第一章 刃冴ゆ夜

蔵の肥やし


 連休が明けると、街は倦怠感を顔いっぱいに浮かべた人々で再びごった返す。すれ違っていく誰もが額に薄く汗をかいている。週末から急に上がり始めた気温は、月曜には、早くも全国的に夏日になると予報されるほどだった。

 通学路の坂道を行く威太刀もまた、少なからず暑苦しさを感じる。行く手には山城の如く頂上にそびえ立つ学校。振り返ると、雄大な海が連休前よりもいくらか眩さを増した反射光を放っている。

 東西と北を山に囲まれ、南方に海を臨むここ――――皚貴市しらきしは、高層ビルが地上を占める大都市とも、自然風景を多く残した田舎とも言えない、どこにでもある中途半端な街だ。取り立てて注目に値する特徴は多くなく、強いて挙げるものがあるならば港を中心に発展しているくらいか。港湾に目をやれば、たいてい一つはフェリーが見つけられる。

 地形の特性上仕方のないことだが、皚貴市にある学府のおよそ半数は山側に設置されている。平地に建てられているのは、どちらかといえば偏差値の優れた進学校ばかり。これまた下とも上ともつかぬ至って平均的な高等学校――綿江わたえ高校に通う威太刀は、当然ながら、無意味に脚力と持久力ばかり鍛えられそうな坂道を上ることを強いられる。


「よっ。いかにも憂鬱って顔してるな」


「お前の顔を見ると三割増しでゲンナリする。今から見るぞ。3、2、1、はいゲンナリ」


「オレのこと嫌いなのかお前」


 威太刀の背中を、景気の良さげな笑みを浮かべた男が平手で打つ。彼の名は二ノ宮健一にのみやけんいち。同じクラスで席が近く、尚且つ同じ中学出身らしいということでよく話すようになった。おそらくどこのクラスにも一人はいるような、いわゆるムードメーカー。悪く言えば騒々しい奴だ。

 二ノ宮はあくび混じりに港湾のほうを眺め、無防備に後ろ歩きで威太刀に並ぶ。


「しかしかったるい坂だよな。やっぱ他の学校にしときゃ良かったかねぇ」


「坂が嫌なら中学のうちにガッツリ勉強してれば良かったんだよ」


「言っとくがオレはそんなに馬鹿じゃねーぞ。その気になりゃもうちょっと上のレベルも狙えた」


「じゃあどうして綿高わたこうにしたんだ」


「第一に、女子のレベルが高い。第二に、運が良ければ坂道でパンチラが狙える」


「やっぱお前じゃ無理だろ」


「エロスはあらゆる命の母。何をするにしたってエロスがあれば頑張れる。そういうことだ。性欲という字はどう書く? 心が生きて、谷が欠けるだ。つまり上昇志向ってわけだな!」


「ずいぶん飛躍したな、おい」


 御多分に漏れず、この手の馬鹿は女好きだ。そしてそんな男には浮ついた噂もさっぱり立たない。石を投げれば放物線を描いて落ちるくらいの、誰もが心得る自然の摂理だ。

 入学から一ヶ月が過ぎたこの頃、二ノ宮は校内の美少女をリストアップする計画に取り掛かっているらしい。校門を通り下駄箱に着くと、クラスの女子の上履きを幾つか指さし、頼んでもいないのに人気度の高い人物を解説しはじめる。威太刀もこういった下世話な話は嫌いではないのでよく耳を貸すのだが、いつも決まってある人物の名前に辿り着くので、少々気が乗らない。


「ウチのB組でいえば綾瀬、筒井あたりが注目株だが……やっぱりこの学年での人気筆頭候補はあいつだろうな。色々と聞き込みしてみたが、みんな口を揃えて言うぜ」


 靴を履き替えて廊下に出たところで、目の前を通り過ぎていった少女に二ノ宮の目が釘づけになった。凛とした佇まいに漆黒のカーテンのような長髪。春日山克那かすがやまかてなだ。


「文武両道にして寡黙、俗世間の連中とは一線を画す存在感。あれほど完璧なクールビューティーはそうお目にかかれるもんじゃないぞ。高嶺の花って言葉は春日山克那のためにある、ってのが一年男子の共通意見だ」


「そうか? 剣道部だろ。剣道やってる女子なんて汗まみれで良いもんじゃねーよ」


 あくまで関わり合いがないふうに演じる。剣道に取り組んでいる克那を誰よりも昔から知っているのは威太刀自身に他ならないのだが。


「ばっか、それがいいんだろ! 絶対いい匂いがする! オレが保証するね。あれは悪臭とはまったく無縁な生き物に違いない」


 ちなみに威太刀が知る限り、剣道の稽古を終えた克那を臭いと思ったことはない。男の酸っぱくて鼻をつまみたくなるような臭気と違って、何故か克那からは石鹸の香りが漂う。

 我に返り、少しでも昔のことを思い出していた自分に嫌気がさす。二ノ宮に、夢を見すぎだ、と軽く釘を刺して、教室へと向かう足を速めた。

 それからも二人でしばらく他愛のない会話に興じていたが、ホームルームの開始を告げるチャイムと共に席に着いたときに、ふと斜め前方の席が空いたままになっていることに気付く。


「二ノ宮、あそこの席って誰のだっけ」


「あー、あそこな。たしか瀬田せだじゃなかったか。不登校気味らしい」


「へぇ……」


 ここに来てようやく名前と顔の記憶が一致する。瀬田。先日、路地裏で不良に絡まれていた彼だ。

 欠席した理由はやはり、あの時のことが堪えたからだろうか。

 仮に登校して来ていても気まずくなるだけなのは違いないのだが、しかし欠席となるとそれはそれで殊更ことさらに気が重い。もしもあの時、救いの手を差し伸べていたら。無意味なこととは分かっていても、自己嫌悪の念は一日中消えなかった。





くらの整理を頼まれてくれるかの。いい加減、片付けにゃならんと思っておったんじゃ」


 帰宅して早々、祖父――躑躅ヶ崎慈玄つつじがさきじげんがあっけらかんと告げる。

 躑躅ヶ崎つつじがさき家はいわゆる古民家だ。かつてはそこそこに名のある家だったらしく、敷地は相応に広い。平屋の家屋に隣り合わせるかたちで道場があり、小さな公園ほどはある庭を挟んで、はなれに蔵がある。初めて家を訪れる友人などは羨ましそうにするが、住んでいる身からすれば掃除の手間が増えるので厄介なだけだ。

 蔵は特に使い道もなく、長らく放置されたままだった。幼い頃に悪さをした罰として放り込まれて以来、殆ど立ち入ったことがない。ほかには一時いっときだけ秘密基地にしようとしていたくらいか。


「急だな。今から?」


「今じゃなければいつする」


「そういうことは連休のあいだに言っといてくれよ……」


 すまんの、と微塵も申し訳なさのこもっていないねぎらいを述べ、慈玄はさっさとトイレに入ってしまう。

 昔は鬼のように厳しかった祖父だが、今となってはまるで牙を抜かれた獣のようだ。威太刀が剣の道から逃げた頃からだろうか。愛想を尽かせたのか、さもなければ彼なりに負い目を感じているのかもしれない。それゆえに少しだけ接しづらくもある。

 暮れる前のまだ明るい空を見上げ、日が長くなったものだな、と思った。せめて夕食までに三分の一くらいは済ませておきたい。棚から鍵を引っ張り出し、蔵へ足を運んだ。

 いざ作業を始めてみると、埃っぽさと骨董品の多さにまずは驚かされる。すっかり使わなくなった生活用品の数々に混じって、古めかしい掛け軸や高級そうな壺が度々現れる。まとめて売れば数十万単位の金額になりそうだ。しかしそれらの骨董品は祖父曰く『だいじな家宝』らしく、長年蔵の肥やしにしているくせに手放すことだけは頑なに拒む。そのため、不要になった家具と価値のありそうな骨董品とを選り分けるだけの作業に終始した。

 もはや洗ったところで使う気も起きないような汚いカーペットや、首が回らなくなり蔵に仕舞われたまま新品に居場所を奪われた扇風機など、久しぶりに見掛けた家具たちを懐かしんでは、徐々に時間を浪費してしまう。

 仕分ける対象があまり多くないのは幸いだったが、なにより面倒なのは埃を払う作業だ。保管しておく物品にしても、動かさないことには確認できない。だがちょっとずらしただけでも派手に埃が舞うので、結局一つ一つ蔵から出して綺麗にしなければならない。そうこうしている内に日が落ち、ひと段落ついた頃には時計の針が八時半を刻んでいた。

 最後に一つ、布の袋に包まれた棒状の品を取り出す。長さは大まかに一メートル弱ほどで、ずしりと重い。袋をとめる紐にはちいさな木札が下げられており、いやに物々しい文字列――おそらくは古い漢字だが、とても読めそうにない――が記されている。

 気味悪く思いつつも紐を解き、中身を改める。


「うっわ……こんなもんまであったのか」


 その正体は、良好な状態のまま保たれた見事な日本刀であった。

 鞘は夜の水面のように深い藍色。細く、長く、艶やか。それが無機物であることも忘れて“色っぽい”とすら形容してしまえる。蔵に眠っていたものの中でも飛び抜けた逸品であることは、素人目にも疑いようがない。

 剣術道場を構えている以上、真剣の一つや二つくらいは家の何処かに隠されているのだろうとは思っていた。破魔守はまがみ流剣術の使い手が本来振るうべき得物とは、すなわちこういった代物なのだ。

 刀身を見てみたい。

 蔵の整理などという本来の目的は頭から失せ、どこからともなく沸いた奇妙な欲求のままに鞘から刃を抜こうとする。


「あれ……? かってぇ……な……っ!」


 しかしその刀身が露わになることはなかった。つばと鞘が、はじめから一体であるかのように頑として離れないのだ。危なっかしさを承知で強引に引き抜こうとするも、びくともしない。

 中で鞘と刃がこっぴどく錆びついているのだろう。しばらく格闘した末に辿り着いた結論がそれだった。

 手入れもなしに劣悪な環境で長年放置されていたのだ。そもそも外面が綺麗に残っているだけでも奇跡的と言える。他の骨董品と同様、これも蔵のなかで朽ち果てるまで忘れ去られた哀れな“家宝”の一つだ。

「こんなん取っといてもどうしようもねーだろ。ったく、じーちゃんはさぁ……」

 埃を払うのもそこそこに、再び袋に収め元あった位置に戻す。威太刀は呆れかえりながら、ひとまず作業を終えた。

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