刃目覚む夜

「そんな、なんで……」


 驚愕に歪む瀬田の面持ちは、その奥に懐いたであろう畏怖の色を隠そうともしない。

 極度の思い込みによって寄生対象の人格を模倣する。そんな一種の自己暗示じみた性質が幻を見せる能力と符合していたのだろう。

 背中から異物感がすっと消え、痛覚の残滓のみになる。

 幻影とはいえ感触は真に迫るようだが、所詮、残滓は残滓に過ぎない。


『未だ決め手には至らぬぞ。止まるな、イタチ!』


 スティークの忠告通り、勝負を決するまでの一撃には足り得なかった。すでにあちらも反撃のため体勢を立て直しつつある。

 追撃は容易であろうし、そのうえ間合いで勝るこちらが俄然有利。もういちど全神経を研ぎ澄ませ、最高の一手をくれてやれば、今度こそあの短刀を断つことができるはず。

 確信して踏み込みと共に刀を振り上げ――られない。

 どこか違う場所から自分自身を見下ろしているかのような、身体と意識が乖離する感覚。遅れて伝達される激痛。わざわざ見やるまでもなく、右腕が悲鳴を上げているのだと判った。

 単なる裂傷の痛みならばまだ痩せ我慢でやり過ごせるだろう。しかしこれは普通の痛みではない。

 傷口よりもっと深い階層の筋肉や神経を侵していく、過剰なまでの疼きが、痛覚にまで至ったみたいに。


『イタチ!! 動け!!!』


 互いに間合いとしては二歩から一歩半の間合い。ここで静止してしまえば、有利な状況から一転して恰好の的となってしまうと、どんな馬鹿でも直感でわかる。

 わかるというのに、身体が言うことを聞かない。


「……た、躊躇ったかなっ? ふふ!」


 とうとう反撃に移った瀬田は、ぬらりと短刀の間合いへ侵入。僅かに鋭さを目減りさせた一閃が、がら空きになった首目掛けて迫る。

 相変わらず身体は動きそうにない。代わってその一撃を払い去ったのは、威太刀のすぐ脇から振られた大太刀だった。


「気を抜くな!」


「っ!」


 克那がらしからぬ大声で割って入ってくる。急いで後退した瀬田を追って続けざまに斬りかかり、いくらか威太刀との距離を開かせていく。

 両者とも動きが鈍ってしまった条件下ならば、間合いで勝る克那に分がある。

 このまま待っていても、あとはつつがなく勝利してしまえるだろう。だが、それで本当に良いのか。

 “強者の理”を殺せ。僅かなりとも可能性を拒むな。瀬田を救いだせる術は決して皆無ではない。

 諦めることなど、威太刀にはもう許されないはず。


「……スティーク。さっき斬った厄叉の魂は……まだ、そこらに、あるよな」


 震える声でぎこちなく放つ、確認の言葉。


『ああ、喰うておれる暇が無かったでな』


 対するスティークは既に威太刀の意図を理解したのだろうか、低い声で応じる。


「たらふく喰いたいなら、今がその時だ」


 わかっている。その選択にどれだけのリスクがあるのか、今はまだ全くの未知数であることを。

 刀憑きに斬られた傷。腕の芯を蝕む痛み。渾身の一撃の直後に訪れた身体の異変。

 そして今、己の手にする刀憑きに膨大な力を与え、強引に限界を打ち破り、再び全身全霊の一太刀を振るう。


『ハッ……そちとわらわは一蓮托生よ。言われずとも承知しておる!』


 わかっている。本当は昨夜からわかっていたはずだった。

 ひっきりになしに突き付けられる非情な事実に目が眩んで、意識する暇さえなかった。だが決して有り得ないことでもなく、内心でどこか目を逸らしていた。

 すべて覚悟の上だ。

 例えこの身が化け物の毒に呑まれようとも。


「行くぞ、捨縊すてくびり!!!」


 散り散りになった粒子が微風に攫われ、渦を巻いて一点に集積し、スティークの刀身へと吸われていく。

 一歩。二歩。

 スティークの身体操作はかつてない強制力を以って、硬直した威太刀を突き動かす。

 三歩、四歩、五歩。

 足音はしだいに間隔を縮め、向かうべき最前線へと誘う。

 今にも瀬田にとどめを刺してしまいそうな克那の背中が、だんだんと近づいてくる。


「どいてくれ!!」


 こちらの声にすぐさま反応した克那は、振り返りもせずに飛び退いて道を譲る。避けねば死ぬと本能的に察した動きだ。

 ぐっと腰をかがめ、前傾姿勢のまま峰を肩につける。

 最後の一歩。もはやスティークの力による強制を必要とせず、己の意思に基づいた決意の前進。

 空気と同化し、風に乗った。

 瞬く間に瀬田の目と鼻の先まで肉迫する。そうして振り抜いた逆袈裟の斬撃は、短刀を欠け目から裂き、真っ二つに斬り落とした。




 青白い空から注がれる陽光。

 照り返し、半透し、煌めく砂塵。

 乙女の頬の色で見渡す限りを塗り尽された平野が目の前に広がっている。

 振り向けば、深く長い渓谷を挟んだ対岸に、力強く咲き誇る桜の樹。その下に立つ小さな背中。


「     」


 耳朶をか細くも優しい音色が撫でる。

 音の輪郭ははっきりとせず、微かな名残だけが聞こえている。それだけで十分だった。

 ――――なぁ。どうしてそっちにいるんだ。

 そこにいたらお前の声が聞こえない。

 頼むからもっと近くにいてほしいんだ。

 お前の小さな声じゃ、届かないよ。


「    」


 ああ、そっか。届かないのか。

 俺の声も、お前のほうまで。

 こんな声じゃ、まだ届かなかったんだな――――


「  」


 砂塵が靄と化けて対岸へと流れる。

 空と同じ色に薄らいで、音も徐々に遠ざかっていく。


「     」


 桜の彩りさえもやがて消え失せ、気付けば目の前には虚無の雲海だけが広がっていた。

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