敗北のあとで
懐かしい夢。
八年前、小学二年生の春休み。威太刀と克那がまだ親しかった頃の記憶だ。あれから半年とせず克那に追い抜かれ、ふたりの関係はギクシャクしはじめた。
なぜこんな忘れかけていた記憶が今になって蘇ったのだろう。そこまで考えて、克那にこっぴどく敗れたことを思い出した。
目蓋を照らしつける光が混濁する威太刀の意識を揺り戻す。夜が明けたのだろうか。さもなければここは死後の世界か。
心底憂鬱な気持ちで目蓋を上げると、目の前には今最も見たくない顔――――克那の顔があった。
「うわっ!」
「あら。起きたのね」
ごん、と鈍い音。遅れて痛みがやってくる。あわてて飛び退いたせいで壁に頭をぶつけた。
引いて見ると、克那の顔はただの写真だったことがわかる。地元新聞が不定期で取り上げる『若き星たち』の取材記事だ。
パステルカラーを中心に飾りつけられた、すこし狭い部屋。仄かに甘い匂い。ベッドでひっくり返る威太刀をふしぎそうに見つめる
状況がまるで理解できない。
「ど、どこだここ……」
「見てわからない? 私の部屋よ。貴方がベランダに落ちてきたから、手当てしてあげたの」
言われてようやく右腕の痛みに気付く。克那の斬撃を防ぎ損ねた傷口は、包帯が巻かれてわずかに血を滲ませていた。
「あ、あぁ、すまん。助かった……。けど、俺なんか上げて大丈夫だったのか? 親御さんは……いや、それより俺がなんでベランダに降ってきたのかとか……聞かれても答えにくいんだが、えーっと、その」
「説明はもう聞いたから大丈夫。とりあえず落ち着いて」
混乱を極める威太刀の様相にすっかり呆れた顔の綾瀬が指をさす。あたかも威太刀の後方に背後霊が撮り憑いているかのように。
別の意味でそれは威太刀の背筋を凍らせた。
まさか。そんなはずはない。いや、そうなる可能性は限りなく高いが、だとすると弁解の余地が無くなって困る。
おそるおそる振り返る先に、案の定、スティークがまぬけ面をしかめっ面に変えて
「のぉう…………おぉゴッド……」
「わらわは神ではないぞ。そのように崇め讃えることは歓迎するがの」
「ユーファッキンラァイアー! ノォー! ノォォ――ゥ!! オーゥゴッド!! オォォゥ……!!」
「良いぞ良いぞ。わらわを神と崇めよ」
「いえ、ブラピっぽくなっただけよ」
すでにスティークと綾瀬は一定の親密度を獲得しているらしい。互いに顔を見合って、欧米人風に肩をすくめている。妙に腹が立つ光景だ。
スティークは一体、何を話してしまったというのだ。
まず綿高を賑わせた強奪魔の保護者が威太刀であるという事実からして知られては困る。そのうえ、夜な夜な刀を持ち出して化け物狩りと称し徘徊する不審者だということまで知られたら。克那に斬りかかって返り討ちにされたことまで知られたら――――――
あれやこれやと不安が尽きない威太刀を、しかし意外な発言が一瞬にしてなだめた。
「安心して。私は厄叉のこと、克那様が刀憑きを持ってること、どっちも前から知らされてる。言い触らしたりはしないわ」
おそらく、敵ではない、という意思表示。そちらの事情に通じている。何を動揺しているのかもわかる。だからどうか心を落ち着かせてほしい、と。
だがそれを聞かされた威太刀の背筋は、ある直感に凍り付く。
幼少期に
克那は威太刀と同じく親族を喪っており、その身を親戚に引き取られたということ。そしてその住まいはごく庶民的な団地の一部屋だということ。
脳裏でパズルのピースがぱち、ぱちと組み合っていく音が聞こえる。
まだ確証までは至らない予感を最悪のタイミングで裏付けるように、閉じられていた部屋の扉が開く。
「あっ! アイツ、目を覚ましてるじゃないの」
はじめに部屋に踏み込んできたのは、Tシャツにホットパンツと、活発そうな装いの十歳ほどの少女。続いて、いま最も会いたくなかった女――――
前者は全く見知らぬ相手ゆえに拍子抜けしたが、克那の顔が見えた途端、一瞬にして怒りを思い出す。
すかさず身構えた威太刀を、少女が制する。
「待った待った。こんな所で戦うつもり? あのね。頭が足りてなくてもわかるでしょ。そんなことアタシ達もしたくないし、どうせまたアンタ達が負ける」
少女は威太刀とスティークを
「わらわを愚弄するかクソチビ厄叉めが!」
「テメー、一体なんのつもりだよ……」
「それはこちらの台詞だ」
刀憑きとその持ち主、それぞれが険しい目で同族と睨み合う。
挟まれた綾瀬は心底から居心地悪そうにしながらも、黙って一歩退く。どうぞ好きなだけ話し合ってください、の意。それを対戦開始のゴングとするかのように、揃って口論が始められた。
「私の自宅に落ちてきたのは貴様だ」
「ハッ、屋上からブチ落としてくれたのはお前のほうだろ」
「あらやだ、契約者にスティークだなんて洒落た名前で呼ばせてるマセガキ厄叉じゃない。そこにいたの? 気が付かなかったわ」
「黙りおれこの年増厄叉! 老いぼれの口臭がこちらにまで届きそうだわ!」
「アンタこそお口を閉じたら? なけなしの品性が漏れて逃げてってるもの」
「そちは尻の穴から話しておるのか? ピーピーと耳障りで敵わぬ」
「もしかしてそれ、下劣な厄叉には腐った耳がお似合い、って自虐ぅ?」
「なんと、人体を腐らすほどの屁を放つと申すのか? 鼻と耳を押さえよイタチ! 強烈な悪臭が襲ってきよるぞぅ!」
どうやら刀憑きたちのほうの口論はただの幼稚な罵り合いらしい。この緊張した空気のなかで、よくもそう呑気でいられるものだ。
あちらの対立は大して重要ではないと判断し、威太刀は克那に視線を固定したまま、一喝のもとに鎮める。
「お前らは黙ってろ!」
「貴方たちは黙りなさい」
奇しくも二人の人間の声が重なった。
片や、虎の咆哮が如き怒声。片や、龍の息吹が如き唸り声。
確執の根本にある“嫌悪”の本質に、双方さしたる差はない。ただそこに宿る感情の色濃さにおいて、このときは人間が
半ば気圧されながら、興が削がれたとばかりに刀憑きのふたりはおずおずと引き下がる。
「威太刀のような半端者が私の戦いに水を差すなんて、許されない」
「んなもん知るかよ。テメーの許しなんざ欲しくねぇし、俺は仕方なく巻き込まれてんだ」
「単刀直入に言う。私は命懸けの使命に基づいて戦っている。それを邪魔するのであれば、殺し合うほかない。死にたくなければその刀憑きを寄越せ」
「特別な事情がありますってか? ワタシはとっても特別で、ワタシの言うことは何より大事です~ってか? 笑わせんな」
「そうだ。少なくとも威太刀などには荷が重すぎる。相応の覚悟をもって当たっている。生半可な動機で雑魚が口出しをするべきでない。消え失せろ」
「その人を見下すような態度がウゼェんだよ! 俺だってこのバカに脅されて命懸けだ。イヤミな人殺しとバカな人殺しだったら、バカな人殺しに付き合ってやるほうがまだマシだ!」
「子供の理屈だな。御託はもういい。殺されたいか、私の前から失せるか、どちらか選べ」
「答えはクソ喰らえだ、自意識過剰女」
中指を立て、堂々たる宣戦布告。実際に殺されかけたことも忘れ、威太刀は滾る感情の命じるままに敵意を示す。
克那の言葉の意味を深く考え直せるほど冷静ではいられない。
彼女の発する言葉すべてが神経を逆撫でる。才能の壁にかつて屈した威太刀に、もう一度屈しろと命じているのだ。
これ以上の侮辱はない。だからこそ侮辱をもって返したまで。勝算など二の次だ。
「フン。足が震えているぞ」
「……!!」
対して克那はつまらなそうな目で淡々と告げる。
指摘されてはじめて、足の震えに気付く。感情と理性は別のものだ。どれだけ言葉で強がってみせても、いま直面している脅威の大きさは、なにより身体が知っている。
しかしそれさえも威太刀は腕ずくで抑え込んでみせた。
「精々、考え直しておくがいい」
短い溜息と同時に立ち上がり、それからは何も告げず、視線を合わせようともせず。何事もなかったかのように克那は部屋を出ていった。
「あ、ちなみに坊や。アタシの名前は
「早う去れ!!
追って少女――――
そうしてようやく全身の緊張が解け、ふたたび足が震えだした。
マンションを出ると、いやに眩しい日差しが迎える。時刻はとっくに正午にまで迫っているようだ。
あれだけの大見栄を切った直後だというのに、威太刀はひどく陰鬱な顔をしている。それも当然だろう。いわばあれは自殺宣言のようなものだ。
こと刀を持っての殺し合いにおいて、威太刀が克那に勝利することは万に一つも有り得ない。虚勢を張りながらも内心では怯えていた自分が情けない。
『まあ、使い手の技量の差というものであろ。わらわとあのチビクソババア厄叉の間に力量差はなかろうて』
「……るせぇ」
『そちがどうしてもと申すのであれば、剣術の稽古をつけてやっても良いのだぞ?』
「だから黙ってろって。偽名バカ」
『むむっ! わらわの貴重な気遣いをまたしても無下にしおって……』
スティークはやはり変わることのない尊大な物言い。そもそも威太刀の生死になど興味がないから、こうも能天気でいられるのだろうと思うと、また腹が立つ。
すっかり携帯するようになった縄で刀袋の口を縛り付け、帰路につく。しばらくスティークが文句を垂れ続けていたが、消沈するあまり生返事すらできない威太刀の様子を見かねてか、すぐに黙った。
通学路から少し逸れた場所にいるため、道程は先日の帰り道と同様、綿江中央公園を掠めるルートとなった。
もしかしたらまた瀬田に会うかもしれない。それを自分はいま、憂鬱に思っているのか、期待しているのか。どちらともつかぬ複雑な胸中に結論を下せぬまま、公園の前に出る。
遠景を覆い隠す並木道をスクロールしていき、やがて桜の樹が視界に入ってくる。
果たしてそこに瀬田の姿はあった。
それに加えて柄の悪い若者が二人――――路地裏で見たあの不良たちだ。どうやら一人は欠員している。
「タソガレちゃってるとこ悪いね~」
「これからお出かけかな? おっ、財布はっけ~ん」
「あ、あの……すみ……ません……」
「ハァ? なに? 聴こえねーよ?」
「お金……その……無理、で……」
「え、ちょ待って待って。何言ってんの?」
「もしかして一人いないからってナメちゃってる? 良くないなァ、そーゆーの」
案の定、喝上げの真っ最中のようだ。もはや化石レベルと言ってもいい典型的な様相。私こそが非行万歳の不良児でございとばかりの言動。両脇を挟んで、尻を蹴り上げるなり胸ぐらを揺さぶるなり、やりたい放題だ。
瀬田なりに必死に抵抗しているようだが、あの調子では時間の問題だろう。ゲームの話題に笑顔を咲かせていた昨日の面影はない。
威太刀はなぜか、無性に苛立しく思った。
克那という才能の塊に押し潰され、ちっぽけな自尊心を痛めつけられ、敗北の味をこれでもかと思い出させられて。そうして家へ帰る道中で見せつけられる光景がこれだ。
持たざる者を蹴落とす持つ者。強者の前にただ屈服するしかない弱者の図。
(ああ、俺もあれと同じなんだな)
苛立ちの原因を理解すると、いつの間にか威太刀の身体は動いていた。
足元に落ちている手頃な空き缶を投げつけ、即座に走り出す。片方の男の後頭部に空き缶がヒットするのと同時に、それを押し込むように跳び蹴り。
「っ…………野郎ォ!!」
呆気にとられる瀬田の胸ぐらから手を放し、もう一方の男がすかさず拳を構える。繰り出されるパンチはそれなりに速く、蹴りをかました直後の体勢で回避するのは困難だ。
だが威太刀は落ち着き払ったまま、刀袋に納められたスティークを突き出す。平均的な背丈の人間が伸ばす腕よりも、無論こちらのほうがリーチで勝る。
硬い鞘の先端へ鼻からもろに突っ込んだ男は、あっという間にその場に倒れ込んだ。
「つ、躑躅ヶ崎くん……!?」
一部始終を茫然と見届けた瀬田は困惑しきりだ。何が起こったかも分からないといった顔で、完全に固まってしまっている。
男たちはしばらく立てそうにない。この場を離れるなら今しかないというのに。
「…………さっさと行くぞ」
呆れながらすこし強引に瀬田の手を引っ張り、威太刀は駆け足で公園を抜け出す。
その途中、横目に一瞥した桜の樹は、青々と茂らせた葉の間にいくつか花を残していた。
公園から離れて人通りの多いスーパーのあたりまで来ると、やがてどちらともなく歩みが止まる。走っている間、ずっと手を繋いだままでいたことに気付いて、威太刀は慌てて手を放した。
「ご、めん……ね」
「……別に」
我ながら何をとち狂ったのかと疑いたくもなる。むしゃくしゃしていたとは言え、あれほど忌避していた“厄介事”に自ら首を突っ込んでしまうなど。
適当なベンチを見つけて深く腰掛けると、瀬田も隣に陣取る。一つ一つの仕草がどこか小動物的で憎めない。だが彼が意外そうな表情を見せる度、威太刀の憂鬱は加速度的に膨張していった。
こんなはずじゃなかった。威太刀はもっと分を弁えた人間のつもりでいた。今更ヒーロー気取りの振る舞いなど馬鹿馬鹿しくて笑えもしない。
(どうしちゃったんだろうな、俺……)
頭を抱えようとして屈んだ瞬間、なにかが脇腹につかえる感覚。ポケットに手を突っ込んではじめて、それを入れたままだったことに気付く。
瀬田が落としていった白い鍔。返す機会がこれほど早く訪れるとは思っていなかったが、ちょうどいい。
「そういえばこれ。落としてたぞ」
「あっ……躑躅ヶ崎くんが拾ってくれてたんだね」
差し出してやると、瀬田は喜びを隠し切れず顔を綻ばせる。おそらく何も繕ってなどいない素の反応なのだろう。あれだけ打ち解けた昨日ですら見せてくれなかった、とびきりの明るさだ。
ふと、今の自分は本当に漫画か何かのヒーローのようだな、と思った。そしてまた落胆する。
自分は弱者に寄り添える強者などではない。自分もまた強者にただ蹂躙されるだけの弱者に過ぎないのだ。
より弱い者の前でだけ格好をつけていても、尚更無様なだけじゃないか。
「うれしいな…………なんだか、あの日みたい……」
瀬田がどこか恥じらうように顔を伏せる。
威太刀には彼の言う『あの日』がどの日を指しているのかわからない。少なくとも瀬田を助けるような真似をしたのは今日が初めてのはずだ。
一体何の話だ、と返すまでもなく、瀬田は自ずから話し始めた。
「小さい頃にも一度、今日みたいな出来事があったんだ。まさにあの公園で。いじめられてたボクを助けてくれた子がね、『これを私だと思って強くなれ』って言ってこれをくれたの。結局、未だにこんな感じだけどね……」
クサいことを言う奴もいるものだな、と率直に思う。しかし当然のことのようにそんな言動が取れる人間こそ、真にヒーローたりうる資質の持ち主なのかもしれない。
ほぼ八つ当たりように行動を起こした威太刀とは真逆だ。
「もしかしたら躑躅ヶ崎くんがその人だったのかな、なんて……そんなわけないんだけどね。女の子だったし。へへ。たしか、カテナって名乗ってたけど……それから会うことは無かったなぁ」
不意に飛び出してきた、今最も聞きたくない名前。そうではないかと疑う気持ちもあるにはあったが、まさかこうも簡単に裏付けされてしまうとは。
春日山克那の影は一体どこまで付き纏ってくるというのか。何をやっても威太刀を嘲笑うかのように先を行き、見下す存在。
もううんざりだ。彼女に関わる全てが鬱陶しい。
力なく立ち上がり、威太刀は無言のままに自宅へ向けて歩き出した。背後で瀬田が何か言っているようだが耳に届かない。
この世界には春日山克那がいる。何を成そうと、どんな瞬間であろうとも、その名がある場所から威太刀は逃げることしかできないのだ。そうしなければ、押し潰されてしまう。
威太刀はがむしゃらに走り出した。それで何かを降り切れるわけでもないのに。
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