第51話 約束

 エミリーの持っていた書類が、執務室の床に散らばった。


「……エリザ様。今、なんと仰いましたか」

「明後日、聖騎士団への使者として出立する。和睦が済み次第、そのままレムリアへ向かうから、準備を頼むよ」


 ジュストと対面する一週間前。夕日が差し込むトローアの執務室にてエミリーにそう告げると、彼女の白い顔から更に血の気が失われた。落とした書類を拾うことすら忘れて呆然としていたかと思うと、その顔はみるみる赤みを帯び始め、怒りとも悲しみともつかぬ表情に変わっていく。その目尻には涙も滲み出ていた。


「なりません! どうかお考え直しくださいっ」


 エミリーが強硬に反対する事は目に見えていた。とはいえ無断で出立するわけにもいかない。故にようやく明かしたのだが、返ってきたのは想像以上の反応だった。彼女は部屋の外にまで響きそうな大声でそう叫ぶと、どこにも行かせてなるものかと、椅子に腰掛けていた俺のそばに膝を突き、身体にすがりついてきた。


「直前まで伝えなかった事は、すまないと思っている」


 その様な事はどうでも良いのです、とエミリーは首を振り、皺が出来るほどに俺の服を強く握りしめながら引き留め始めた。


「エリザ様。今回の審問はかつてのものとは異なります。王都では宰相閣下やセシールさんの助力がありました。ですが、レムリアはもはや敵地なのです。傭兵団を完膚なきまでに破った私たちは、サジェッサのみならず、教皇庁にとっても脅威となりました」

「知っているよ。だからこそ誤解を正さなければならないんだ。代理人では警戒を解くことはできない」

「それでも邪魔立てするサジェッサがいます。かの者の悪行に関する調べはついているとはいえ、教皇庁がそれを認めるでしょうか」


 高位の聖職者の悪行が露わになれば、教皇庁への信仰が薄まる。彼らの土台を揺るがしかねない事態になれば、黙殺すらされかねなかった。


「ああ。当然その可能性も考えている。だからこそ和睦の条件にこれを付け加えたんだ」


 そう言って机においてあった羊皮紙に手を伸ばし、教皇聖下を長とする公開裁判の項を見せた。


「あの方はご高齢だが、人々に推されて教皇となった徳高きお方だ。それに、先の戦いの結果を知れば、クラネッタの武力と衝突した際の損害を十分に理解してくれるさ」


 その上で俺自身が出向かい、教皇庁自体には敵意がない事を伝えればいい。サジェッサの悪事を暴くまでもなく、こちらに罪がない事を認めてくれるだろう。


「それに、多くの民の目もあっては異端審問所の連中も無茶は出来まいよ」

「そうだとしても、万が一という事があります。思惑が外れたら、どうなさるおつもりなのですかっ……」

「最悪の事態を、考えているのだね?」


 エミリーが涙をこぼしながら頷く。彼女は、俺が異端として処刑される可能性を危惧していた。その用心深さは、俺がかつて前世において学んだ事であり、それがいつしか彼女にも受け継がれていた事が嬉しかった。エミリーの涙を指で拭い、熱くなっていた頬に手をあてる。


「心配する事はないよ。どれだけ恐ろしい事であれ、心構えと対処さえできていれば乗り越えられない事はないのだから」

「わかり、ました。ですが、一つだけ約束をしてください」

「分かった。何を約束すれば良い」

「無事に帰ってくると。私と必ず、ライネガルドに戻ると約束してください。もしそれが叶わぬならば、私も戻ることはありません」

「エミリー。君は……」

「残りませんよ? エリザ様のお側が、私の居場所です」


 心を読まれたかの様な答えが返される。その瞳から、もはや涙は消えうせていた。俺は、彼女の中にも揺るがぬ決意が生まれていた事を知り、深く頷いて了承した。


「いいだろう。証拠を見せよう」


 机の引き出しを開き、その奥にしまってあった羊皮紙を引き出す。丸められた上に辺境領の封蝋が施された、公式なものだ。


「エリザ様。それは……?」

「怒るなよ。念のための書類だ」


 蝋を割り、羊皮紙を広げる。内容は俺がしたためた相続状であった。相続人の名には父の名が記され、もし俺が命を落とした場合は、怒りに囚われることなくまず領内の混乱を鎮めてほしいとの願いも書かれていた。


「だが、これはもう必要ない」


 机上にあった燭台にかざす。羊皮紙は熱で歪みながら時間をかけてゆっくりと燃え広がり、火が自然に消える頃には署名は見えなくなっていた。


「エミリー。必ず戻ってこよう。ここは、辺境領は、俺達の新たな故郷なのだから」


 もはやそれ以上の言葉は語らず、俺達は頷き合った後に互いを抱きしめた。



「辺境伯殿。まもなく聖都へ到着致します。我等の歩みに合わせて頂いた事、感謝致します」

「いえ。こちらこそ道中お気遣いを頂きました。昨日も湯を用意して頂き、ありがとうございます」

「われら聖騎士団の大切な客人を、旅塵りょじんにまみれさせたまま聖都にお迎えなど出来ましょうか。せめてもの心づくしです」


 並んだ馬上でジュスト殿と言葉を交わし合う。数千の聖騎士団と同道していたため、海路でパスティアに入った後は陸路を進んでいた。その行程で、彼らの並々ならぬ規律と練度、そして民からの慕われ振りを目の当たりにし、俺は彼らと事を構えずに済んだ幸運に感謝した。

 彼が聖騎士団をまとめ上げてからは、パスティア教国内においての奉仕活動――救民活動や盗賊討伐――をしばしば行っていたという。そのため、地域によっては教皇庁の高僧達よりも名の知られた存在であった。民達が自ら近づいて、聖騎士団に食料を提供してくれた事すらあった。


「むしろ貴女にこの程度の行いしか出来ない事が心苦しくもございます。どうか、私にできる事でしたら何でも仰って下さい」

「ありがとうございます。ですが、仮にも私は異端の疑いをかけられし身。貴殿にご迷惑はかけられません」


 異端宣告を受けたこの身すら案じてくれている優しい御仁を巻き込む訳にはいかない。俺が考えているこの先は、彼の信ずる正道とは相容れぬものであろうからなおさらだった。


「罪なき者を見捨てては、我等の教えに反します。どうか、なにとぞ」

「……そこまで仰るならば」


 そう言って、俺は聖騎士団とは一切戦わなかった事の証言を依頼した。


「もう一つだけ、お願いしてもよろしいでしょうか」

「勿論です」

「裁判の結果が出たとき、どのようなものであれ、それを受け入れるとお約束頂けますか。貴殿と、その許に集った方々の為にも」

「……分かりました。そのようにいたします。なれど、それまでは貴女の身辺を我等聖騎士がお守りすることをお許し下さい」

「深謝いたします」


 互いに礼を交わし、再び前を向く。その先には、冷たさすら感じさせるほど白き荘厳なレムリアの姿があった。

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