か弱きもの

 何も考えずに午後の授業を適当に聞き流していると、放課後が訪れるまでがひどく長く感じる。深刻に思い悩むことでもあればもっと速く過ぎるのだろうが、いまの威太刀にとっては、思考に耽ること自体が煩わしい。やっとのことでホームルームを乗り切るころにはすっかり疲れ果てていた。

 しかし二ノ宮の駄話に相槌を打つ帰り道だけはやたらと速く過ぎていく。

 話題は主にランキング投票を盛り上げるための議論に終始。まったく下らなくて馬鹿馬鹿しくてどうしようもない時間だが、傷心を慰撫するには十分すぎるほど。

 やがて帰路が分かたれ、脱線ばかりの議論は後日へと繰り越しとなる。一人になるとまた急に道が引き延ばされたような気がした。


「躑躅ヶ崎くん……!」


 ふいに背後からあどけない少年の声。威太刀は振り返るまでもなく、それが瀬田のものだと理解した。

 理解したものの、どう対応すればいいかまではわからない。


「……よ、よう」


 無言で逃げるように去った昨日のことを詫びるべきか。

 学校を休んだくせに外を出歩いていることを指摘しようか。

 選択肢が次から次へと浮かんでは消え、そうこうしている間に瀬田は威太刀の前に辿り着く。不安と期待とが入り混じった表情。

 相変わらず瀬田は挙動不審だが、その様子を見て、心のどこかで安堵する自分がいた。


「昨日のこと、何か怒らせること言っちゃったかなって。ごめんね。ちょっと気になってて」


「あぁ、いや。気にしないでくれ。瀬田は別に、なにも…………。そう、あの時はちょうど……えーっと、ウンコしたくなっただけだから」


「ごめんなさい! そうとは気付かないで……」


「だから気にするなって! 俺の方こそ悪かったよ、ほんと」


 咄嗟に思いついたのが便意という、浅はか極まる威太刀の言い訳を、だが瀬田はすんなりと受け入れる。ちょっとだけ危うくもあるが、素直なのは助かる。

 この様子ならスティークの発破も出まかせだったのだろう。そう思いつつ、とはいえ確認のためと、威太刀は自ら話題を振った。


「ところで。あー、危ない事に巻き込まれたりとかしなかったか? 今日」


「えっ!? ……うん……大丈夫だよ。今日は……あの人たちにも会ってないし」


 瀬田は予想外の質問に狼狽している。受け答える顔にわずかに陰りが差したことを、威太刀は見逃さなかった。


「そいつら以外では……何かあったのか?」


「…………」


「最近はこのへん物騒だし。例の事件もあるからさ」


 核心に踏み込むたび、瀬田の緊張が加速度的に増していくのが見て取れる。

 まさか。そんなはずはない。不安な気持ちを願望に押し殺させ、半ば言質を取るように続ける。すでに瀬田の反応から嫌な予感はしていた。


「噂だけど怪物が出るっていう話も、あるだろ。……それ……じゃないよな?」


「っ……!」


 “怪物”の二文字が出た瞬間、瀬田がびくりと怯む。質問に答えはせずとも、反応からしてイエスと意思表示したようなものだった。

 背筋を悪寒が駆け上る。今ここに彼が健在であることを保証だと信じていた威太刀の希望は、あっけなく崩れ去る。

 瀬田は固まる威太刀に身を寄せ、迷わず手を握る。瀬田の指は冷え切っていた。


「信じてもらえるかはわからないけど……ボク、怪物に襲われたんだ…………。人をグチャグチャにして、犬みたいに食べてた……。ふいに目が合って、怖くなって、必死に逃げて……。でもどこまでも追ってくるんだ。逃げても逃げても、どこまで逃げても。なんとか逃げ切ったのに、今この時も見られている気がする…………たぶん、また襲ってくるんだ……」


 指先を通し直に伝わってくる震え。紛れもない恐怖心の発露。瀬田が厄叉に遭遇したであろうことは疑いようもない。

 最悪だ。

 よりによって最も信じたくないスティークの言葉が事実だったなど。威太刀が厄叉狩りを放棄すると決めたそばからこんな事になるなど。


「殺されちゃうのかな……。なんでボク、殺されなきゃいけないのかな…………誰も信じてくれない…………誰も守ってくれないんだ……」


 指先の震えが全身に広がり、いつしか瀬田は涙を目に浮かべている。

 同じ経験をした者として、威太刀にもその気持ちは痛いほど理解できた。いや、もしかしたら瀬田のほうがずっと辛いかもしれない。

 瀬田は弱い。幼馴染みとの小競り合いに一喜一憂していられるだけの余裕がある威太刀とは違う。彼を取り囲む境遇は威太刀よりも酷で、それでも耐えに耐え抜いた末が理不尽な死では、救いがなさすぎる。

 けれども威太刀は、包み込むように手を握り返しながら、無言で首を振るのが精一杯だった。言葉をかけたくとも、すぐに喉が硬く閉じてしまう。


「ねぇ……守ってよ。昨日みたいに、ボクのこと助けてよ……。…………助けて……」


 ついにくずおれた瀬田を、抱きかかえてなんとかその場に立ち直らせる。

 きっと彼も威太刀のように、考えないようにすることで夜のことを忘れようと努めていたのだ。だが溜め込んだぶん、吐き出してしまった時に蘇る恐怖心は大きくなる。


「躑躅ヶ崎くんしか……いないんだ。頼れるひと。ボクを気にかけてくれるひと。みんな、ボクが消えても誰も気付かないから…………」


 ふざけるな。お前が消えて悲しむ人なんて、腐るほどいるに決まってる。そんなことは絶対にさせない。俺が守るから。

 ――――言葉が喉の奥に引っ込む。

 言えないのだ。剣を捨て、克那に屈したいまの自分では、そう約束することなど出来るわけもない。

 何も言わずにいる事もできない。瀬田はいま、威太刀の言葉を欲している。それに応えることが出来なければ、きっと瀬田は押し潰れてしまう。

 苦し紛れになんとか返事を捻り出す。


「…………威太刀、って呼んでくれよ」


「え?」


躑躅ヶ崎つつじがさきって呼びづらいだろ?」


「……いいの?」


「良いに決まってるさ。俺が…………から、大丈夫だ」


 我ながらつくづく卑怯な男だと辟易する。こんな安い言葉で逃げ道が作れるのは、威太刀だけでしかないのだから。




「瀬田が厄叉に狙われてるって話、本当だったんだな」


 陽が落ちた後の住宅街は、キリギリスの鳴き声がそこかしこから聴こえる。変圧器の音とも聞き紛う規則的な長音が、かえって静けさを際立たせる。

 躑躅ヶ崎家の和室に佇む威太刀の声だけが調律された閑寂を乱すノイズだった。

 スティークは威太刀の困惑とも怒りともつかない曖昧な声音を鼻で笑い、襖越しに返答する。


『ほう。その様子だと、あの小僧に直接聞かされたといったところかの。それとももう喰われたか?』


「瀬田は生きてる」


『左様か。まぁ、どのみち喰われるのが運命であろ。今宵が刻限よ』


 諭すわけでも挑発するわけでもなく、ただひたすらに素っ気のない答え。押入れから解放するよう訴えることすらしない。

 スティークの口ぶりは余裕に満ちていた。今や自分は救いを乞う側ではなく、乞われる側なのだと、言外に示唆している。


「どうすりゃいいってんだよ」


『分かりきったことを。その答えを拒んでいるのは、イタチ、そち自身であるぞ?』


「俺は戦わねぇ。克那がやればいい。お前の思い通りになんてなるかよ」


『ふむ。わらわは一向に構わん。あの小娘をな』


「……っ」


 威太刀と克那の険悪な関係を知っていながら、スティークは敢えて“信用”という言葉を選ぶ。

 信用などしているわけではない。したくもない。――そう感じるであろうことを見越して、刺激しているのだ。その手に乗ってたまるものか。


『もっとも、あれは人の子を護ることに意義を置いてはおらんだろうがの』


「どういうことだ」


『戦いそのものが意義、という考えの手合いだろうて。敵の前に命を晒しあう畏怖と高揚。敵を斬り伏せることで確信する己の強さ。それこそを至上とする根っからの剣狂いの目よな、あれは』


「だから何だってんだ」


『要するに、関わりのない他者の生き死にになど固執せんということだ。人の子が喰われようとも、救えなかろうとも、気にかけんだろうな』


「けど俺はあいつに助けられた」


『そしてそちに殺意を向けた』


 くくく、とスティークが嗤う。

 馬鹿馬鹿しい。こんな刀風情が何を知っていると言う。克那ならば瀬田の命も救って――――――くれるだろうか。

 確信はできなかった。克那が強さにこだわる性格であることは、他ならぬ威太刀がよく知っている。戦いぶりからしても己の力を誇示するように立ち回っていた。

 戦いにおける立ち回り方はその人間の本性を色濃く反映する。

 いまの克那は子供時代の比ではなく、戦いに魅入られている。実際に剣を交えたからこそ、否定し難い感触がこの手に残っている。


『このままでは最悪の結末を招く可能性も少なからずあろうな。そちとて他人事ではおれんぞ?』


「その回りくどい言い方をやめろ。意味がわかんねぇ」


『あえて核心を避けておるのだ。そちが実際に事実を目の当たりにし、どのような顔を見せるか……わらわは楽しみだからの。そうさな、先んじて教えてくれるなら…………あやつが厄叉の親玉やもしれぬ。そして、そちの身はとても危険な状態にある。とだけ申そう』


「詭弁だな。そう言って厄叉狩りに行かせたいだけだろ」


『嘘か真か。判別はそちに任せよう? もたついておればそちの大事な大事なオトモダチが無惨にくびられるだけだがのぅ』


 この期に及んで瀬田のことをちらつかせる。たしかに昨夜の忠告は事実だったが、だからといって、何もかも鵜呑みするに値するとは限らない。

 スティークの言葉など、十中八九が嘘に違いない。真実を交えて嘘を信じ込ませるのはペテン師の常套手段だ。

 そこまで考えてから、ふと今までにスティークが嘘を吐いたことがあっただろうか、と思い返す。言動こそいちいち胡散臭いが、彼女が保身のために吐いた嘘といえば、学校で暴走したときの弁解くらいのものだ。

 常にスティークは事実に切り込んできた。触れられたくない心の内の傷口にさえも容赦なく。

 ならば今告げられた言葉も信じるに値するだろうか。――わからない。判別のしようがない。何を信じて何を唾棄すべきか。

 再び静けさが和室を占領しようとした時、この状況とはまるで不釣合いなメロディが唐突に鳴り響く。

 携帯電話の着信音だ。画面には“瀬田”と表示されている。あたかも狙いすましたかのようなこのタイミングで、それを無視できるわけがあろうか。

 恐る恐る通話をはじめる。


「瀬田? どうかしたのか」


『た……助けて! はぁ、はぁ……助けて! 助けて! あっ…………』


 開口一番に放たれた救いを求める声。そしてそれに威太刀が返す暇もなく、通話は一方的に切られる。

 威太刀は自分自身でも驚くほど冷静だった。状況はこの上なく単純だ。

 偶然にしろ必然にしろ、今、瀬田は危機に瀕している。その原因はおそらく、厄叉。

 威太刀を戦いに向かわせる為のマッチポンプのように思えるが、少なくとも今のスティークにはアリバイがある。今すべてを判断するのは早計だ。


「…………信じたわけじゃねーぞ」


 襖を開け放ち、荒縄に縛られたスティークを取り出す。

 決して彼女の掌の上で踊らされることを是としたわけではない。戦いに戻るつもりもない。

 今はただ瀬田を救わなくてはならない。

 見て見ぬふりをするのは容易い。だが見殺しにするという選択肢は現状、威太刀の中にはなかった。


『それで良い。そちの卑俗な意思を、愚かしいまでの情を、わらわに示せ。それこそがわらわを真に楽しませる』


 拘束から解き放つとともに抜刀。全身に気力が漲っていくのを感じながら、忌々しく思う。この感覚に徐々に魅入られつつある自分が確かにいた。

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