罪に塗れたこの両手に

 克那が走り去っていったほうとは真逆の道を、覚束ない足取りで進む。通学路を横切り、飲み会終わりのサラリーマンさえも見当たらない表通りに出る。

 等間隔に配された街灯にウィスキー色に切り抜かれた夜の道路は、水玉模様のテープに似ていた。いずれの水玉にも瀬田の姿はない。

 携帯で連絡を取ろうと何度もかけ続けているものの、留守電の案内が流れるだけで、瀬田の肉声が聞こえることはなかった。

 見慣れた街の中心部へと差し掛かる。半端な都市に見合った半端な高さのビル群。それらが壁となり、道を形作り、生じさせた迷路。あらゆるものを呑み込んで帰さぬ口腔。

 威太刀はその深淵にいざなわれるように路地裏へと踏み込んでいった。


(もう、手遅れなのか……)


 胸の奥に積まれた錘が重量を増していく。

 足は自然とあの場所へ向かっている。一週間前、全てが始まった路地だ。

 今にして思えば、あの夜、威太刀の前で殺された見知らぬ人も、厄叉に変えられてしまったのだろう。そして恐らくだが、それを見捨てた威太刀自身の手によって再び殺された。

 もしもこうしていたなら、などと夢想したところで全ては後の祭りだったのだ。命からがら助けることが出来たとして、所詮最後は化け物になるだけ。むしろ威太刀が命を拾ったぶん、あの時に取った選択こそが最善だったといえる。


(最善……だったのか、あれが?)


 今また瀬田を見捨てて逃げ出すことは難しいことではない。事実そうしたいのが威太刀の偽らざる本音だ。なのにこの身体は走っている。瀬田を助けたくて、生きていてくれと必死に願い。立っているのもやっとなほど虚脱した四肢を、なおも奮い立たせている。一体何故、この心はこんなにも痛む。

 無音の路地裏に携帯電話の着信音がこだます。手元の携帯は『呼び出し中』と表示されたまま。

 それが瀬田のものだという確信もないまま、恐る恐る音のするほうへ向かう。いくつかの角を曲がり、迷路の中心から出口へといつの間にか近付いていっている。

 やがて辿り着いたのは全てが始まったあの路地――――最初に瀬田を見捨てた場所だった。

 暗がりの中で目を凝らす先に、発光し震動する携帯電話。そしてその前にへたりこむ小さな人影。


「瀬田……!?」


 威太刀の呼びかけに人影がはっと振り返る。

 肩越しに露わになったその横顔を見紛うはずもない。威太刀が知る瀬田の姿はひとつも損なわれていなかった。

 思わず駆け寄り、瀬田の薄い肩を抱きしめた。


「ごめん、遅くなった。……本当にごめん」


「……威太刀、くん」


 見る見るうちに瀬田の瞳は濡れそぼち、壊れた水道管のようにぼとぼとと涙を零れさせた。

 無言で威太刀の胸に顔を寄せる姿がひどく弱々しい。


「安心してくれ。俺が、お前を……なんだ、その……守る。から、な」


 わずかに言い淀みながらも、最後は確かに宣誓する。もう“ついていてやる”などと逃げ道を残した言い方はできない。

 威太刀は心から感謝した。彼が生きていてくれたことに。彼が生きているうちに間に合ったことに。

 そうしてからやっと理解する。

 ――――俺はなんだかんだと言いながら、やっぱりそう在りたいんだ。

 幼稚な憧憬。両手を無自覚な罪悪に染めていながら、恥を知りながら。滑稽で、陳腐で、心底下らない、いつか見た馬鹿げたヒーローのように。

 か弱きものを守る存在でありたいと、そう願ってしまっている。




 瀬田を自宅へ匿うため引き返す道中、瀬田はしきりに威太刀の持つ刀――スティークを凝視し続けていた。

 怪訝に思われるのは当然のことだろう。一般常識を弁えた市民であれば、これを見た誰しもが最初に銃刀法という言葉を思い浮かべるに違いない。そしてこんなものを持ち歩いている人間がまともなわけがない。

 想定していた事態とはいえ、弁解するのは難しそうだ。


「これは気にしないでくれ。自衛用の武器みたいなもんだ」


「……威太刀くんも、人を斬るの?」


 思いがけない返答に一瞬怯む。

 人から変質してしまった厄叉を斬るということは、たしかに人を斬っているのと同じことかもしれない。だが瀬田が何故それを知っている。

 語気に攻撃的な意図は感じられなかった。人間≒厄叉を斬っていたことを咎めているわけではないのだろう。

 まず『威太刀くんも』という言い回しからして不自然だ。彼の発言を言葉通りの意味で受け取るとしたら、


「待て。俺のほかに刀を持ってる奴を見たのか?」


「う、うん……」


 威太刀の問い返しに、瀬田はすこし戸惑った様子で答えた。


「どんな奴だった?」


「白い和服のひと……だった」


「そいつが……人を斬ってたのか」


「斬っ……てた……と思う。速くてほとんど見えなかったけど……」


 威太刀のほかに刀を持ち歩いている不審者がいる。その人物は白い和服に身を包んでいるという。

 いやに見覚えのある姿が想起される。仮にそれがだったとして、むしろ謎が根深くなるばかりだ。


「そいつは女、だったか」


「…………はっきり見えたわけじゃないけど、でも覚えてる。……昔、ボクを助けてくれた人。白いつばをくれたあの人に……襲われた」


 動揺に震えながらも瀬田の唇は確かに告げる。他人の空似というちっぽけな望みを呆気なく蹴散らし、不可解に過ぎる解答を突きつける。

 もはや言うべくもない。春日山克那が人を斬っていた。それこそ瀬田の見た光景だ。

 厄叉を斬ることに固執し、威太刀の介入も頑として拒んだ彼女が、今になって何をしているのだ。

 傷を負って厄叉になりかけの人間を、変異する前に仕留めていたのか。なら五体満足の瀬田が襲われたのは何故だ。

 思い返せば、スティークは『あやつが厄叉の親玉』と愉快げに推測していた。根っからの戯言と思い聞き流していたが、まさかそれさえも的中していたというのか。

 解らない――――克那の考えることが解ったためしなど、あろうはずもない。


「くそ、わけがわかんねぇっ……!!」


 悪寒が背筋に蘇り、それから必死に逃れようとして威太刀の足はいくらか速くなる。

 自宅までもう間もない。兎にも角にも、疑問は瀬田の安全を確保してやるまで後回しだ。

 住宅街の路地を駆け足気味に抜け、躑躅ヶ崎家の門の前にまで辿り着く。安堵して身体から力が抜け落ちそうになるが、玄関に立つ背の折れた人影を見咎めると、威太刀は一瞬にして固まってしまった。


「遅かったのう、威太刀。……と、そちらは友人じゃな。随分と深い時間じゃが、歓迎しよう」


 一週間前に突如として家を留守にした祖父・躑躅ヶ崎つつじがさき慈玄じげんの姿がそこにあった。


「じーちゃん!? 帰ってくるんなら連絡の一つくらいしろよ!」


「なにせ慌ただしかった故な。……あと、そいつにも、久方ぶりに挨拶をしてやらねばのう」


 焦燥を露わにした威太刀の追求も軽くかわし、慈玄の視線はやはりスティークへと向けられる。

 遅かれ早かれ気付かれるだろうとは構えていたが、よもやこんな時になるなどとは思ってもいなかった。

 スティークのことはどう釈明したものか。

 とても考えが纏まりそうにない。今の威太刀には、何を置いても知りたいことが多すぎた。




◇   ◆




 月影を斬り裂くように振るい、克那は大太刀・凌霊亞切を鞘へと収める。

 絶命と同時に塵と消える厄叉を相手取った直後に血振りなど不要であると知りつつも、身体に染み付いた所作はそう簡単に抜けはしない。

 仮に臨戦時に身体に行き渡らせるを、構えた時は百、刀を振るう直前を千としたとき、対象を排除後、残心を取る頃にはは零になっていなければならない。

 一瞬のうちに千を絞り尽し、切断するその瞬間までに消化することで、堅苦しい強制力から解放された切っ先は素直な線を辿る。斬撃は素直であればあるほど鋭くなる。そして残心すると共にまっさらな状態へ回帰。まっさらであるが故に、受け取るものも多い。油断を禁じ警戒を保つには、素直な感性で状況を俯瞰し、受け入れるのが一番だ。

 とどのつまり殺し合いとは素直になれた者ほどより良い結末を引き寄せるもの。うたぐるのはあくまで“殺し”の前後、“読み”の段階のアプローチに過ぎない。

 そうして脅威が完全に断たれたことを確かめ、刀を収める瞬間。一切の邪念が取り払われたうえに気を緩ませた状態では、思いがけず癖が出てしまう。

 血振りは克那にとって、自分の意識に戦闘終了を知らせる儀式のようなものだった。

 鯉口が小気味よい音を鳴らすと、それを合図に軽い酩酊に似た感覚が襲ってくる。身体がリラックスし始めているのか、それとも落差に驚いているのか。いずれにせよ負荷がかかっていたことに相違はない。

 ――――いよいよ威太刀を斬らねば。

 目の前の厄叉を狩ることに集中していた為に、刀憑きに乗っ取られた威太刀は放置してしまった。

 決して情けをかけたわけでも、躊躇したわけでもない。ただ、亞切がより新鮮な魂を求めたというだけのこと。

 剣士の道から堕落していながら、今なお視界の隅に這いずる虫けら。それが克那から見た威太刀への評価だ。殺したところで何の悔恨が残ろうか。むしろ殺したくて堪らないほどだ。


『カテナの感情が手に取るように伝わるわ。怒りと憎悪、それから僅かな期待。へぇ……まだ期待なんてしてるのね? あんなザマを見ても』


「不快なものをようやく消せるという意味では、そうだろう」


『その濁した言い方が良くないわ。いい加減に素直になりなさいな。“排除”するという“結果”ではなく、“殺す”という“過程”に期待してるんじゃないかしら?』


 亞切の言葉に少々面食らう。

 おそらく自分がこの世で最も卑下しているであろう相手に、期待を抱く理由などあるはずがない。それでも克那の内面を本人以上に客観分析できる亞切が『期待をしている』と指摘するのであれば、この戦いから彼を排除することに対してのものだろう。そう考えていた。

 結論としてそこに偽りはない。克那は心底から威太刀を目障りに思い、殺したがっている。だが本心では、“彼をこの戦いから排除する”という名分に意義を置いていない。

 “躑躅ヶ崎威太刀という個人”を克那が手ずから殺す。殺せる。他の誰にも譲ることなく、我欲に従って、斬りたいと思うものを斬る。排除するというは所詮建て前に過ぎず、殺すという過程をこそに、期待の原点がある。


『そして丁度、あつらえたみたいにあの坊やも見つかったわ。さて、アナタは何を望むの?』


 思考の伝達が反転し、亞切から克那へと言葉もなく情報が伝えられる。近くの小さなマンションの壁を一息で駆け登り、その場所へと目を凝らす。

 躑躅ヶ崎つつじがさき家の門の軒先に半身を隠された威太刀の姿。剣士・克那が今もっとも

 然る後に残りの半身も門に隠され、反対側からまた威太刀の全貌が現れる。庭を先導するのは彼の祖父にして克那の師・躑躅ヶ崎つつじがさき慈玄じげん。そして最後尾に所在なさげにしながらもついて行く小柄な少年。


「……なるほど。まさかそこが通じていたとは……」


 ――ああ、なんてことだろう。これが神の差配だとするならば、神はよほどの世話焼きか捻くれ者か。

 よりにもよって克那が“殺したい男”と“殺さなければならない男”が今、一緒に行動している。



◇   ◆

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