第2話 帰郷
宰相邸の騒動から数日後。区画整理された畑が両側に望める王国北東部の街道を、黒地の大きな車体に華美にならない程度の金が縁取られた馬車がゆっくりと進んでいた。車体の扉には銀の盾を挟んで獅子と
◆
「
「これも全て、姫様のお陰です」
王国北東部の大部分を占めるクラネッタ領に入った馬車の車内。覗き窓から改革の主導を行った畑の様子を窺っていた俺に、向かいの座席に控えていた黒髪のメイド、エミリーが微笑んだ。
「俺は知識を学ぶ機会があっただけに過ぎないよ。皆の頑張りの成果さ。それとエミリー、二人きりのときはエリザと呼ぶように」
自領への帰り道に父上は同乗していない。あの騒動の後、父上と俺は王家に対する正式な謝罪を行い、そのために滞った諸々の仕事を父上が王都の邸宅に残って済ませている。俺は故郷で心配して待つ家族や家臣たちに無事な姿を見せる為、自身の側仕えだけを連れて先行しているのだった。
「このクラネッタ領で、そう思われているのはあなた様だけですよ。エリザ様。全てはあなた様から変わっていきました。これらの畑も、人々の暮らしも、そして……私も」
窓を閉め、彼女に向き直る。暗くなった車内で、メイド服に身を包んだエミリーの僅かに上気した白い顔が浮かび上がった。
エミリー。彼女は俺の乳母の娘である。俺が自我を持ったと思われた二歳の時に、世話係兼遊び相手として引き合わされ、その時から今日まで仕え続けてくれている。
美しい少女だ。出会った頃から幾度と無く思っている事だが、十九となったエミリーはそれにどこかしっとりとした魅力が加わったようだった。肩甲骨の辺りまで伸びる長い髪は濡れ羽色に輝き、ぱっちりとした二重の瞳は、夏の夜の海を思わせる静かで暖かい黒を湛えている。
どこかかつての故郷を思い出させ、尚且つ自分の為に懸命に励む彼女に想いを寄せるまで、そう時間は掛からなかった。そして俺の秘密を知る数少ない人々の一人である彼女も又、それに応えてくれた。
向かいの席に移動し、彼女にそっと抱きついて豊かな胸に顔を埋めた。左右に分けられ、白いリボンで留められた前髪が頬をくすぐる。エミリーも細腕を優しく俺の背中に回してきた。こうなるといつも、包み込むような暖かな感触にとろりと目を閉じてしまう。
俺にとってエミリーは、頼りになる腹心として、心の内を話し合える親友として、そして今のように清い付き合いではあるが恋人として、かけがえのない大切な人だった。
「ところで姫様」
俺の呼び名が又戻り、回されていた手が背中にぴたりと張り付いた。動かせなくなった身体に冷や汗が流れ、緋色のドレスの色合いが濃くなった気がした。二人きりにも拘らず、あえて呼び名が戻る時、それはエミリーがひどく怒っている時だ。
「先日の舞踏会ではやんちゃをされた様で……それと風の噂でお聞きしたのですが、騒動の前にも随分と楽しまれたそうですね」
「……何の事かな」
「可愛らしい貴族のご令嬢の方々に囲まれて、密かに鼻の下を伸ばされていたとか」
俺の顔が柔らかな胸に押し付けられる。段々と、背後の腕の力が篭められているような気がした。
「あれは貴種の付き合いというもので――――」
「正直にお答えになってください」
そう言ってにっこりと、花のような笑みを向けてきた。今は春で、その笑みはそれにふさわしいものだというのに、凍えるような震えに襲われる。
「すまない。あと、心配を掛けた」
「どうかご自愛くださいませ。エリザ様。あなた様はクラネッタに……私にとっても無くてはならない方なのですから」
彼女の腰に回していた手にぎゅっと力を込めて言った、本心からの言葉に、エミリーはすぐさまふわりと俺を抱きしめ直した。少しばかり嫉妬深いが、俺の身を案じ、騒動の日には大泣きに泣いていた彼女はやはり愛らしかった。
◆
「姫様が戻られたぞぉーっ」
クラネッタ領の中央に位置する都市、アミーンに入ると、歓声が馬車を包んだ。
都市に住む市民達が、歓呼の声を挙げながら馬車に向かって手を振ってくる。俺も窓から身を乗り出して振り返すと、その声はより大きくなった。みな健やかな笑顔をしている事に安心しながら、俺達は中心部にある領館へ向かった。急に乗り出したことで馬車から落ちかけたことに対する、エミリーのお小言を聞きながら。
領館に着くと、門前には既に家臣団が並び、母上と弟達もその中心で待っていた。
馬車から地面に足を着けるやいなや、薄緑色のキュロットを穿いた、俺よりも更に小柄な2つの塊が胸元に飛び込んできた。後ろによろめく俺をすかさずエミリーが支える。
「おねえさま、おかえりなさい!」
「おかえりなさい!」
「ただいま。アドルフ、ミレーユ」
今年六歳となった双子の兄妹、アドルフとミレーユが、満面の笑みで迎えてくれる。俺が可愛い弟達の銀と金の髪を両手で撫でると、双子はくすぐったそうに両親譲りの青い目を細め、笑い声を挙げた。
両側から俺の腕を掴み、王都の話をせがむ二人をあやしながら、白く儚げなドレスを纏った母上の許へ向かう。三十路間近とは思えない程若々しい彼女は、ただ微笑みを浮かべて立っていた。
「ただいま戻りました。母上。ご心配をおかけしました」
例え責められずとも、これだけは言うべきだろう。深く下げた俺の頭を、母上は優しく抱きしめてくれた。
「無事で……本当に良かった」
暖かな雫が、ぽたりと首筋に落ちる。まだ幼い弟達に俺の大事が悟られぬよう、今まで必死に堪えてきていたのだろう。その数はひとつ、またひとつと増えていった。
「母上、申し訳ありませんでした」
「いいのです。貴女は公爵家の誇りを守ろうと、為すべき事をしただけ。ただ、廻り合わせが悪かったのです」
とめどなく首筋をたたく涙に、自分がどれほど母上の心を痛めさせたのか、そして愛されていたのかを知り、父上の時と同様に涙が溢れてきた。
「おねえさま。おかあさま。どうしたの? お腹が痛いの?」
そういってミレーユが心配そうに覗き込んでくる。アドルフも理由はわからないというのに泣きそうになっていた。
「大丈夫。どこも痛くないよ。ミレーユ。アドルフ。私はね、また母上や貴方達に会えたのが嬉しいから泣いているの」
「うれしくても泣くの? どうして?」
ミレーユが愛らしく首を傾げる。
「そうだね……例えば大切な人としばらく会えなくなるとしたら、それはとても寂しいよね」
アドルフとミレーユが同時に頷いた。
「でもそう考えていた人にもし思ったより早く会えたら、より嬉しいと思わない?」
「うれしい!」と、声を揃える双子に微笑みながら、俺は言葉を続ける。
「そういった時、心が強く動いた時には、嬉しくても涙が出るんだよ」
「そうなんだ~」
興味深げに頷くミレーユに対して、アドルフは表情を曇らせた。
「おねえさま、どこかに行っちゃうの?」
もう少しぼやかして言えば良かった。今の例えだけで、アドルフは俺に迫っていた危機的状況をおぼろげながら察したようだった。不安げな表情を見せ始める双子を落ち着かせるように、二人を抱きしめて耳元で囁く。
「大丈夫、何処にも行かないよ。貴方達が寂しい時には、必ず側にいてあげる」
「本当?」
恐る恐る訊ねたアドルフの言葉への返事に二人を強く抱きしめると、ようやっと安心したのか、二人は再び王都の話をせがみ始めた。ころころと変わる二人の表情にほっとしながら、母上と苦笑しあう。
――――このまま何もないと良いが。
舞踏会で受けた、憎しみのこもったまなざしを密かに懸念しつつ、俺は家族と共に我が家へと戻っていった。
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