第40話 帝都
帝都に『西方領』の幼き領主が来る。ここ数日、帝都ファルンに流れる噂はその話題で持ちきりだった。
大戦の後、両国間で高位の貴族の往来が失われて久しい。休戦中とはいえ、仮想敵国と見做す相手の懐に飛び込む行為はあらぬ疑いを受けかねない為だ。
公使を除けば数十年ぶりという事態。更には帝国臣民が奪還を心待ちにしている西方領の領主である。様々な憶測が飛び交うのも無理のない事だった。
「親善訪問と聞いたが、本当にそれだけかね」
「まさか! そんな事だけの為にわざわざ来るものか。皇帝陛下のご威光が、ついに西方領にも届いたんだ。自ら臣従を願い出てきたのだろうよ」
「それこそ早計だ。俺は知り合いの商人から聞いた事がある。何でもその姫君とやらは、あっちの王子に偉く気に入られてるって話だ。お后候補の一人だとも聞いたぞ」
「だとしたら……」
街角で、井戸端で、酒場で。噂は絶え間なく続けられた。姫君エリザベートの存在は帝都の童すら知るところとなり、人々の目は宮殿へと向けられた。
◇
「決して拝謁をお許しにならぬよう、伏してお願い申し上げます」
その宮殿の執務室で、諜報部隊長オスヴァルは報告と進言を行っていた。その目元には疲労の陰がうっすらと浮き出ている。
エリザベートが領都を離れた事は把握していたが、帝国に乗り込んで来るとは思いもよらぬ事態であった。先手を打たれた遅れを取り戻そうと、不眠不休で馬を駆け、つい先ほど舞い戻ったのである。
「急ぎの知らせ、ご苦労だった。だが、少しばかり遅かった様だ」
女帝、ジュリエット・カールスはおもむろに立ち上がり、執務室の窓を開ける。生ぬるい風と共に、帝都の喧噪がかすかにオスヴァルの耳に届いた。
「すでにあの者の来訪が、都の至るところで噂されている。まだ帝都にも着いていないというのにな」
「まさか……」
異常な速度での噂の拡散に、彼は自らが得意とする情報工作を行われている事を悟った。
お株を奪われたオスヴァルが歯ぎしりをしていた頃、帝都の正面口と呼ぶべき大門に、軍馬にまたがった先触れが到着し、辺境伯の来訪を大々的に宣言した。
◇
――ここまでとは。
先触れが到着してから三日後の昼頃。俺達はついに帝都入りを果たした。
首を直角にして見上げる程の威容を誇る大門を抜けると、目の前が開けるような幅広い大通りに出た。通りはまっすぐに帝都を貫き、遙か彼方の宮殿へとつながっている。
大通りを進む馬車は幾分か速度を落としつつも、軽やかな走りを保っていた。煉瓦が整然と敷き詰められた舗道と、所々で行われている交通整理のおかげだ。
最初は客人を迎える為かと思っていたが、抵抗なく従う人々の様子から、日常的に行われている事が分かった。
道なりに並ぶ建物も、ライネガルド諸都市より遙かに洗練されている。驚いた事に、階層こそ低いもののデパートとおぼしき施設すらあった。
1階にはショーウィンドウが設けられ、デザイン豊かな洋服が飾られている。ライネガルドでは滅多に目にする事の無い中東風の衣装もあり、帝国の広さと富力を感じさせた。
目にするほとんどのものが、こちらの想定を超えている。驚きを顔に出さぬよう留意しつつ陪乗するルチアの様子を窺うと、窓にかじりつき、次々と変わる色鮮やかな町並みに目を奪われていた。
帝都に入る前は緊張で身構えていた彼女だったが、それすら忘れさせるほど衝撃的な光景なのだろう。
「どうだい。帝都の感想は」
「へっ!? あっ、失礼いたしました! む、夢中になってしまって!」
「無理もないさ。大陸一の都と自称するだけはある。来て良かったよ」
あえてさもありなんと頷き、俺は内心の動揺を押し殺すことに成功した。
――自ら目にし、判断することが肝要、か。本当だね。爺さん。
前世の祖父、穂積 誠一の
「報告によると、謁見は数日後の様だ。宿で荷ほどきをしたら一緒に帝都を見て回ろう」
「はい! ありがとうございます!」
「それと、ルチア待望の美味しいものもね」
「もうっ! またそんな事を仰るのでしたら、伯爵様の分まで食べてしまいますからっ」
カールス行きを告げた時の様な冗談を言い合いながら、俺たちは宿へと馬車を走らせた。こうして安全に足を踏み入れる事が出来るのは、おそらく今回が最後だろう。そう考えると、ただ宿に籠もって時を待つ事など俺には出来そうに無かった。
◇
ルチア、エミリーを連れた帝都の見学は、さらなる驚嘆を俺たちにもたらした。主たる区画には上下水道が設けられ、先に目にしたデパートの中では簡易な水洗便所すら設置されていた。道ばたに汚物もなく、徹底した衛生管理がなされている。
クラネッタ家の所領であるアミーンやナンシスにおいても、屎尿回収など疫病対策(兼火薬精製の原材料集め)は実施されている。しかしこれほどまでに大規模な施策を行うとなると、クラネッタの技術と財をもってしても数年の歳月を要するだろう。
この大工事を、女帝ジュリエットは僅か二年で成し遂げたと聞き、これから会う相手の底知れなさを垣間見た気がした。
歩き回って少々疲れを覚えた俺達は、デパートの最上階に出店していたカフェへと立ち寄った。上層階にこういった飲食店を出店する事ができるのも、上下水道が有るからこそなのだろう。
井戸から水を汲み上げるのが基本である他の地域では考えられぬ構造だ。仮に桶で必要量の水を運び込むとしたら、どれだけの労力がかかるか知れない。
「二人ともあまり実感が湧かないかもしれないけれど、これはとてつもない業績だよ。井戸は枯れることもあるし、土地の影響を受けやすい。例えば海に近ければ塩辛かったり、土地が汚染されていたら有害なものが溶け出したりね。水道も完璧ではないが、衛生面では比べるまでもない。素晴らしいね。帝国の女帝は」
「そうそう。貴女! 分かっているね!」
同席するルチアとエミリーに水道の有用性を語っていた所、突然同意の声が掛けられた。声のした方角へ目をやると、少し離れた席から、短い金髪をした美少女が嬉しそうな笑みを浮かべながら近づいてくる。少々くたびれてはいるが上質さを感じさせる深緑色のチュニックを身にまとう姿に、男装の麗人という言葉が頭に浮かんだ。
「失礼。お騒がせをいたしました」
「ああ! いや、こちらこそ急に声を掛けてごめんね。うるさくなんてなかったよ。不思議な組み合わせだからつい気になって耳を傾けていたんだ」
警戒して腰を浮かし掛けたエミリーを手で制し、席を立って謝罪すると、少女は慌てて首を振った。癖っ毛なのか、整えていたであろう髪先が何カ所か跳ねる。
「不思議な?」
「お嬢様にシスターにメイドだなんて、なかなか見る組み合わせではないよ」
「なるほど。確かに目立ちますね」
「でしょう? ってそれよりも!」
少女は俺の手を包み込むようにとり、濃い藍色の瞳を輝かせた。
「私はハイデマリー。ねえ! 貴女のお名前は?」
「私はエリ……エリーと申します」
あまりの勢いについ本名を口にしそうになったが、とっさにあらかじめ決めていた仮名を名乗る。帝都の中で襲われることはないだろうが、面倒ごとを引き起こさないために決めておいたのだった。
「エリー……良い名前だね! よろしく!」
「よろしくお願いします。ハイデマリーさん」
「さん、だなんてそんな他人行儀な言い方をしないで。私たちはいわば同志なんだから」
「失礼。同志、とは?」
「それは勿論、陛下の素晴らしさを知る仲間、という意味でよ!」
ハイデマリーは俺の手を握ったまま語り出す。女帝に心酔しているらしく、熱っぽい語り口だ。しかしながら要点を押さえた解説は、この少女がただの熱狂的な信奉者ではないことも表していた。
「カールスの臣民は皆陛下を慕ってはいるけれど、あのお方の素晴らしさをちゃんと分かっている人は少ないんだ。エリーが話していた水道も、便利になったと位にしか考えていない。貴女は凄いよ。帝都に来たのが初めてなのだろうに、すぐそれに気付くなんて」
「ありがとう、ハイデマリー」
「ねえ、もしよかったら――」
ハイデマリーが俺になにか誘い掛けようとしたとき、九時課(午後三時)の鐘が鳴り、彼女はしまったとばかりに顔を青ざめさせた。
「ごめん! そろそろ仕事に戻らなくちゃ! また会いましょう!」
「ええ、またいずれ」
「私、宮殿に勤めているの! 兵の詰め所に名前を言ってくれれば取り次がれるから!」
そう言い残すと、ハイデマリーは慌てて会計を済ませていった。
「宮殿勤めの者でしたか……」
「杞憂だよ、エミリー。本当に彼女がそうならもっとうまくやる」
脇に立ち、少し目元を険しくしたエミリーが彼女の去った出口を見つめる。間諜ではないかと警戒した様だったが、先ほどの言動を思い出したのか徐々に表情を和らげた。
「さあ、お茶の続きとしよう。あの子にこれ以上のお預けは酷だろうし」
「ふふ……そういたしましょうか」
行儀良く座って待っているが、テーブルに供された焼き菓子の皿をちらちらと見るルチアの様子をクスリと笑い合うと、俺たちも席へと戻った。
偶然の邂逅。また立場も異なるハイデマリーとは、もはや会うことはないだろうとこの時は思っていた。しかし運命のいたずらとでも言うべきか、後に思わぬ形で俺たちは再会することとなる。
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