太刀。今日はひっどいボケ顔だな」
「……二ノ宮か」
「うわっ、正面から見ると更に酷い。酷すぎる。徹夜でもしたのか?」
「おう……そんなとこだ」
昨日と同様、二ノ宮が背中を叩いて合流してくる。呆けた威太刀とは対称的に、相も変わらず呑気で下らない事しか頭にない顔。それが不思議と今は心強い。
威太刀の切り返しが冴えないのを良いことに、二ノ宮はいつにも増して饒舌に語りはじめた。
「そういえば一年女子の美少女図鑑、いよいよ完成が近いぞ。だがここらでもう一つ起爆剤を投入しておきたい。そんなわで今日から月末まで、学年内すべての男子に投票を募ることにした! 美少女番付だ! ランキングは学期中、一ヶ月ごとに更新されていく。その時々の人気者トップテンを決めていくわけだ! 壮大なプロジェクトだろ!」
「あー、まぁ、うん」
「なお投票の拒否は認めるが、その場合は他の誰かに選挙権を譲渡してもらう。つまり一人で二人分投票できる。組織票が集まる危険性もあるが、あえて隙を作っておくことで上位争いはより激しく盛り上がる! いずれは二年生版、三年生版と規模も拡大していく予定だ! ふはははは! どうよオレのこのビジネスセンス! 褒めて! ねぇ褒めて!」
「そりゃすげーな」
「ちなみに威太刀。お前には拒否権はない。お前はオレの友人だからな……いわばこのプロジェクトの協力者。参加しないという選択肢なんてない。いいよな?」
「いいんじゃねー?」
「心の友よフォーエバー!!」
何やら勝手な企みに巻き込まれたような気もしたが、そんなことに注意を裂いていられる余裕はない。適当な相槌を打ちつつ、浮遊感にも似た気持ちの悪さを鎮めるので精いっぱいだ。
やがて教室に辿りつき、授業が始まれば即座に居眠りし、昼食は購買で買ったパンをつまみ、ホームルームは適当に聞いているふりだけして、再び下校時刻。全てうわのそらのまま、気付けばあっという間に流れていく。
港湾へと落ちていく夕陽を遠目に眺め、二ノ宮の狂言じみた語りもそれとなく受け流して坂を下る。やはりすべてがいつも通り、波風が立つこともなく安穏とした日常。これが自分のいるべき正しい世界だ。
昨夜のことは、寝ぼけている間に見た変な夢に過ぎなかったのだ。そうに違いない。
丸一日かけて自分自身を説得し続けた甲斐あって、下り坂の途中で、買い物をし忘れていたことに気付ける程度には平常心を取り戻しつつある。だが威太刀の正気を完全に取り戻させたのは、意外にも二ノ宮の戯言だった。
「正直言って、今回の投票は結果が見えすぎてる! 人気上位陣がまだ固まっていない現時点で、学年全体に知られている美少女といったら、
“春日山克那”という名に思わず反応し、続く“賭け金”の三文字で、ようやく二ノ宮の戯言に耳が傾く。威太刀の大好物、金の匂いだ。
「なぁ二ノ宮よ。もしかしてお前は、学年内の美少女ランキングを、男子による投票で決めようと考えてるのか?」
「うん、朝言ったことだな、それ」
「そして投票結果の予想で賭けを仕切ろうと考えたんだな?」
「えっ、聞いてなかったの? 朝から今まで全部?」
二ノ宮が飼い主に捨てられた犬のような顔になる。無論、話など聞いていなかった。
「だが現段階では克那が一位になることが分かりきっていて、二位以下に票が集まり辛くて賭けにならない。こうだな?」
「それも言ったな! まるっきり聞く気ナシだったんだな!」
このとき、威太刀のどうしようもなく金と物欲にまみれた頭脳に、ばちばちと電流が走る。威太刀は金儲けの予感にだけはやたらと目ざとい。
おそらく二ノ宮が考えている賭けとは、特定の一人に絞って順位を予想するものだ。だがそうすると克那以外に賭け金が集まらない。
「解決方法ならある。まず、上位五人の位置を予想する形式で賭けさせればいい。克那は一位確定としても、二位以下に関してはまだまだ予想のし甲斐がある」
「そうは言っても、みんな判断材料が足りてない状況だろ。そもそも五人も思いつかないって奴が大半だ」
ほかの下校中の生徒たちに聴こえないように、徐々に声を小さくしていく。傍から見れば不審なことこの上ないが、そこは構わない。悪だくみにひそひそ話はつきものだ。
「そして次に、二ノ宮。お前が新聞部に入ればいい」
「は?」
「校内新聞だよ。週に二回程度、克那以外の美少女を何人か特集取材していくんだ。中間発表なんかも良いかもな。それを配布するなり掲示板に貼るなりして、二位以下の認知度を上げていけばいい」
賭けを盛り上げるためには、二位以下にランクインしそうな上位陣の認知度を早い段階で上げなければならない。ならば伝聞でしか得られない噂よりも、目につきやすい所から情報を発信すればいいのだ。
「それだと賭けをやってるのが先生たちにバレないか?」
「怪しまれないよう、在学生徒の紹介って形で男子もついでに掲載しとけば、それなりに健全な紙面に見える」
「まぁオレはそれでも構わんが……お前は一体なにを企んでるんだ……?」
いよいよもって二ノ宮が訝しむような目になってくる。威太刀の言葉に裏があると気付き始めているのだろう。だがこちらに言わせれば、ここまで来て何故気付かないのか不思議なほどだ。
「なに、簡単な話さ。この俺に…………集計結果を横流ししてくれれば、な……」
「…………なるほど。そういう思惑か」
賭けで確実に勝ち、配当金を得る。威太刀の目的はじめからそれだった。
本来、威太刀はギャンブルをあまり得意としない。運が良いほうでないからだ。故にこそ、確実に勝てる勝負にしか興味がない。
「もちろんタダでとは言わん。お前にも四割……いや、ここは友人としてきっちり五割……分け合うとしようじゃないか。お前は主催者としての収入に加え、配当金の一部を得る」
「……ほぅ。悪くない話だねぇ、キミ。どうやらオレは良い友を持ったようだ……乗るとしよう」
「俺も嬉しいぜ。まったくお前とは気が合うな…………」
「うふふふふふふふ!」
「ふひひひひひいひ!」
小悪党じみた笑い声が収まらないまま、二人の帰路を分ける交差点へと辿り着く。二人は満面のゲスの笑みで恋人のように手を振りあい、ほどなくして家路に戻った。周りからはつくづく気持ちの悪い二人組に見えたことだろう。
金儲けのことを考えると、朝から続いていた居心地の悪さが嘘のように晴れていく。普段は邪険にあしらっているが、なんだかんだと二ノ宮の存在はありがたいものだ。
昨夜の出来事もすっかり忘れ去られ、頭のなかは手に入る配当金の皮算用ばかり。
結局、買い物のためスーパーに足を踏み入れるまで、ゲスな笑いは止まらなかった。
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