第54話 裁きと救済

 エリザベートへの判決が下された翌朝。大聖堂前にある広場は、早朝にもかかわらず身動きが取れぬほどの人だかりが生じていた。集まった人々の視線は広場中央に設置された火刑台へと向けられている。それは石の台座に太い一本の柱が立てられたもので、足下には、乾燥した枝や薪が過剰なまでに積み上げられていた。その恐ろしい処刑台の周りだけがぽっかりと人の空白を生じさせている。

 処刑は、民を恐怖させるものであったが、同時に刺激的な娯楽でもあった。楽しみの少ない彼等にとって、目の前で行われる処刑はつかの間の非現実的な体験として受け入れられていた。それも薄汚い悪党などとは違い、美しき姫君が火刑に処されると聞いては、その物珍しさに、多くの人が押しかけたのも無理のない事だった。しかし興奮する群衆の中にも、沈痛な面持ちをする者がいた。


「どうしてそんなに落ち込んでいるんだ? 処刑されるのはお前の知り合いでもないんだろう。偉い身分のお姫さんって話じゃないか」


 心配して声を掛けた友人に、表情を暗くしていた男が問いかける。


「なあ、お前はしっているか。昨日の裁判の話を」

「ああ。酷いものだったらしいな。お姫さんにありもしない罪をおっかぶせて、反論も許さなかったと聞いている」

「そうだ。俺はその場で聞いていたんだ。あのお姫様は何にも悪くなかった。だから判決が下った時、俺たちはあまりの酷さにざわめいた。文句を言う奴もいた。だが枢機卿が、お姫様を、エリザベート様をかばい立てする者は同罪だと言って、誰も声を上げられなくなったんだ。それが、悔しかった」

「でも、俺達にはどうする事も出来ないだろう」

「だからこそ、せめてあの方のそばで祈りたいんだ。出来るだけ苦しまずに、天の門が開かれるように」

「……分かった。俺もそうしよう」


 首元から祈りのキアーヴェを取り出した男を見て、友人も又、それに従った。

 彼等が瞳を閉じ、祈りを捧げていると、周囲の群衆がわっと騒ぎ出す。大聖堂の扉が開かれ、教皇庁の衛兵が続々と出てきたのである。彼等は火刑台に至る道を確保し、周囲に目を光らせ始めた。過剰なまでの警戒は、処刑される人物の求心力に対する恐れにも見えた。

 衛兵達が道を作ると、処刑に立ち会う聖職者達がその間を通って行く。異端審問所総長サジェッサの姿もあった。その姿を目にすると、先ほどまで無秩序に騒ぎ立てていた民衆も声を落とし、目線をそらした。万一審問所に睨まれようものなら、次に火刑台を上るのが自分でもおかしくないことを、誰もが理解していた為だった。

 サジェッサらが通り過ぎた後、大聖堂の入り口近辺がひときわ騒がしくなり、そして又唐突に静まりかえる。その不思議さに人々は引き寄せられるように目を向け、その理由を知ることとなった。

 衛兵に左右を固められ、両手首を縄で縛られた美しき少女が歩みを進めている。灰色の地味な衣服を着せられていたが、その身から生ずる輝きは隠しようのないものだった。

 肩甲骨の辺りまで伸びた黄金色の髪は、歩くたびに朝焼けの光を反射し、眩いばかりに煌めいていた。粗衣から覗く華奢な手足は少女の可憐さを示すと同時に、囚人用の手枷すら嵌められぬ幼さを群衆にしらしめ、幾人かにばつの悪さを感じさせた。

 無論そういった良心の呵責に苛まれる者達ばかりではなく、一層騒ぎ立てる者もいる。中には、聞くに堪えない野次を飛ばす連中もいた。しかし大人でも竦むような状況にありながら、黄金の瞳は小揺るぎもせず、前だけを見つめていた。


「これより、異端者エリザベートに対する処刑を行う!」


 エリザベートが火刑台の前までたどり着くと、サジェッサが立ち上がり周囲に宣言する。先ほど野次を飛ばしていた者はますます猛り、彼女の姿を見て良心を取り戻していた者は心を痛めた。

 様々な表情の者達が見つめる中で最後の説教が終わり、いよいよ処刑の時が訪れた。エリザベートが台座に足を掛けた時、隣でそれを監視していた刑吏は、彼女の身体が微かに震えている事に気付いた。同じくそれを目敏く見つけたサジェッサが、エリザベートに歩み寄り、酷薄な微笑を浮かべる。


「震えているようだな。異端者エリザベートよ。神は過ちを認める者に寛容である。汝がその罪を認め、教会の奉仕者として全てを捧げるのであれば、神の慈悲を与えよう」

「枢機卿殿。私にはありもしない罪を認める事は出来ません。それが、民をも苦しめる卑劣な要求であれば、なおさらです」

「その身を浄化の炎に焼かれても、か」

「神は、我々の行いを見ていらっしゃいます。必ず、救いをもたらしてくれるでしょう」


 その言葉を聞いたとき、サジェッサの表情が打ちのめされたものとなり、彼の瞳が大きく揺らいだ。


「神はなにも報いぬ!……貴様の様な異端者にはな。刑吏よっ! 早く鎖で縛り付けるのだ。赦しの手をはねのけた者に、最早慈悲を掛ける必要はない!」


 鬼気迫る表情となったサジェッサに恐れおののいた刑吏は、柱の前に立ったエリザに鎖をかけ始める。その細い身体が無骨な鉄輪の連なりに囚われる様は痛ましげで、鎖をひと巻きする毎に刑吏の心を苛んだ。


「すまねぇ。すまねぇ。赦してくれ……」


 いつしか刑吏は、赦しを乞う言葉を口にしていた。彼はもう分かっていた。目前の少女に罪などない事を。それでありながら降りかかる災難を恐れ、手を止められぬ自身の不甲斐なさが、言葉となって出てきたのであった。


「――赦しましょう。貴方の心が、救われますように」


 足下の鎖を巻き終えた時、頭上から言葉が返される。刑吏ははじかれるように顔を上げ、そして涙した。鎖に縛られた少女の身体から震えは消え、ただ、微笑みだけが向けられていた。朝日を背にしたその姿は、まるで天使が彼の前に降り立ったかのようだった。


「なにをしている。早く刑を執行せよ!」

「い、嫌だ! 俺には出来ねぇ!」


 サジェッサがうずくまった刑吏を叱責するも、叫ぶような大声で拒絶の言葉が返される。その態度に驚愕する周囲など顧みず、彼は火刑台より飛び降り、人込みの中に駆け込んで戻らなかった。

 点火用の松明は残されていたが、誰もそれに近寄ろうとはしない。周りで囃し立てていた群衆ですら、固唾を呑んで成り行きを見守っていた。我に返ったサジェッサが、エリザベートを糾弾する声を上げる。


「悪魔め! 刑吏をたぶらかすとは!」

「主神が私をお救いになるために、彼の良心を取り戻して下さったのでしょう。全ては神の御心によるものです」

「世迷い言をっ。ならば、それを確かめてくれよう!」


 エリザベートの言葉に反発したサジェッサが松明に手を掛け、火刑台に向かって放り投げた。火は用意されていた木々に燃え移り、徐々にその勢いを増していく。しかし足下にまで火が迫ったエリザベートがとった行動は、居合わせた人々の予想を超えたものであった。


「これは……歌?」

讃美歌イーノだ……」


――天の門は開かれる。主を信じる者達に。


 少女が、パスティア語の讃美歌を歌っていた。その身を炎に炙られながら、その口から発せられたのは命乞いでも、悲痛な叫びでもなく、神を讃える言葉であった。群衆は、事ここに至って取り返しの付かない過ちを犯したことを悟り、悲鳴に似た声を上げた。

 誰もが炎と、その上で歌い続ける少女を見ていた。煙が立ち上り、たびたび咽せながらも彼女は歌い続けていた。その歌声に、ひとつ、ふたつと声が重なる。


「な、なにを……」


 予期せぬ事態に、サジェッサが後ずさる。群衆が、歌い始めていた。裁判を見ていた男が。その友が。彼女の姿を見て、自らを恥じた者達が。そしてその信仰に心打たれた人々が、次々に声を上げ始める。歌は波の如く広がり、広場全体を覆うまでとなった。


「歌をやめよ! 貴様らも異端として罰するぞ!」


――我らが祈りを聞き入れたまえ。我らが愛を受け入れたまえ。


 サジェッサがその身を震わすほどの怒声を上げても、誰ひとりとして口を閉ざす者はいなかった。それどころか、歌声は益々大きくなり、熱狂の度合いが上がっていく。既に、煙に呑まれた少女の歌声は聞こえない。それでも群衆が止まることはなかった。


――主よ。門を開きたまえ!


 讃美歌を最後まで歌いきり、彼等は涙を流した。そして、未だ黒煙が立ち上る火刑台を見、次いでその悲劇を引き起こしたサジェッサら教皇庁関係者を見た。向けられた視線には強い非難が込められており、広場を剣呑な雰囲気が包み始める。その様な状況にありながらも、サジェッサはいち早く冷静さを取り戻し、群衆に向かって言葉を発した。


「民達よ! 異端に惑わされてはならぬ! あの者は神の家である教皇庁に逆らい、多くの神の子を殺した大罪人である。故にあのような末路を迎えたのだ。もしご加護あらば、自らを救うことも出来たはず。いま炎に焼かれている事こそ、主の怒りに触れたあかしであろう! 主がその罪を赦し給うたかどうか、確かめてみようではないか!」


 彼は衛兵達に水を用意させ、火刑台の消火を始めさせる。焼死体となったエリザベートを見せ、神の加護などありはしないと民に知らしめる為であった。神を信じなくなったサジェッサだからこそ迷いなく取り得たやり方であったが、この行為が彼の命運を決めた。

 次々に掛けられる水は大量の白煙を生じさせ、しばらくなにも見えなくなる程だった。煙が収まり、徐々に視界が晴れると、サジェッサは台に向かって一歩踏み出し、そこで固まるように足を止めた。


「ば、馬鹿な……」


 サジェッサが目にしたものを、群衆も見た。それは、信じがたい光景だった。火の消えた火刑台の上には、神を信じ、神の名によって殺された哀れな少女の遺骸があるはずだった。しかし、そこには煤に塗れ、意識を失いながらも、火傷一つ負っていないエリザベートの姿があったのだ! 粗服は焼け落ち、その身を飾るものは鎖だけである。しかし人々は確かに、神の恩寵という衣が、彼女の身体を包んでいるように感じられた。


「奇跡だ……」

「そうだ。奇跡だ。主神がっ、お救いになったのだ!」


 サジェッサは、周囲からわき上がる声で我に返った。しかし最早彼の言葉では収拾が付かぬ程に、奇跡を目の当たりにした群衆は、熱狂の叫びを繰り返していた。


「神は必ず報われる! 正しき者は救われる!」

「っあり得ぬ……あり得ぬ!」


 民のひとりが叫んだ言葉に、サジェッサは血が煮えたぎる程の怒りを覚え、天に向かって吼える。


「神よ! 応えよ! 正しき者を救うのならば、なぜ我が師を殺し給うたか!」


 その時、問いに応えるがごとく突然大聖堂の鐘がなり始めた。広場にいた人々は皆そちらに意識を取られ、遙か遠くで鳴った、破裂するような音に気を向ける者はいなかった。


「ぐっ……」


 サジェッサの身体の数カ所に、焼け付く様な痛みが走る。何かを打ち込まれた事は理解出来たが、その正体までは分からなかった。ただ、激痛と共に滲み出る多量の血が、彼の命数が残り僅かである事を告げていた。


「エ、エリザベェトォ……!」


 薄れゆく意識の中、サジェッサは憎き相手に呪詛を飛ばそうとする。しかしその視界が歪み、彼にある風景を幻視させた。


 穏やかな天気に包まれた庭園。その中にある東屋で、今よりも髪の短いエリザベートとひとりの老人が談笑している。様々な質問をする彼女に対し、老人は南方なまりの口調でゆっくりと、されど丁寧に言葉を返していた。その横顔は、歳月を経た深い皺が刻み込まれていたが、彼が夢にまで見ていた人物であることは疑いようがなかった。


「ああ、そうか。そうであったのか」


 サジェッサの独白と共に幻はかき消え、彼の視界は再び現実へと戻された。目前には処刑台の少女がいる。だが、それを見つめる彼の瞳から険しさは失われ、その表情も憑きものが落ちたように穏やかなものとなっていた。彼はエリザベートに一礼し、力尽きたようにそのまま地に倒れ込む。


「ありがとうございます、主よ。お師匠様をお救いに……」


 流れ出る血の中で、サジェッサは手を震わせながら首元の鍵を取り出し、心からの祈りを捧げて瞳を閉じた。その口元には、親の腕に抱かれて眠る子供のような、安らいだ笑みが浮かべられていた。

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