第四章 罪に塗れたこの両手に

不可逆の日常


 自室のベッドで横になったまま、日曜の太陽が落ちていくのを眺める。街の灯りがぽつぽつと増えていき、やがて消えて、月と星が輝きを増す。

 零時を回ってようやく、威太刀はぼそりと「腹が減ったな」と独り言を漏らした。

 夜が来た。厄叉の本領たる時間帯。人を喰らう化け物が今、この街のどこかにいる。そしてそこには克那が駆けつけるだろう。威太刀がわざわざ出向くまでもなく、厄叉は狩り尽される。間に合わず命を落とす人間もいるだろうが、そんなものはあずかり知ることではない。

 もともとスティークの我が儘に振り回されて仕方なく戦っていた。戦わずに済むというなら、何を落胆する必要があろうか。

 あとは全ての元凶であるスティークさえどうにかしてしまえば、元通りの日常が戻ってくる。だから刀袋は荒縄できつく縛り押入れに閉じ込めておいた。

 命を懸けた殺し合いに挑む必要などなく、口うるさく不満を喚く問題児もなく、晴れて平穏な夜を取り戻した――――なのに、胸に重く垂れる不快感は未だ拭えない。

 何を不快に感じている。

 克那との才能の差を改めて思い知らされたことが悔しいから?

 最初の夜に犠牲者を見殺しにした罪悪感が残っているから?

 厄叉狩りをする日々に何かしらの意義と充実感を得ていたから?

 それがなんだ。どれもこれも、ほんの一週間前までは影も形もなかった感情じゃないか。忘れてしまえばいい。忘れろ、忘れろ、忘れろ、忘れろ、忘れろ。


「……馬鹿みてぇ」


 ただ自分だけの空間で、ひたすらに無でありたい。無でなければならないと必死に言い聞かせる。無様を通り越してもはや何の感慨もない。

 どうやらこの一週間に起きた出来事は、威太刀のなにかを決定的に変えてしまったようだ。

 ふらつく足で立ち上がり台所へ向かう。丸一日食事を怠れば、いくら失意に沈んでいようとも空腹を無視しきれはしない。とはいえ料理をするだけの気力などなく、手早く腹を満たせる物が目当てだ。

 棚からいくつかの保存食を取り出し吟味する。レトルトカレーや茶漬けは米を炊かなければならないので少々手間だ。であればカップ麺しかあるまいと考え、やかんを満たし火にかける。

 湯が沸くまでの間、手持無沙汰になりテレビを点ける。プロレス番組のけたたましい実況が、静まり返った部屋を通り過ぎていく。それに混じって、すこしくぐもったスティークの声。


『敗北が余程こたえたようだの……無理もあるまい。そちは若い。敗れるということに慣れがなく、そして重く受け止めてしまう』


 いつになく穏やかで、諭すような声音。普段通り喚き散らすのでは効果がないと踏んで切り口を変えたのだろうか。


『だがの、わらわは敢えてそれを“良し”とするぞ。勝負ごとの世界にあって敗北とは必ず付き纏うもの。命を拾うたのならむしろ幸運とさえ言えよう。敵の手の内を垣間見ながら生きておる。次に敗れぬ為の模索が許された、ということだ』


 ありきたなりな慰め、あるいは説教。いまの威太刀には逆効果だとも知らずに良く喋る。ある意味でいつも通りの無神経さではあるか。

 聞き流しながらテレビに意識を集中しようとする。下手に返事でもしようものならあちらの思うつぼだ。

 威太刀の無反応を気にした様子もなく、スティークの一方的な話は続く。


『それだけではない。何故なにゆえ戦うのか……否、何が己を戦いに駆り立てるのか。何が己を己たらしめ、己が何を成しうるのか。それを考え直す機でもある。現にそちは今、その解が出ずに思い悩んでおるのであろ? だが考えることを止め、はじめから全て決まっていた事だとか、考えるだけ無意味だとか、つまらん額縁にはめ込んで眺めるばかり。をしておるだけよ。違うかの?』


 耳を貸してはならない。そう必死に唱えているはずなのに、ふすま越しのスティークの言葉がいやに明瞭に、浸透するように耳に入ってきてしまう。

 スティークは威太刀の懊悩を正確に理解し、他者の言葉としてアウトプットすることでより鮮明に突き付けようとしているのだ。

 頭の中が見透かされているのなら、それが気にならない筈がない。


『目を逸らしつづける限り、そちは何も及ぼさず、何にも侵されぬ。そちは何者でもない。歯に挟まったカスも同然よ。しかし戦いの悦楽は、動機が完全に果たされるまで忘れられぬもの。満たされぬまま、永遠にこのまま。人の子の生は一度きりだというに。……まぁ、それが望みとあらば何も申すまい。無意味に、味気なく、死にゆけ』


 ほほほ、と甲高い哄笑で説教は締め括られる。

 要するに、思考停止したままでいたいなら救い難い馬鹿だと、そう罵られたのか。下らない。傍から好き勝手言うだけなら簡単だ。

 所詮ものは言い様。言葉巧みに厄叉狩りに赴かせようとする無責任な発破だ。

 答えならとっくに――――八年前に出ている。才能の壁は越えようがない。剣で克那に勝てるわけがない。それだけなのだ。

 鳴り始めたやかんを取り、カップ麺に湯を注いでテレビを切る。これを食べたらすぐに寝よう。

 消灯し居間を出ようとした去り際、付け加えるようにスティークが短く告げた。


『おお、そういえばそちは天邪鬼あまのじゃくな性分であったの。では戦う理由を一つくれてやろう?』


 我知らず足が止まる。

 スティークの物言いは心底気に食わなかったが、何故かこれからことを言おうとする気配が漂っていた。


『昼にそちと話しておった小僧。あれの周りには厄叉の臭いが満ち満ちておったのぅ。次の餌はあやつ……いや、今まさに喰われておる最中やもしれぬか。痛みに悶え、喘ぎ、泣き散らしながら無惨に朽ちてゆくのであろうなぁ……?』


 瀬田のことを言っているのだろうか。

 果たしてその忠告が本当なのか、今一つ計りかねる。威太刀を動揺させるための嘘という可能性は高い。だが中途半端におどけたような口ぶりに、かえって真実味があるようにも思える。

 両腕を削ぎ落とされ、あの愛らしい顔を絶望に染めて逃げ惑う瀬田。逃げきれず、厄叉の呆気ない一撃で胴をばっさりと分断される。想像などしたくないのに、頭の中にはやけに鮮明な光景が浮かんでくる。

 全身を悪寒が駆け巡るのを感じた。

 嘘に決まっている。この性悪な化け物の言うことだ、信用するだけ損するに違いない。

 妄想を振り払うように、居間の扉を強めに閉める。思いのほか大きな音がして、驚いて少しだけ湯をこぼしてしまった。今夜はもうしばらく、寝付けそうにない。



◇   ◆



 この世ならざるものの跋扈を咎めるように暴れ狂う長髪。航空障害灯に照らされたそれは、返り血に濡れて忌まわしさを増した軍旗のよう。

 強風に晒されながらも、旗が折れてしまいそうな気配は全くない。ぶつかりくる力を余すことなく受け止め、それどころか弾き返さんとするほど。

 山の麓にそびえ、一帯の高圧電線を束ねる鉄塔、その頂。

 此処に春日山克那という名の旗が立つ限り、よこしまなる者の存在を見逃しはしない。


『結局、あの坊やは現れなかったわね?』


 携えた長刀――――霊凌亞切りりょうあぎりがどこかからかうような声を発した。

 対する克那はその態度にいささかも感慨を示さない。とうに帰結した理屈のみを突き返す。


「当然だ。落伍者は落伍者らしく、然るべき領分に収まっていれば良い」


『そう言う割りには……すこし寂しげな顔をしてるわ』


 わずかに眉をひそめる。

 亞切の指摘を疑うわけではない。彼女は克那を試すことはしても、ありもしない根拠を持ち出すような性質たちではないはず。

 不快に思った理由はただ一つ。それを否定しきれないと一瞬でも認めてしまった自分自身の愚かしさだ。


「……失望していないと言えば嘘になるかもしれない」


 純然たる人と斬り合ったのは久しぶりになる。威太刀とは更に久しい。とはいえ、限りなく少なくとも、期待に似た感情を抱いてしまった事は恥ずべきだと思った。

 己の力を過信し増長していただけの、どうしようもなく卑小な弱者だ。あしらいこそすれど敵と認めるまでには至らぬ相手だ。


「しばらく様子を見る。元凶が彼なのかどうか、見定める必要がある」


『はいはい。そういうことにしといてあげる』


 呆れながらも愉快げな亞切の声。

 ほどなく鉄塔を飛び降りた克那は抜刀し、狩場を目指して走り出した。



◇   ◆



 浮遊感に似た居心地の悪さ。精々が一週間前のことなのに、久しぶりのような気がする。またこの感覚だ。

 通学路の坂を汗を垂らしながら登り、二ノ宮と合流して下らない話に華を咲かせ、チャイムが鳴ればホームルームがはじまる。駄話の続きを考えたり、授業を退屈に思ったり、昼休みが早く来ればいいのにと祈る。

 威太刀が取り戻したかった、平穏であるべき日常。そこへやっと帰還したのだ。化け物との殺し合いなどとは無縁の日々に。

 しかし二つほど、どうすることもできない不可逆的な変化はあった。

 綾瀬静弦から注がれる視線が気になって落ち着かない。

 克那から目をつけておくようにでも言いつけられているのだろうか。それでなくとも、彼女が最も信奉する克那に目の前で罵詈雑言を浴びせたことは、如何せん気まずさの要因となる。

 もう一つは、未だ登校してきていない瀬田の席が目に入るたびに、胸が苦しくなる。

 彼は無事なのだろうか。考えるだけ詮無いことだし、どうなろうと知ったことではない――――はずだ。


「まーた酷い面してるな。おいイタチ? 聞こえてる? 無視はよくない。無視は!」


「聞いてるって。耳に悪ィなぁ……で、何だっけ」


「聞いてないだろそれ! しっかりしてくれよぉ……美少女ランキングの話だろ」


 昼休みを迎えると二ノ宮から『ちょっとツラ貸せよっ』とさながらリンチをしかける直前のような口ぶりで屋上へ誘われた。ランキングの推移についての談合だ。威太刀はすっかり忘れかけていたが、どうも未だに乗り気のままらしい。


「たぶんホモだと思われてるぜ俺ら」


「そういうのやめてくれ! とにかく暫定の集計結果言ってくから。一位は当然の春日山克那。二位は城嶋鈴里、三位は……」


 言われた通り生徒手帳にメモしていく。春日山克那。今日も今日とて視界に入るその名前。

 なぜこんなものを意識している。今はもう関わりのない名のはずだ。なのにどうしてこうも目障りなのだろう。

 書き終える前に一旦ペンを止め、すぐにぐちゃぐちゃに掻き回す。そして続く二位以降の名前をその下に綴っていった。

 威太刀がメモするのを待っている間、二ノ宮は皚貴市の街並みを一望して無駄に背中に哀愁を漂わせていた。


「急にどうした」


「……順位は今言った通りなんだけどさ。票数はどれくらいだったと思う?」


「一年の男子が大雑把に百人だろ。投票締切まであと一週間と少しだから、七十くらいか」


「ところがどっこい、集まった票は四十弱なんだ」


「そりゃ少ないな。意外と不評だったのか、このネタ」


「不評っていうか……」


 携帯を取り出し、慣れた手つきで操作する二ノ宮。然る後に示された画面には『凄惨な事件に浮かび上がる不気味なウワサ』との見出しを張ったネットニュース。

 軽く斜め読みしてみた限り、どうやら皚貴市を騒がせる連続殺人事件についての記事のようだ。


「なんだこりゃ。ゴシップ系の何かか?」


「知らない? 死体が人知れず消えてしまってるってウワサ。学校は今この話題でもちきりなんだよ。オレだって都市伝説は大好物だけどさぁ……もーちょっとみんな美少女ランキングに興味を持ってくれないかなぁ!」


 噂の詳細はこうだ。

 通りすがりの市民が今話題の連続殺人の被害者を見つけて、警察に通報する。しかし警官が駆けつけてみると、死体はおろか通報者の姿すらどこにもない。

 いたずら電話かと肩を竦めてその場を立ち去ろうとするものの、よく見ると現場には大量の血痕だけが残されている。どう見てもそれは致死量に達しており、確かに殺人事件がそこで起きたことを物語っている……というもの。


「…………っ」


 聞かされた威太刀は思わず拳を握り込む。

 連続殺人事件の実態、すなわち厄叉による人間の捕食が真相であることを知ってしまっている身として、穏やかではいられない話だ。

 最初の夜、瀕死の被害者を見掛けた威太刀は、直後現れた厄叉に襲われた。あれと同じ顛末だ。被害者を餌にして別の獲物を呼び寄せる。知性を持つ厄叉が存在するのだから、それくらいの事は出来るだろう。

 威太刀とて、あと少しでも助けが来るのが遅れていれば――――克那が来なかったら。

 また克那か。

 辟易して校舎内へ戻る。特に引き留めもせずに見送る二ノ宮は怪訝の色を浮かべていた。

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