天賦の才、振るうべくして
漆黒の袴に、純白の道着。さながら儀式を執り行う神主のような出で立ち。
身に余る長刀を軽々と振るい鞘に納める克那の姿は、絵画的とすら言えるほど美麗であった。
それからわずか数秒後、克那はマンションとマンションの間を跳んだ。
躊躇など無ければ、助走さえ挟まず。たった一瞬の“溜め”のみを根拠とし、威太刀の立つこちら側へと飛び移ろうとしているのだ。
威太刀とてマンションの壁を数十秒で登りきるという荒業を成したばかりだが、克那の行動には唖然とするしかなかった。
刀憑きによる身体強化がどれ程のものだろうと、恐らく13階分の高さから落ちればただでは済まない。それを一切の迷いなく跳び越える彼女は、果たして正気なのだろうか。
「忠告は無駄だったようだ」
あっさりとこちらの棟へと着地してみせた克那が、開口するなり威太刀を睨む。
落胆と失望。それを告げるだけのたった一言が異様に重く、全身を押し潰そうとする。重圧に耐えようと筋肉がぴりぴりと強張る。
一体何を恐れる必要がある。スティークを手にした今の俺は限りなく強い。
どうして克那を脅威と認めなければならない。
「……うるせぇ。お前には関係ねーだろ」
その一言がいけなかった。
「……!?」
突如熱風が押し寄せ、威太刀の身体を吹き飛ばそうとする。辛うじて一歩後ずさるのみで耐えきれたが、しかし、辺りを見回せども何の痕跡も残っていない。そんなものを放つ物体などあろう筈もない。
そうしてようやく気付かされる。克那が放つあまりの殺気に気圧されただけなのだと。
疑いようもなく彼女は今、威太刀を斬ろうとしている。刀に手を添えてすらいないが、断言できる。
このまま手を
確信すると同時に威太刀はスティークを構え、即座に斬りかかった。
風に乗るようにして一瞬のうちに間合いを詰めて放つ、神速の逆袈裟斬り。初めて厄叉を倒したあの夜と同じ技だ。
だが斜めに斬り上げる軌道は、半分にも到達せず、長刀の鞘に阻まれる。
「私とやりあうつもりか」
「お前もそのつもりだったんだろ……!」
「なるべく戦いは避けたい」
「ほざけよ!!」
間髪入れず刃を返しての袈裟掛け。続き縦一文字の打ち落とし。
腰に回転を加え、克那の足を蹴り払おうとするも、すかさず後退され空振り。
案の定と言うべきか、こちらの技はすべて見切られている。しかし数手斬り込んで判ったことだが、どうやら俊敏性では互角。単純に防御のほうが予備動作が少なく済むことを鑑みれば、実質的な速度は威太刀に分がある。
身体強化にものを言わせた手数で攻めたてれば、少なくとも反撃の機会を与えることはあるまい。
問題は如何にして守りを崩すかだ。
ならば、と突きの構えを取り、直後下段を薙ぎ払う。
剣術において突きとは、いわば捨て身の技。退くことを考慮しない、一か八かの究極の攻め。それは読み切っている相手にとっては、むしろこの上ない反撃の機会となる。
そうして敢えて攻めの機を与えたように思わせ、不意を打っての脚への攻撃へと移る。子供のころの威太刀が最も得意としていた、虚実併せたトリッキーな攻め手だ。
しかしこれもまた、淀みない防御の前に無効化される。
「変わらんな。その太刀筋が懐かしい」
「余裕ブッこきやがって!」
ここに至り威太刀は、ようやく前提を履き違えていたことに気付く。
克那に攻めの機会を与えようとも意味がない。何故なら、彼女にはそもそも攻める気がないのだから。
未だ抜刀すらせず、防御に専念していることを不自然に思うべきだった。怒涛の連撃を前に抜刀する暇がないのではなく、全ての攻撃を防ぎ、実力の差を誇示することを狙いとしていたのだ。
そしてそれは紛れもなく、格下の相手をあしらうための対処。
癪に障る。
威圧のみで丸め込もうとする魂胆が、そうできる相手だと思われていることが、心底から気に食わない。
「やっぱ俺……お前のこと大っ嫌いだわ!!」
「気が合うな。私もそうだ」
どうしようもなく素っ気のない返答が、尚更威太刀の神経を逆撫でる。
下段を防がれた刀を引き、湧き上がる嫌悪の念に任せるまま回し蹴りを放つ。当然の如くこれも、克那の拳によって相殺された。
「私の前から逃げだした半端者が、今になって刀を取る…………これほど腹立たしいことはない」
威太刀の足をはね退け、克那が薄く微笑む。
無口にして無表情、さながら鉄仮面の如き彼女が、笑みを顔に浮かべた。それが彼女なりの
危険だ。後先を考えずに蹴りを放った今、隙を晒してしまっているのは威太刀のほうだ。
急ぎその場を飛び退き、距離を開ける。
だが一秒と待たぬ間に克那の顔が再び威太刀の眼前に現れた。
すでに克那の手は長刀の柄に添えられ、抜刀の構えを取っている。初撃だけでも威太刀の右腕を切り落とし、胴へ裂け目を入れるのには十分だろう。絶好の間合まで一瞬にして迫られたのだ。
回避は間に合わない。仮に別方向へ飛び退こうとも、あの踏み込みの速さを相手にしては無意味。スティークで受け止めるしかない。
スティークの峰を軌道に割り込ませんと構える。しかし構えたその瞬間にはもう、克那の長刀がすぐそこまで迫っていた。
「ぐっ………あ……っ!?」
衝撃に耐えようと姿勢を固める暇すらない。受け止めきれず長刀の進攻を許してしまい、右腕に食い込む。
その勢いは片手で振るわれた斬撃とは思えないほど強く、トラックが衝突したかのように重い。直後、威太刀の身体は紙切れのように吹き飛ばされた。
屋上の鉄柵を超え、
しばらく放物線を描いたあと、威太刀は真っ逆様に落下しはじめた。
「くっそ!! 死ぬ!!」
激しい風圧が全身を殴りつける。
マンションの壁に掴まろうにも、手が届かない。ならばとスティークを壁に突き立てようとするが、そうした途端に身体の動きが止まる。
威太刀の考えを見抜いたスティークによる身体制御だ。
『わらわを壁に刺すとは言うまいな貴様!?』
「じゃあどうしろってんだ!!!」
こんな時にまで自由を奪われては、怒鳴り声の一つも上げたくなる。
8階、7階、6階と、次々に窓が通り過ぎていく。今度こそ本当に、死ぬ。
この一週間、死を覚悟した瞬間は何度もあったが、この時ばかりはどうにも受け入れ難かった。克那に打ち負かされ、あまつさえ命まで奪われるなど。
無謀にも彼女に挑んだことが間違いだったのだろうか。
確かに、勝てる見込みなどなかった。
はじめから彼女には才能があった。開花するのに時間はかかったが、それはただのタイムリミットに過ぎなかったのだ。
いわば兎と亀のレースのようなもの。どれだけ亀にハンデを与え、地道に進ませ続けようとも、兎が油断せず全速力で走り続ければ簡単に追い抜く。そして開いた差は埋めようがない。
だとすれば、二人で共に剣術を習い始めた時から――――いや、剣術道場の家に生まれた時点で威太刀はすでに敗北していたのかもしれない。
どうあっても克那という才能の壁に潰されなければならない運命だったのだ。
(なんだよそれ…………結局、逃げることしか俺には許されないってのか)
諦念に打ちひしがれ、遠ざかる夜空を見つめていた威太刀を、強い衝撃がゆさぶる。だが痛みは腕にしか感じない。
地面に激突したわけではないらしい。
柄を握っていたはずの左手には、いつの間にか人の姿に変わったスティークの左手が握られている。スティークがマンションのベランダに掴まり、威太刀の墜落死を阻止したのだ。
「こんな無茶をさせおって……おのれイタチ、後で覚えておれ!」
相変わらずの憎まれ口。むかっ腹が立つと同時に、だが少しだけ心強い。
生還できたことを知ると、急に意識が遠のいていく。張りつめていた精神が緩んだせいだろうか。
「あ、おい、イタチ! 馬鹿者! 眠るな、重くなる! 起きろ!! うんこ! 包茎! ハゲ! 起きるのだー!!」
スティークの罵声と怒り顔が薄れゆく中で、威太刀はふと思った。何のために生まれてきたのだろう、と。
◇ ◆
暖かな風が吹いていた。
空まで桜色に染め上げるほどの爛漫たる風景。甘い香りが鼻をくすぐり、胸をきゅうっと締め付ける。
面を外すと、それらの情報が一気に雪崩れ込んできて、すこし怯む。
時を止めたような静けさに包まれる道場で、威太刀と克那は向かい合い防具を外した。
稽古の始めと終わりの二回、三本勝負の練習試合をする。ふたりの間ではすっかり定番となったメニューだ。
試合結果はいつも通り威太刀の勝ち越しで終わったが、二試合目を取られ、延長の三試合目に至ったのは初めてだった。
本数にして四対三。最後は一本を取ったまま制限時間を迎えての勝利だった。実力差はほぼ埋まりつつある。
「克那の太刀筋は日に日に鋭さを増しておる。二試合目の面は見事な一本じゃった」
慈玄が二人にタオルを投げ渡しながら告げる。孫を贔屓しないよう気を遣っているとしても、最近は克那を褒めてばかりだ。
勝ったのは威太刀だというのに、それが当たり前だとばかりに言及すらされない。
少しだけ不機嫌になりながら克那のほうに目をやると、こちらの気持ちを察してか、克那はすかさず謙遜を述べた。
「ありがとうございます。でも、まだまだ私は未熟です。現に結果は負け越しでした」
「その心持ちが肝要よ。お前も鍛錬を弛まぬことじゃ。ここのところ油断が目立つぞ」
ようやく威太刀に言及したかと思えば、ちょっとした説教が飛び出す。これもいつも通り。内心うんざりしていた。
昼食の支度のため、慈玄が先んじて道場を出ていく。
防具を片付ける間も談笑する気分にはなれない。見かねた克那が声をかける頃には、後は道着を着替えるのみとなっていた。
「お爺さんは厳しく言うけど、それも威太刀に期待してるからこそ。ふて腐れないで」
「はぁ。そういうフォローが一番ヘコむ」
「それはすまない」
短く、率直な謝罪。まるで一つも悪いと思ってなさげなその返事がいっそ清々しい。
そもそも威太刀が気に入らないのは慈玄からの扱いであって、別に克那に腹を立てているわけではない。
むしろ下手に気を遣わせてしまったことを申し訳なく思い、観念したように苦笑してみせる。克那もそれを見て、わずかに表情を緩ませた。
「いや、俺が悪かった。実際、上手くなってるしな、お前。隠れて特訓でもしてんの?」
「そんなことない。感覚が掴めてきただけ」
「感覚……ね」
二試合目を取られた時のことを思い返す。
こちらが仕掛けたフェイントを全く意に介さず、空いた面に打ち込まれた迅速にして軽やかな一本。打たれた直後、こればかりは『負けた』と瞬時に思わされたものだ。
上手い剣士が打つ面は、往々にして大した痛みを感じないもの。
これは威太刀個人の見解に過ぎないが、いくつかの大会で同年代の剣士との対戦を経験してきた上で固めた確信でもある。腕に無駄な力が篭っておらず、身体全体のばねを使った綺麗な踏み込みをしている。克那が放った一撃は、まさにそれだった。
克那が腕を上げていることは疑いようもない。同時に、威太刀の戦法が読まれるようにもなってきている。
「お前、やっぱセンスがあるんだろうな」
更衣室に入ろうとする克那の背中に向けて、素直に思ったことを口にする。威太刀がこんなふうに褒めることは稀だった。
「……ありがとう」
一瞬、驚いたような顔を見せたあと、克那は薄く微笑んだ。それは怒った時の冷たい笑みと違って優しく、可愛げのある笑みだった。
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