第一章 にぎやかな戦場で  On the Battle Field

1-1 桜人


  異質なものについて肝心なことは、それらが異質エイリアンだということ

     グレゴリイ・ベンフォード 『大いなる天上の河』




    海上市 通学途上


 玄関の弾薬庫から今日のために選んでおいた弾頭を摘み取り、僕の弾倉マガジンに一つずつ装填する。入学式初日から深層で大規模戦闘をすることはないのだから、既に火力は過剰と言ってもいいくらいだ……が、やはり考え直して秘蔵の大術式も四種全部持っていくことにした。


 規格化され等しい重量であるはずの弾体が、内に秘めた破壊力と費用コストのためにずしりと重く感じられる。けれども、朝の点検と補給を終え家を出て晴れやかな日の光の下で彼女に追いつくべく走り始めれば、そんな錯覚も朝食のだし巻きの旨味やめざしの香ばしさや、腹中をあたためる味噌汁の熱やしっかりと炊きあがったご飯の食感とともに忘れ去られていった。



 道の向かいの寺にたちならぶ墓石を横目に急な坂をくだると、すこしなだらかになってはまた別のお堂を過ぎ、見知った瓦屋根の家々を抜けた広い萵苣キャベツ畑の所で七海ななみさんの背中を捕捉した。用水路前の横断歩道で、律儀に信号を待っている。


 畑の向こうに続く並木道ではこの日のために散るべく調節された桜の花弁が白く染まりきり、ゆっくりと舞い落ちて折り重なってゆく。


 四月のあたたかな空気の中で、確かにその微かな花の香を嗅いだ。


 濡れ烏ぬれがらすのようにつややかな総髪ポニーテールをたなびかせ、やわらかく微笑みながら振り向く七海さん。


 まぶしい。物理的な意味ではなく。


 濃紺を基調とした水兵セーラー服に身を包み、背に一振り負うは朱鞘しゅざやも見事な典太てんた写しの大太刀、腰には柳生ごしらえの長脇差。黒の長薄ストッキングに機動性のよい革靴を履き、流麗な筆先にも似た黒髪を少し高めにまとめている。

 その瞳は凛々しく、それでいてどこか物憂げであった。まるで戦うべき相手が見当たらないことを残念がっているように。


 磨きこまれた漆によって深い緋色に輝く鞘と水月をかたどった透かしつばを備える大太刀は実に華やかなつくりだが、対照的にほとんど打刀に近い寸法の脇差〈籠釣瓶かごつるべ〉は黒呂色くろろいろの千段鞘に分厚い鉄鍔と、実用そのものの美を体現した一振りである。


 七海さんのやや変則的な大小の差し料を見てもわかるようにそのお人柄は尋常一様のものではなく、ぬえのようにとらえがたい所がある。だけれども、僕が七海さんの多面性に気づいたのはごく最近のことだったなと、今更ながらに思い返していた。




 二人共に車道を渡り、海上列石ウナカミサークルを右手に見つつ、学校へのあぜ道を行く途中、七海さんがほとんど振りかえらないままにひさびさに聞く澄んだ声で語りかけてくる。居間と玄関では昨日も少し喋ったが、表で七海さんと話すのは二年ぶりくらいだろうか。


「今日からは泉くんと一緒の学年だなんて、ちょっと面白い感じですね」


 そうだ。僕、いずみ兼定かねさだは、今日から高校生であると同時に七海さんの同級生になったのだ!


「はい、七海さんとはいつもお姉さんみたいに……」


 お付き合いさせていただいておりましたから、と続けようとして、お付き合いとは出すぎた言いようであろうと思い、何かうまい言い直しをせねばと考えているうち、どう言いつないでも不自然になってしまうほど時間が経過していたので結局、


「……思ってましたから」


 などと曖昧なことを発話するくらいしか僕にはできなかった。


 柳生やぎゅう七海ななみ。かつての僕の、密かな想い人。

 麒麟児ジーニアス。柳生のお嬢様リーサルウェポン生まれながらのくノ一ナチュラル・ボーン・クノイチ。細胞からの殺し屋として死の静寂を放つ、などとあだ名され若くして畏怖と伝説にいろどられた彼女が、すぐそばに、手の届く所にいるのだ。


 おだやかで、しっかりとした美しい話法。中学二年だった僕が、胸を焦がさんばかりに思い続けたのも無理はない。



 僕たちが入学する迷宮高校探索科はその名の通り冒険者を養成する学科であり、主な入学条件は第八階梯かいていに相当する戦力を具えていることである。


 中学卒業まで訓練用に整備された浅い迷宮に潜って、まあ大抵の志望者は第八まで到達できるわけであるが、七海さんは十五歳にして何と第十階梯も半ばという、入学時点では十年に一人いるかどうかという高みにまで既に至っていた。


 一〇.五といえば経験を積んだ本職の冒険者にも匹敵する段階であり、陸上に存在するあらゆる中型戦闘装甲機械を単独で撃破し得るほどの能力だ。




 実際、七海さんが同学年なんて、変な感じだ。

 このひとはいつも、僕の半歩前を、忍びの技巧を感じさせないほど自然にゆったりと歩いていると思っていたのに。


 昔ちょっとした家族同士の縁から、柳生のしょうで数カ月を過ごしたことがある。その短い間に僕は完璧に七海さんの術中へはまり込んでしまったのだということを、遅ればせながら思い出していた。


 くノ一の術。よわい十六にして女忍にょにんたるの覚悟を終え、柳生一千二百年の口伝をそらんずる恐るべき剣士の雛。やがては下総しもうさ柳生の長にとどまらず、ありとあらゆる柳生の頂点にすら手が届くのではとまで言われる真の俊才だ。


 七海さんの腕を覆う、蜘蛛絹ちちゅうぎぬの長手袋。その下のにいかなるものが秘められているかは周知の事実であったけれど、本当に直で見たことがある人はまれだろうと思う。


 最初に見た時はその奇妙さに少し驚き、一体これが忍びの里の習いなのかといぶかしみもしたが、七海さんご自身が語ってくださった所によれば、人の肌に触れるならばこのような布一枚のへだたりを設けることが私のようなもののせめてもの礼儀でしょう、ということであった。


 言葉の表だけをとらえれば厭世的ペシミスティックとも思えるいいである。しかし、七海さんの口調には特段の感慨はなく、僕はそこに丁寧ではあるがむしろ単なる形式的なものだという言外の意味を読み取った。


 というのも、このようにおっしゃるゆえは単なる柳生的謙遜というだけにとどまらず、七海さんのやや特殊なお生まれにも由来することなのだった。……つまり、七海さんが、人と名状しがたきものとの〈ざり〉であるということの。


 七海さんのあらゆる体液には、法規制上の意味において麻薬的効果がある。


 その成分の分泌濃度は七海さんご自身が随意に制御できるとはいえ、そして僕達冒険者の誰もがほぼあらゆる化学物質の影響を無効化し得るとはいえ、向精神物質生産能力は持って生まれたある種の個性として片付けるにはあまりに剣呑なしろものであるということは論をまたないだろう。


 そして七海さんは、基本的には思慮深く分別ある振る舞いをなさる方であるが、必要とあらばいかなる手段を取ることもためらわぬ峻烈な精神を発揮することも少なくない、そのような忍びである。


 あの時。七海さんの術は完全ではなかった。別れ際に交わした口づけが、信じられないほどたやすく僕の燃えさかっていた恋心を洗い流してしまった時、既に気づいているべきだった。嘘のように。夏空の雨のように。一つの術を解いてみせて、異なる術中へと誘導する。忍びのわざだ。


 今ならばわかる。

 七海さんのあやうさと、あでやかさ。少女性と、少女ならざるもの。



「なぜ昨夜、私の部屋に来てくださらなかったのですか?」


 不意に七海さんが、大変なことをおっしゃったような気がする。考え込みながら歩いていると頻繁にこういうことがあるので、少し困る。


 ……聴覚記録を四秒巻き戻して確認するが、間違いではなかった。

 言葉に詰まる。自分の家で、いくら七海さんとは言えど、夜這いに来なかったではないかとたしなめられるとは思ってもみなかった事態である。家主にはそんな義務があるのだろうか?


 ないはずだ。海上うなかみの一般的な家庭にそんな風習はない。柳生一族の間ではどうだかわからないが、少なくとも僕がおじゃましていた時にはなかったはずだ。


 手袋を着けた七海さんの手が僕のあごを取り、わずかに顔を持ち上げられ、何を、と思う間もなくくちびるが合わさっていた。


 触れるような、なぜるような、たおやかなくちづけ。だがそれゆえに。僕は七海さんに、挨拶と親愛以上のものを見た。柳生の術。すでに完成を見て、免疫系を立ち上げる暇も与えず僕を殺しにきた、くノ一の術。


 忘れてはいけない。七海さんの唾液には、色々な成分が含まれている。


 くちびるばかりか舌までもふさがれかけているので、やむを得ず細胞発振による光話こうわで語りかける。


〔七海さん……僕は……。僕は、あなたに教えられてばかりでした。でも、いまは高校生です〕


 七海さんのせいで完全に朦朧としてきたが、僕の通信機関は、僕の心を真っすぐに告げた。


〔あなたと戦ってみたい〕


〔あなたに……勝ちたい〕


 そうだ。たたかい。愛よりも、快楽よりも、戦いこそが真実だと。白刃きらめく剣撃の下の、死生のあわいこそが真実だと、あの日、七海さんは言った。

 そう思う。導弾士ミサイリストとしての僕も。


〔その後には、地獄なりどこへなりと参りましょう〕


 くちびるが離れてゆく。濡れて、艶めかしくもあるが、真一文字に引き結ばれた口元は、逆説的に七海さんの喜び――むろん戦いへのそれ――を示しているようでもあった。


「泉くんは、随分ひどいことを」


「言うようになりましたね」


 有無をいわせぬ接吻キス。肉感的とかそういった形容を超えて、快楽をもってする暴力というべきわざだった。


 再びのくちづけ。

 七海さんは、少しの接触だけで相手の肉体と精神を犯し、破壊し、もてあそぶように作り変えることができるのだと噂には聞いていたが、なんと、これほどの、もの、とは……


 混じり合った唾液は七海さんの長い舌にかきまぜられて、僕の舌にねばりつき、とろけてくずれ落ちそうなほどの戦慄を口腔の中と、喉と、背骨のすみずみにまでもたらした。


〔私のねやを、蛇蝎だかつの巣のようにおっしゃるなんて〕


 とてつもない、僕という感覚を吹き散らしてしまうほどの多幸感ユーフォリアに襲われて、強すぎる薬の原液のようなそれが、なすすべなく僕の脳髄へぶち撒けられる。


〔あんまりではありませんか?〕


 何かを考える、ということができなくなる。




 七海さんが、僕の顔から手を離し、密着していた体を自由にしてくれた。


 震えが止まらない。下履きを汚さぬようにするだけで精一杯だ。

 ゆっくりと、はしたない嬌声をあげてしまわぬよう少しずつ息を吐き、七海さんの素晴らしく蠱惑的な芳香をつとめて無視しながら歯の隙間をとおして春の空気を吸う。


 今すぐ七海さんに許しを請い、膝を折り頭を垂れて僕というもの全てを捧げようとする部分がある一方で、僕の中の、冷たく、黒く、愛というものにそれ相応の価値しか認めない部分が、静かに僕を呼び、眼差まなざした。




 眼鏡を押し上げる。大丈夫だ。いける。まだ絵美理を使ってもいない。


 なぜか、七海さんは、僕が次に口にする言葉を知っているような気がした。確信はないが。


柳生七海やぎゅうななみ殿」


 僕の声は、震えていないだろうか? 僕の足は正しく立っているだろうか?


「貴方と戦い、貴方を打倒します。この泉兼定、僕の弾頭にかけて」


 恋を始めるにおいて告白は愚かもののすること、とその筋の本は教える。

 不確かで玄妙な関係こそが恋路の真髄、と。


 これは恋ではない。戦いだ。僕と七海さんとの存在を賭けた闘争だ。

 文化的な殺し合いの前には宣戦が必要なのだ。


 告白を受け止めた七海さんの笑顔は、朝顔のほころんだつぼみが一瞬にして咲き誇るかのようにまぶしく、鮮烈だった。この先どんなに時がたっても、きっとはっきりと思い出せるだろう。


 夢にすら現れないであろうほど陶酔した表情の七海さんが、一歩で間合いを零にし、僕をやわらかに抱きすくめる。くノ一の間合い、必殺の間合いだ。男だろうと女だろうと、人だろうと何であろうと抜き放たれた七海さんの術は、何もかもを陥落させてきたという。


 きゅっと僕の脊椎をなで、後ろ髪を鼻でかき分けて、とろけきった声で僕の右耳にささやきかける。


「素晴らしい…」


「今日はき日です。かたきを得ることは、思い人を得るように悦ばしい」


 七海さんがさらに熱っぽく、僕の耳朶じだを陵辱せんばかりに唇を近づけて言葉をつぐ。


「では思い人の敵を得ることとはどのようなものか…?」


 それは混沌カオスだ。七海さんの口づけのように。




 がば、と、あからさまに上気した顔で再び僕をもぎ離す。

 あれ、七海さんって、思ったより色んな表情を……?

 昔はいつも、殺す時も死にかけた時もすまし顔だったような気がしたから、てっきりそういう流儀なのだとおもっていたのだけど。


「さあ! それでは様式にのっとって、決闘を始めましょう!」


 七海さんをそこまでよく知っているわけじゃないけど、こんなに嬉しそうな七海さんは見たことがない。率直に言って驚きだ。


「私の方が階梯は上ですから、方式は泉くんにお任せしたいと思います」


「……では、年間の貢献点で勝負するというのはいかがですか」


 むっ、と一瞬で真顔になる七海さん。真剣そのものだ。今すぐドラゴンと戦ってこい、と言われても躊躇なく斬り込んでいくであろう気迫、完全に達人のそれだ。


 貢献点とは冒険の成果に応じて市が一定の――複雑だが明示された――基準のもと自動的に付与する点数で、基本的に減点されることはない。

 主に表彰のための制度だが、税金がちょっと減ったり、特別な探索クエストを依頼されたりすることもあるという。


「長丁場になりますね……面白い。勝算を握っていらっしゃるものと見ました」

「では私からも一つ。盤外戦術はなし、という条件ではいかが?」


 ふうむ……むしろ僕としては望む所、というか、七海さんが本気で全局面的な妨害に来たら勝ち目はほぼ零だ。


「具体的には?」


「相手の貢献点の獲得を阻害するいかなる行動も反則とし、市の簡易裁定により反則を認定された側が即時敗北とする、ということで」


 む。これはかなり厳格な条件だ。大演算器の機能の一つである裁定機構はおよそ可能な限り緻密で、買収とかは効かないし、公正フェアというものにとても近い。


「そのかわりと言ってはなんですが、年に五十三回以上私と潜ってくださるととても嬉しいですね」


 おっと、早速なんかの取引ですよこれは。


 学生冒険者が本格的に迷宮に潜るのはおおむね、週一、二回である。しかし、訓練のため、あるいは息抜きのために浅い階層に少人数で潜ることはしばしば行われているが、それに週一で付き合うべし、との仰せだ。週一回としないのは遠征や色々な日程上の障害が出ることもあるだろうから、とのご配慮であろう。


 僕が考えているあいだ返答を先延ばしにしていると、もはや喜劇的な口調で七海さんが切り上げようとする。


「ご不満でしたらこの話はなかったことに……」


 どこまでなかったことにするとは一言も言っていない、が、では盤外、暗殺もありありですね、などと言われたら大変なことになる。


「わかりました。この条件で」


 七海さんが、場面を区切るかのように手を打ち合わせる。

 合掌が、実に禅だ。七海さんの剣禅一如の境地、僕には未だはかりがたい。



「私のような忍び相手の約定やくじょうを信じていただけるとは、なんと有り難い。感謝します」


 謙遜も極まれりというやつだ。七海さんの誠心を信じない人類とか存在するの?


 僕を見据え、架空の聴衆に知らしめるように手を広げるなかば芝居がかった仕草ですら、一幅の絵画のごとく美しい。


「さあ、ただ今これよりは不倶戴天の敵同士!」

「全てが戦場とお心得遊ばせ」


「僕の導弾ミサイルは、貴方を逃しはしない」


 言い知れぬ確信が、静かに、僕の中へ着弾した。

 七海さんに勝つことができるという、根拠のない、しかし動かしがたい信念が、どこかの一瞬に芽生えていたのだと今更ながらに気がついた。


 七海さんが、覆いかぶさるように僕の目を覗き込む。まるでとてつもなく背が伸びたかのように……いや、事実七海さんの背丈が伸びている!


 七海さんの四肢は生まれながらにして特種の伸縮性をそなえ、その黒くのたうつ手足は通常の意味での骨格を一切もっていなかったという。細胞そのものが連結した、糸のような、生きた縄のような組織が筋骨の代わりとなり、腕と、腿と、手首と足首と指を形づくって、恐るべき柳生の術をさらに先へと押し進める。


 手袋や長薄ストッキングや靴までも変形させ、今や竹馬を履いたかのような高さになり、微笑みながら髪をかき上げたかと思えば、脱兎の如き速度で大地を蹴り、二歩目を踏み、さらに加速する。


 黒く、長細い影のような足で、馬よりも、虎よりも、天然のいかなる獣よりも疾く駆ける。あれこそは真影流、七里長靴しちりちょうかの術!


 朝食のだし巻きを思い出しては、もう一度味わってみる。ご飯を炊いたのは僕と炊飯器だが、あのあたたかな二切れの蛋白質。そしてあの味噌汁。


 あれが柳生の味なのだろうか。





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