第6話 乳母の娘 上

「噂の出処が判明しました。公爵様やエリザ様のご推察通り、ユンク伯爵邸です」

「ありがとう。しっかり最後まで工作員の足取りを追ったかい?」

「はい。一度他領を経由しましたが、ユンク伯爵領で商人風の男と接触した事を《耳》が確認しております。そしてその男が伯爵邸へと入ったと」


 七月下旬の昼の暑さが残る夜。風呂から上がって自室に戻った俺を椅子に腰掛けさせ、金の輝きを放つ濡れ髪を柔らかな布でぬぐいながら、エミリーが背後から耳元へ囁いた。


「上出来だ。良く気付かれずに済んだね」

「エリザ様がお貸し下さった不思議な筒のお陰で、気付かれないほどの遠くから見張る事が出来たと《耳》が申しておりました」

「ああ、望遠鏡か。試作品だったが、役に立って何よりだ」


 おぼろげな記憶を頼りに作らせたので、精々安いオペラグラス程度の倍率にしかならなかった。正直あまり期待はしていなかったが、使う者によっては十二分な効果をもたらすようだ。そんな事を考えていると、エミリーが少し固い声で次の手を申し出てきた。


「いかがいたしましょう。伯爵邸に出入りする者を密かに捕らえさせましょうか? 末端はともかく、領館に出入りする程の者であれば、より多くの情報を持っているかも知れません」

「やめておこう。相手の縄張りで暴れても、俺達が不利になるだけだ。それに、こちらがどこまで探っているかも出来るだけ知られたくはないからね」


 忠義心があついのは結構だが、もう少し俺に関する事でも冷静になって欲しいと思いつつ、たしなめるように言う。すると元来の素直さか、それだけで彼女は落ち着きを取り戻したようだった。髪を拭う手の僅かなこわばりが抜けていく。


「出過ぎた事を申しました。お許し下さい」

「いいさ。今回は強引すぎるけど、それが良い時もあるから。これからも遠慮なく意見を言ってくれて構わない」


 そうフォローを付け加えると、エミリーはクスリと笑い、今度は乾きかけた髪に櫛を通し始めた。心地よい感覚に身を委ねていると懐かしい思い出が甦り、目が自然に細まる。


「髪をくのも、随分と上手くなったな」

「ありがとうございます」

「エミリーが来たばかりの頃は、痛い思いをした事もあったが」

「もう……十年以上も前の事ですよ」


 随分と昔の事を持ち出され、エミリーはちょっと拗ねてしまったようだった。口調に感情が出てしまう所は変わらないなと、俺は彼女との出会いを思い出していた。



 領都アミーンの屋敷で育てられた俺が二歳になり、簡単な言葉を喋っても違和感を覚えられなくなった頃、母上が乳母のアンナと一人の少女を連れてきた。


「まあ! 姫様、こんなにお可愛くなって!」


 久しぶりに会ったアンナが、懐かしさを感じさせる大きな声を上げた。彼女はとても賑やかな明るい女だ。世話になっていた頃、俺が泣くよりもアンナのあやす声が大きいと家の者が笑う程だった。

 乳母を選ぶ際に身元のしっかりとした者をと、父上に仕える忠実な騎士、その妻達が候補に挙げられた。そこで選ばれたのがアンナだ。

 事実彼女はとても良い乳母であった。多少騒がしくはあったものの、細やかな所にまで気を配る事が出来、俺がしたい事をすぐに汲くんでくれた。産後の肥立ちがあまり良くなかった母上が回復するまでの、半年だけの仮雇いではあったが、その間不便することは一度も無かった。親近感を抱かせる黒髪をした、朗らかな美人である事も好ましい。

 彼女自身の家の切り盛りもあるため実家に帰っていたが、もう一度身の回りの世話をしてくれるのかと、期待感を持って母上の言葉を待った。


「エリザ。今日はあなたのお世話をする子を連れてきたの」

「お世話……?」


 アンナが復職する訳では無いらしい。すこしがっかりしながらも出来るだけ幼児らしく、断片的な言葉で聞き返す。母上はそれでも娘が言葉を話すのが嬉しいのか、にっこりと笑った。


「そう、あなたのお友達になる女の子よ」


 そう言われて母上の手の先が示す方向を見、俺は一瞬言葉を失った。

 白磁の肌という表現がぴったりな白い肌と、母譲りの艶やかに光る黒髪の美少女が、アンナの背後から顔を覗かせていた。その黒々としたつぶらな瞳は、おずおずと俺達親子を観察している。


「さ、エミリー。リリアーヌ様とエリザベート様にご挨拶を」

「……よろしくおねがいします」


 エミリーと呼ばれた少女は母親の影に身を隠しながら、消え入るような声で俺達に自己紹介をする。随分と大人しい事に俺と母上は顔を見合わせた。賑やかなアンナの娘とは思えなかったからだ。アンナがやれやれといった風に首を振る。少し涙目になっていたエミリーは母親の服をはっしと掴みながら、再び彼女の背後に隠れてしまった。


「申し訳ございません。長女だというのにまだ母親離れが出来ない子でして……」


 後で聞いたことだが、このライネガルドでは女の子を六、七歳で奉公に出すことはそこまで珍しくない事らしい。丁稚奉公でっちぼうこうのように様々な教育を受けながら手伝いを行い、嫁入りに備えるのだそうだ。

 優秀な人材はそのまま雇われたり、あるいは家中の者と結ばれる娘もいる。アンナは後者であった。

 奉公に出す時に子供がぐずるのもよくある光景で、母上は困りつつも微笑ましいといった表情を浮かべていた。


――仕方ない。


 恐らく結局俺の面倒を見ることになる少女に俺はとてとてと近づいていった。


「エミリーおねえちゃん」

「……なあに?」


 母親と離れ離れになりそうな時だが、歩き方も少々覚束ない幼児を無視する訳にもいかないと考えたのだろう。エミリーはちゃんと返事をしてくれた。


「アンナの事、好き?」

「大好き」


 即答だった。やはり彼女は良き母親なのだろう。


「私も大好き! おかーさま。私もアンナとたまにはお話したいの」


 そういって母上に振り返り、黄金色の目を潤ませておねだりをした。愛らしさに母上の口元が一瞬だらしなく緩まる。それを見逃さなかった俺はとどめとばかりに小首をかしげて撃沈し、見事アンナが領館に来る口実を作ったのだった。

 アンナは針仕事を任され、月に一度領館に納めに来ることとなった。そしてエミリーと共に俺の世話をし、その日は泊まっていく形に落ち着いた。

 エミリーも又、クラネッタに奉公に来ることを自ら申し出てきた。月に一度でも母親と過ごせる事で決心がついたのだろう。こうして彼女は俺専属の世話係となった。



「いたたたっ」

「ごっ、ごめんなさい姫様」


 エミリーが領館にきて三週間が立った。先任のメイドから仕事を教わり、彼女が初めて一人で俺の世話をし始めることとなるも、まだ不慣れな為に失敗することもあった。


「大丈夫? おぐしは痛くない?」

「だ、大丈夫……」


 髪を梳いて貰っていたのだが、子供の細い髪は絡まりやすい事を失念していたらしい。絡まった部分をそのまま櫛で引っ張られ、俺は痛みに呻きながら頭を擦った。


「本当に、ごめんなさい……」

「気にしないでエミリーおねえちゃん。それよりもご本を読んで欲しいの」

「う、うん。すぐに持ってくるね」


 少し緩そうなお古のメイド服を翻し、エミリーは書斎に本を取りに行った。彼女が来て良かったと思う点もある。様々な本、特にライネガルドの風土等が記載された本を読む事が出来るようになった事だ。以前にも母上やメイドによる読み聞かせはあったものの、絵本のようなものばかりでこの国の実情を知る事が出来なかった。言語を知る事は出来たので、全くの無駄ではなかったが。

 地図や歴史に関する本を二歳児が読みたいと言う訳にもいかず、一人もどかしい日々を過ごしてきたが、六歳の子供相手ならばそこまで怪しまれないだろうとエミリーに読みたい本を持ってこさせていた。


「感謝しなければな……」


 そう独り言を呟いていると、自室の扉が勢い良く開いて何冊かの本を抱えたエミリーが戻ってきた。


「姫様! 持ってきたよ!」

「わぁ! ありがとう!」


 慌てて子供らしく振舞い、こうしていなければならないのは何歳くらいまでなのか考えつつ、俺は本に没頭していった。



 エミリーが持参したのは、以前にも読んだこの国の風土記だった。

 ライネガルドは大陸の西端に位置する歴史ある国家である。東部と南東部に隣国との国境があり、他は海に囲まれている。イギリスとスペインの無いヨーロッパのような地形で、ライネガルドはフランスの地形に良く似ていた。再び巻頭に付いた地図を見た時、やはり自分は異世界に来ていたのだと実感させられ、微かな郷愁の念が起こった。


――爺さんの墓は大丈夫だろうか。


 爺さん――穂積 誠一は、エリザとなる前の俺、穂積 あきらの育ての親だ。幼い頃に交通事故で両親を失った俺を、祖父の爺さんが引き取り、男手ひとつで育ててくれた。

 政治家という忙しい職業にも関わらず、爺さんは直接様々な事を教えてくれた。俺の知識の殆どは、その時与えられたものが根底にある。爺さんは俺の師であり、誇りだった。

 爺さんは俺が就職を決めた後に静かに亡くなった。ようやっと恩を返せると思っていた矢先の事だった。

 結局俺もその後に命を落としてしまったが、運よくこうして生まれ変わる事が出来た。その時思ったのだ。俺はまだ、爺さんの教えを活かしきっていない。あの世で爺さんが安心できるよう、今度こそ得た知識を活用してみせると。転生させてもらった手前、国を救うという神からの依頼を無視する気にもなれなかった。

 祖父と両親が眠る墓が無事であることを祈りつつ、俺はエミリーの読み聞かせに耳を傾け、自分が出来ることを探した。

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