第4話 怪しげな噂

 クラネッタ領内で妙な噂が立ち始めたという話を耳にしたのは、父上も戻ってしばらく経った初夏、秋播きの麦の収穫が始まる頃だった。


「姫様。少々お耳をお貸し頂きたく」


 領館の敷地内にある、ガラス張りの蒸した温室。その中でしゃがみこみ、トマトの葉に害虫が付いていないか調べていた俺は、どこか押し殺したようなエミリーの声に顔を上げた。


「どうかしたのか。まだトマトは実ってもいないぞ」

「つまみ食いではありませんっ! 一大事でございます」


 思いつめた顔をしているので冗談で和ませようとしたものの、エミリーの険しい表情は変わらなかった。こちらも顔を引き締め、話の続きを促す。彼女は顔を近づけ、声を震わせながら告げた。


「クラネッタ領内、主に都市部において、クラネッタ公爵家が謀反をたくらんでいるという噂が流れております。しかもその首謀者として……あろうことか、エリザ様のお名前が」

「デマだな。とりあえず、落ち着け。エミリー」

「落ち着いてなどいられません! クラネッタの誉れといえるエリザ様が、このような中傷を受けるなどあってはならない事です」

「ここでは姫、だ」


 主人を侮辱されいきり立つエミリーに、目線で少し離れた場所で作業する使用人の事を教えると、彼女は恥じ入ったように口をつぐんだ。


「失礼いたしました。こういった時程、姫様のお力になれるよう、冷静に努めるべき所を……」

「いや、かえってこちらが冷静になれたから気にしなくていい。それに、君が私のために怒ってくれたのはとても嬉しい事だから」

「姫様っ……勿体無いお言葉です」


 身を震わせるほどに怒っていたとエミリーが、今度は感涙に咽ぶ様子に苦笑しながら、俺は立ち上がって作業着に付いた土を払った。


「詳しい話は館内で聞こう。ところで、父上はもうこの事はご存知かい?」

「はい。頃合を見計らって書斎にお呼びするように仰せつかっております」

「着替えたらすぐに伺うと伝えてくれ。あと、ハーブティーを人数分淹れておいてもらえるかな」

「かしこまりました。お着替えは……」

「他の者に頼む。情報が不確定な今、この件を知るものは少ないだけ良いからな。エミリーは書斎にお茶の準備を」

「承知致しました……」


 少々名残惜しそうに返答したエミリーを引き連れ、俺は温室を後にした。「人形のように愛らしい」とも賞賛される俺を着替えさせる事は、メイド達の中でくじ引きが行われるほど人気らしい。その話を彼女から聞いたときは、まさしくお人形遊びに付き合わされるようでげっそりとしたものだった。



「父上、お待たせしました」

「おお、エリザ。よく来てくれた。さ、座りなさい」


 書斎兼応接室のソファーに座ってカップを傾けていた父は、机を隔てた向かいの席に座るよう勧めた。俺が腰掛けるとすぐさま、部屋の脇に控えていたエミリーが音も無く近づき、暖かな湯気を立てるハーブティーを机にそっと置く。


「ありがとう、エミリー」


 微笑みながら礼を言うと、彼女は恭しく俺たちにお辞儀してから離れ、扉の前へ立った。外部を警戒してくれているようだった。茶を口にして一息いれると、父上が意外そうな目でこちらを見ていた。


「……あまり動揺はしていないようだね」

「いえ、多少は。ですが根も葉もないものですから、いずれ沈静化するでしょう」

「ところがそうでもないようなのだ」


 父上は困った顔をして机の脇によけてあった何枚かの薄い木簡もっかんを手渡してきた。


「《耳》の報告書だ。例の噂は継続的に流されているらしい」


 《耳》はクラネッタお抱えの隠密の総称である。警察組織とは違い、市井の暮らしに溶け込みながら、悪事を働くものを密告する者達だ。逮捕権を持たない岡っ引きのようなものと考えてくれれば良い。


「なるほど、酒場に、宿、様々な場所でクラネッタに叛意ありと噂しているわけですね。市民の反応は……今のところ、ほとんど信じるものはいない、と」


 報告に目を通しながら少しばかり安堵する。市民にクラネッタ家は良く受け入れられているようだ。しかし父上は渋面を作り、話を続けた。


「地元の人間で信じるものはいないようだが、問題は市街に立ち寄った行商達だ。商人らが噂を持ち帰り、他領で話すとなれば、我々クラネッタを知らぬその地では真実として聞こえる者もいるだろう」

「そうなれば、何者かが我々を攻撃した際に、武器のひとつとなる……」

「そうだ。他領にまで響き渡るクラネッタの悪行の『証拠』としてな」


 沈黙が俺たちの間に降りた。これを仕掛けたのは何者か、父上も考えているようだった。


「父上には心当たりがありますか?」

「ひとつだけ、ある。ユンク伯だ」

「私も同じです。東部騎士領主筆頭、エドモン・ユンク伯爵。しかしここまでする理由が分かりません」


 先日の舞踏会が思い出される。俺達に向けられたエドモンの尋常ではない憎しみが込められた視線から、領地が接するクラネッタを嫌っている事は十分に分かっていたが、唯の嫌がらせにしては度が過ぎていた。

 王国の法に、貴族法と呼ばれるものがある。その名の通り貴族に関わる法律だが、その中のひとつに他の貴族を故なく貶しめる事を禁じるものがあった。貴族同士の権力争いを防ぐ為に作られ、違反した者は厳しく罰せられる。

 故意に対立する貴族に対する嘘の噂を流し、それが発覚した場合、家の取り潰しや投獄などの処分が下される。しかも今回は王家の親藩しんぱんといえる公爵家に対して、謀反という濡れ衣を被せようとしているのだから、死刑を求刑される可能性すらあり得るのだ。リスクが高すぎるのである。


「それにおかしな点は他にもあります。仮にこの噂の仕掛け人がエドモンだとしましょう。報告にある規模で継続的に行われているとなりますと、いくら伯爵家とはいえかなりの出費となります。この資金は何処から来ているのでしょうか?」


 なにせクラネッタ領内のほぼ全ての都市部において噂が確認されている。


「支援をする者がいる、そうエリザは言いたいのだね」

「はい。それもかなりの力を持った相手でしょう。これだけの規模で工作が行えるとなると、私達か、それ以上の財が無ければ困難です。王国内では2つの家が挙げられますが、そのどちらにも利は有りません」


 現宰相のロジェが当主のガランドルフ家、そして王家である。


「謹厳実直で知られるロジェ殿がこのような事を支援するはずがない」

「はい。今までの宰相閣下の務めぶりからも、そしてクラネッタとの関係の良さから考えても、閣下が関与する可能性は限りなく低いといえます」

「三年前の飢饉ききんか」


 三年前、ライネガルド全体を飢饉が襲った。どの所領も食物の確保に奔走し、よそに目を向ける余裕は無かった。とくにガランドルフ領は飢饉の影響が大きく、主要作物の小麦の取れ高は例年の五分の一まで落ち込んだ。穀物の市場価格は高騰し、宰相家の財力で救済を試みても領民に餓死者が出かねない事態に陥る。


「飢餓に苦しむガランドルフの民をエリザが救った」

「いいえ、父上。クラネッタ家がです」

「相変わらず謙虚なやつだ」

謙遜けんそんではありません。私一人では何も出来ませんからね」


 父上と、さりげなくエミリーも向けてくる生暖かい視線に頬を染めながら、当時の事を思い出す。俺が幼少の頃から段階的に行ってきた農地改革――交互に休耕を行う二圃式にほしきから、より収穫量の多い輪栽式農業への転換――がようやく実を結び、単一作物ではなくなっていたクラネッタ領は、飢饉の影響をあまり受けずに済んでいた。その作物の余剰分を、もっとも打撃を受けていたガランドルフ領に分け与えたのであった。


「そうしてガランドルフ領は危機を脱することが出来ました。そのことは互いの民の記憶に未だ強く残っています。もしクラネッタ領を簒奪さんだつしようものなら、その自領ですら従うことは無くなるでしょう」


 公正さでも知られる宰相閣下を尊敬している父上は、ほっと息を吐き、考えのまとめを行った。


「やはり宰相閣下の関与は考えられないか。そして、王家にとっては自らの手足をもぐようなもの。そうなると……」

「あまり考えたくはありませんが、国外の勢力の関与が疑われます。父上。ユンク領に密かに調べを送ることは出来ませんか?」

「商人の《耳》がいる。その者たちに探りを入れさせよう」


 父上と細かな打ち合わせをした後、俺は退室して風呂へと足を進めた。一旦ドレスに着替えていたというのに、身体には汗がまとわりついていた。初夏の暑さのせいでは無く、エドモンの背後に巨大な影を垣間見た、緊張により生じたものだった。悩みと不快感を取り去るべく、エミリーに用意してもらった水桶の水を裸身に勢い良く掛けて水垢離みずごりを行い、転生以降姿を見せないライネガルドの神に必勝を祈願した。

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