第5話 ユンク伯爵夫人

 初夏も過ぎた七月の夜。ユンク伯爵家の食堂に家族が揃った。長いダイニングテーブルの端、上座には当主であるエドモン。そしてその下座には彼の老母と、三年前に輿入れした十六歳の妻が向かい合って腰掛けている。


「――最早王国は腐りきってしまいました。今こそ、新たな秩序を生み出さなければいけません」

「そうね。エドモンの言うとおりだわ」


 食事の席で自慢げに稚拙な弁を振るうエドモンに、白髪交じりの黒髪をした老母は、猫なで声で同意する。その様子を見た妻、ユンク伯爵夫人セシールは形の良い眉を僅かに顰めた。

 軽く癖のある腰まで届く紅毛と、褐色の肌が目を引く美しい少女である。しかし十六にしてはかなり小柄で、その身体つきも慎ましやかなものだ。奥方という雰囲気は全くと言ってよい程無い。子供のように見える彼女であったが、髪と同じ紅の瞳には深い知性の光が宿っていた。

 冷めた視線を送る彼女を、この親子は一顧だにしない。エドモンは期待通りに成長しなかった妻に興味を失い、息子を溺愛する老母は同様に彼女をいないものとして扱っていた。


 セシールは借金のかたと、エドモンの歪んだ欲望のために連れてこられた娘である。彼女の一族は元々南部の農家だったが、その次男坊であった彼女の祖父が傑物であった。先の大戦において、彼は煮炊きの煙から敵の行動をいち早く予測し、自ら偵察を志願。命がけで敵の情報を持ち帰った事でライネガルドを大勝に導いた。その戦功で平民にも関わらず子爵位とオベールという姓を賜り、東部騎士領へと移り住む事となる。

 オベール領を拝領してからも、健全な運営がなされた祖父の代は栄えたが、彼がセシールの幼い頃に亡くなり、当主が彼女の父に替わると傾き始めた。

 現当主は浪費癖があり、遊興の為に領地運営の資金にも手を出した。セシールをはじめとする家族や家臣の意見は退けられ、その為所領の財政は常に火の車となった。

 そこに三年前の飢饉が到来する。備蓄などほとんどないオベール領は窮地に陥り、寄親よりおやであるユンク家にすがった。彼女の祖父が所属していた一軍の指揮官が、先々代のユンク家当主であった事から、両家には縁があった。

 支援への見返りとして捧げられたのが、まだ一三歳のセシールであった。オベール領へと招かれたエドモンは、小柄でやせぎすなこの少女を妻へという申し出を、当初は歯牙にもかけなかった。しかし偶然、出産の為に里帰りしていたセシールの姉を垣間見、考えを変える。

 彼女はエドモンの理想とする肉感的な女であった。彼は姉を妻に迎えたいと渇望するも、いくら伯爵家といえど既婚者を奪うわけにはいかない。絶望するエドモンだったが、もしかしたら妹のセシールが同様に成長するかもしれないという考えが頭に浮かび、話を受ける気になったのだった。この婚約は、寄子の困窮を見かねた大領主がその娘を妻に迎えるという『美談』として、大々的に宣伝される事となった。


 婚礼が執り行われ、オベール領は支援によりなんとか急場をしのいだ。セシールも貴族の娘として、実家の為にユンク家の一員となることを決意する。だがその決意は、無残にも夫との初夜で砕かれた。契りを迎える為に、一三歳の少女が恥ずかしさを押し殺して晒した肌を、エドモンは鼻で笑い、妻に触れもせずに寝入ったのだ。「姉のようになったら抱いてやる」という、信じられない一言を残して。

 貴族として、女としてこの上ない恥辱を味わわされたセシールは心から誓った。決してもうこの男に肌を許すまいと。食指が動き、下劣な腕に組み敷かれぬよう、決して今の姿から成長しまいと。

 その思いが通じたのか、それから三年がたった現在においても、その容姿はほとんど変わることが無かった。エドモンは完全に彼女に興味を失い、彼女も又、夫を見限っていた。

 それでも両者が離縁できないのには理由があった。セシールは幼い弟が残る実家の為、エドモンにとっては外聞の為である。大戦におけるユンク家第一功の最大の要因となった情報をもたらしたオベールの娘を捨てては、ユンク家は恥知らずだと物笑いの種になるからだ。

 こうして新婚三年目にも関わらず、冷え切った夫婦関係が生まれたのだった。


「申し訳ありませんが、気分が優れないので失礼いたします」


 セシールは料理をわずかに口にすると、そう言って席を立った。親子は目もくれずに、王家に対する侮辱を話し続ける。彼女はそれ以上何も言わず、静かに食堂を出て行った。しかし今日のエドモンの様子をみた彼女の瞳には、ある新たな決意が秘められていた。



 翌日。応接室でくつろぐエドモンの前で、オスビーが工作の進捗を報告していた。


「流言は概ね成功しております。クラネッタの地元民にはあまり信じられていませんが、穀物の買い付けの為にクラネッタ領を訪れた商人等が噂を持ち帰り、他領で広まりを見せているようです。輸出できるほどの穀倉地帯である事が、今回は仇となりましたな」

「おお! そうか。それで、次はどうするのだ」


 恥をかかされたと逆恨みをしているクラネッタの娘をさぞ悩ませているであろうと、機嫌をよくしたエドモンが次の手を訊ねた。オスビーは気の良い商人のような笑顔のまま、卑劣な計画を口にする。


「いよいよ本格的に配下を動かせます。現在王都を初めとした直轄領においても噂は聞こえ始めました。次は王都と、この伯爵領へ増員させ、噂の浸透を早めます」

「こちらでも増やすのは何故だ?」

「伯爵様の行動を怪しまれない為です」

「……ふむ」


 告訴を行う際、噂が自らの所領でも広まっていないと不自然である事を、あまりエドモンは理解していないようだった。オスビーは気付かぬ振りをして、話を進める。


「王都に噂が行き渡り、王家にも耳に入る頃を見計らって、伯爵様が立ち上がります。自領にすら聞こえるクラネッタ領の謀反の噂、その準備から逃げてきた良民の悲痛な訴えを聞き、忠義心に駆られた若き貴族として」

「しかし、噂だけではどうにも出来んぞ。先の舞踏会の件も、皇太子が迂闊にも許してしまったからな」

「ご安心を。訴えの証拠として使えそうな行いを、クラネッタ領内で工作を行っていた配下が事前にいくつか抑えてあります」


 噂だけで立つ事に難色を示すエドモンにオスビーは力強く頷いた。


「例えばどのような事だ」

「都市近郊における自衛行動の指導。『アルコール』なる傷に効く薬品の常備。獣避けの『火薬』なる怪しげな道具の開発と、元の目的はまっとうでも、戦の準備とこじつけることは十分に出来ます」

「だが、それらのものでも本来の用途を明確に返答をされては、証拠として不十分なのではないか」

「その為の仕込みで御座います。クラネッタ謀反の首謀者をエリザベートにした事が、ここで活きてまいります」


 そういった後に、オスビーは何故クラネッタ公爵ではなく娘を首謀者とした噂を立てた理由を三つ述べた。

 まず一つに、許されたとはいえ王家に手を上げた人物であることから、信憑性を高める目的として。

 二つ目に先の発明などが、エリザの名前を以って行われた為。


「アルコールや火薬は、かの令嬢が発明したとクラネッタ領では認識されているようです。他にも幾つか功績があるようですが、恐らく嫁入り前の箔付けだったのでしょう。本人の騒動によって見事にぶち壊されたようですが」

「あのような短慮な者にそのような事が出来るはずがない」


 二人は堪えきれぬように嘲笑を洩らす。しかしエドモンは目の前の男の嘲笑が、彼の考える者以外にも向けられたことには気付けなかった。

 そして三つ目、最後の理由として挙げられたのが、彼女がまだ十四歳の小娘であることだった。


「先の証拠を王家に提出すれば、開発の責任者とされたエリザベートは審問しんもんを受けざるを得ないでしょう。この国の貴族法には、国家の安全に関わる問題に関しては代理人を立てる事が出来ないとされています。すなわち……」

「唯の神輿である奴は何も答えられず、疑いが増すというわけか」

「ご賢察の通りに御座います。他の諸侯の手前、王家の意図に関わらず、疑われたクラネッタの力は確実に削がれる事になるでしょう」

「素晴らしいぞオスビー。これでようやっと我らの悲願が叶う」


 膝を打ったエドモンに、オスビーは慇懃いんぎんな程に深々と頭を下げた。そうして彼らは審問会に向けて作戦を詰め始める。

 エドモン、オスビーでさえもこの時勝利をほぼ確信していた。しかし彼らには一つだけ大きな見落としがあった。彼らがクラネッタを崩す弱点だと考えていた公爵令嬢が、その実最も強大な敵である事を。

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