第42話 異端

「嘘だ」


 今にも日が落ちようとする薄暗がりの大地を、馬に鞭打つ青年がいる。


「嘘だっ」


 息を荒げながら青年サジェッサは疾駆する。修道着が向かい風で乱れ、幾度となく振り下ろした鞭の持ち手から血が滲もうとも、彼はその手を休めなかった。

 しかしその姿が、突如として地に落ちる。馬が疲労に耐えかね、泡を吹いて倒れたのだ。その背から放り出され、大地にたたきつけられたサジェッサは、酷くむせ込みながらもなお立ち上げった。


「嘘だぁ!」


 彼は日の落ちきった天に吠え、痛む手足を無理矢理奮い立たせると、師のいる聖都へと駆けだした。



 地方修道士として出向していたサジェッサの元に、師の教会で共に働いていた同輩から急ぎの手紙が届いた。そこにはおよそ信じがたい内容が記されていた。


「お師匠様が、異端……!?」


 サジェッサを救い、新しい人生を授けてくれた師に異端の疑いが掛けられたと言うのだ。裁判が既に始められ、師が窮地に陥っている事を知るやいなや、彼は修道院を飛び出した。

 だが馬を潰すほどに急ぎ、やっとの思いで聖都にたどり着いたサジェッサを待っていたのは、沈痛な表情を浮かべた同輩だけだった。


「お師匠様、ドミニコ司教様はっ」

「もう、ここにはいらっしゃらない。国外への追放となった」


 すがりつくサジェッサに、同輩は裁判の経緯を伝えた。師を告発したのは同じく司教の座にある人物であり、ドミニコ司教が研究をしていた植物の品種改良が、神の創造物に対する冒涜だと訴え出たのだ。しかしその訴えは、次のポストである大司教の座を、人望厚き師に奪われるのではないかという恐れから出た事は明白だった。


「いいがかりだ! どうしてそんなものが認められる!」

「異端審問所が抱き込まれたんだっ……!」


 告発を行った司教はサジェッサの亡き父同様、聖職売買シモニアを行った大商人だった。その財力をもって異端審問官を買収し、都合の良い証言を行わせたのだ。その話を聞いて再び飛び出そうとするサジェッサを、同輩は慌てて羽交い締めにする。


「待て! 何をするつもりだ。サジェッサ!」

「決まっているっ。教皇庁に訴え出るんだ! これは不当な裁判だと!」

「もう遅い! それに司教様からも決して軽率な行いはするなとご指示が出ている」


 そういって同輩は、懐から司教の手紙を取り出した。そこにはサジェッサらに対する礼と、自身の事は気にせず、信仰と人々の為に力を尽くすよう記されていた。正しい行いを神は必ず見ており、サジェッサらが人々の模範となる働きをすれば、必ず報いがあるだろうという言葉で締めくくられていた。


「サジェッサが司教様をお助けしたい気持ちは分かる。だが今私たちが騒ぎ立てたところで、あの方のお立場をより悪くするだけだ」

「分かった……でも、いつか必ずお師匠様の疑いを晴らしてみせる」

「ああ。必ずそうしよう」


 サジェッサは師の説諭に従い、日々の勤めへと戻っていった。自身の行いが師の名誉を回復する助けになると信じて、より敬虔に働き、慈愛をもって信徒に接した。その働きは赴任先の人々にも知れ渡り、一年もたつと、彼の名声は大いに高まっていた。


――今なら、お師匠様の疑いも晴らせるかもしれない。


 わずかな希望を見いだし始めたその時、それを打ち砕く知らせがサジェッサの許に届けられた。


「そんな、そんな」


 ドミニコ司教、客死。異国の地で師が命を落とした事を短く伝える手紙であった。


「神よ。何故、何故お師匠様をお救い下さらなかったのですかっ! あの方ほど、貴方に忠実な者はいなかった!」


 膝を突き、天に叫ぶように問いかけるサジェッサに、神からの答えは返ってこなかった。騒ぎに気付いた修道院の者達が半狂乱となった彼を取り押さえた後も、悲痛な叫びを上げ続け、薬で眠らされるまで止むことはなかった。

 修道院のベッドで目覚めたサジェッサは、看病をしてくれていた者に言葉少なに礼を言うと、無言のまま自室へと戻っていった。扉を閉め、そのままそこに力なくもたれかかる。


「神は、何も見ていない」


 サジェッサの心に、師との思い出が蘇る。雨に打たれ、冷え切っていた身心を抱きしめてくれた暖かな手。教会のために懸命に励むサジェッサを見込み、様々な学問を教えてくれたのも師だった。その慈愛は無私であり、その行いは教会が最も尊いとたたえるものだった。


「神は、何も報いない」


 その師は俗物の奸計に嵌まり、何もかも失って異国の地に去った。師を知る者達が残された言葉に従い、神に忠実に尽くそうとも、与えられたのはさらなる悲劇だけだった。


「神は……神などいないっ!」


 サジェッサはそう吐き捨てると、自らの首に掛けていた紐を力任せに引きちぎり、祈りのキアーヴェを投げ捨てた。


「証明してみせるぞ、全てがまやかしであると。この偽りの家の頂点に立ち、貴様などいないと明らかにしてみせるっ」


 神を信じぬものが教皇となる。それこそが神の不在を証明する。優しき青年は狂気に囚われ、復讐の道へと足を踏み入れた。



「異端審問所総長として宣告する。ライネガルド王国辺境伯エリザベート・クラネッタ、及び元教皇庁使節団団長ルチアを異端として認定する! 汝ら異端討伐軍は神の兵としてこの両名を捕らえ、聖都へと連れて参れ」


 羊皮紙を広げ、枢機卿サジェッサが聖堂の壇上から宣告を行った。その前に並んで跪くのは、傭兵隊長バルトロ、そして聖騎士団長ジュストである。共に初老に差し掛かった二人だが、その気質は大いに異なっていた。


「りょーかい。久しぶりのでかい稼ぎだ」

「……承知いたしました」


 軽薄な答えを返したバルトロにジュストは非難めいた視線を送るが、歴戦の傭兵隊長はどこ吹く風といった様子で立ち上がり、自陣へと戻っていった。ジュストも退出して聖騎士団の拠点へと足を向ける。


――本当に、良いのか。


 道すがら、ジュストは繰り返し今回の出兵の是非について考えていた。エリザベート・クラネッタと直接相見えたことはなかったが、民に慕われた領主であるという評判はこのパスティアまで聞こえてきている。

 今回の宣告の原因となった帝国との誓約も、元はと言えば異端討伐軍への参加を強要された辺境伯がやむなくとった手段である。枢機卿は帝国側に偽りを吹き込んだとエリザを糾弾したが、教皇庁の内部事情を知る彼からすればその面の皮の厚さにあきれ果てる他なかった。


――だが、私は教皇庁の騎士だ。


 その裏に枢機卿の恣意があったとしても、一度正式な命令が下されてしまった以上、それに従うことこそが聖騎士団のあるべき姿である。ジュストは若き乙女達に密かに同情しつつも、出兵の意志を固めていた。



「いよいよだ。皆、準備は出来ているな」


 帝都ファルンでの謁見の後、いくつかの用を済ませた俺達は領都ナンシスへと戻っていた。

 帰路に掛かった日程も考慮すると、既に帝国と辺境領が誓約を交わした事が枢機卿の耳にも届いている頃だろう。早ければ二月足らずで討伐軍が差し向けられる。

 俺の言葉に執務室にいた重臣らは頷き、それぞれ報告を行い始めた。


「クロード」

「はい。伯爵様。王国との調整は、ロジェ宰相閣下を介して完了しております。又、宰相領より荷馬車を必要数借り受けております」

「よろしい。グレゴリー、ベルナール……」


 次々に受ける報告を、エミリー、セシールの補佐を受けながら捌いていく。新たな指示を受けた者は忙しなく飛び出していき、最後に残ったのは俺とエミリー、そして修道女ルチアだけだった。


「ルチア」

「はっ、はい!」

「君に一つ頼みがある」

「……なんなりと、お申し付け下さい!」


 戦支度に奔走する他の者達を目の当たりにしたためか、ルチアは緊張しきっていた。それでも俺が声を掛けると、殉教者を思わせる覚悟を決めた表情に変わる。


「歌を、教えてはくれないか。パスティア語の讃美歌を。それが、枢機卿との最後の戦いに勝利をもたらす鍵となるだろう」


 辺境伯としての初陣、そしてこの世界が未だ体験したことのない戦いが、間近に迫りつつあった。

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