第38話 暗躍
ライネガルドとの国境に最も近いカールス帝国の都市、ザール。西にライネガルド、北に帝都ファルンへと繋がる交通・交易の要衝である。
古くから栄えていた都市だが、七十年前の大戦時に規定された国境線によってカールス側の最西端の都市となったため、その重要度は否応なしに増大した。都市は常備兵を収容するために拡張を繰り返し、軍需を見込んだ商人達も又、この都市へと移り住んだ。和平が数十年続いた事で、その供給は隣国との取引にも用いられる事となり、今もなお発展を続けている。
五月下旬。そこに帝国諜報部隊長オスヴァルの姿があった。皇帝ジュリエット・カールスの命により、国境を挟んだ先にあるクラネッタ領へ探りを入れるためである。彼が都市入りをしてから、およそ三ヶ月が経過しようとしていた。
オスヴァルはとある商会の一室を拠点としていた。あまたの商会がひしめくザールでも五指に数えられる規模を持つその商会は、帝国の諜報機関としての一面を持ち、隣国の最新情報を彼の許へと届けている。
彼の向かう大きな机には、今日も報告の羊皮紙が、常人ならば目眩を起こしそうな程に大量に積み上げられていた。これは、オスヴァルの指示であった。選別された情報のみでは諜報に必要な情勢の機微を捉えにくい。その為に一次情報に必ず目を通すのが彼のやり方だった。
一見非効率に思える手段だが、彼の常人離れした処理能力と情報の真贋を見抜く判断力に支えられ、帝国諜報部は多大な功績を上げ続けていた。
半刻も過ぎると、机の上にあった報告書の山は消え去っていた。僅かに震える彼の両手で広げられた一枚を残して。
「……これは!」
そこには、一つの噂話が記されていた。良好だと考えられていた教皇庁とクラネッタが、微妙な緊張関係にあるというのである。
エリザベートを賞するとライネガルド王へ謁見を行ったパスティアの使者が、約定を結ぶ訳でもなく、逃げるように帰ったという報告も上がっていた。何らかの要求を教皇庁、あるいは枢機卿サジェッサが行い、断られたとも考えられる。
――前もって王家にも手を回していたか。あり得る事だ。
直接対面したことはないものの、オスヴァルは次々に届けられる彼女の情報、そして以前エドモン・ユンクを傀儡として対決した経験から、その人となりを掴みかけていた。
民草への心の砕きようから、エリザベートは慈愛に溢れた領主であるという印象を抱かせる。だが、その内面には不条理を許さぬ激しさがあるとオスヴァルは見ていた。
宰相邸での騒動や、謀略を仕掛けてきたエドモンへの周到な反撃を鑑みても、ただのお人好しではない事は明らかだ。伝え聞いた審問会における立ち居振る舞いも、幼い見かけからは想像出来ない程堂々たるものであったという。
――奴ならば、決して理不尽な要求を呑むことは無いだろう。
それは、確信に近い予測であった。それでもオスヴァルは昨年の苦い敗北――自身のエリザベートへの評価の甘さによる調略の失敗――を思い出し、報復にはやる心を抑える。
彼は商会長を呼び、自身の考察を述べた。そして教皇庁との隔たりが真であるかの詳細な調査と、同時にそれを広げる為に工作活動の開始を指示した。
◆
少年、サジェッサが師に引き取られてから、既に五年が経過していた。
当初は素性の知れぬ彼を見習いとさせる事に、連れて行かれた教会でも難色を示す者達がいた。師が教会の管理者であり、司教という立場でなかったら、彼は再び雨の中に放り出されていたかもしれない。年若い少年と言うこともあり、司教の隠し子か稚児かと憶測を語る者もいた。
サジェッサの新たな生活は、そのような逆風の中で始まった。しかし、色眼鏡で見られながらも彼が歪むことはなかった。彼自身が、司教の慈愛と真心が本物であると理解していた為である。
好奇や不審の目など気にせずに、彼は教会に尽くし、敬虔に祈りを捧げ続けた。その甲斐あって、青年となった頃には周囲の疑いも晴れ、信を置かれるまでになっていた。司教もまた、サジェッサの信心が真実のものであると感じ入り、彼に様々な教えを授けていた。
「お師匠様!」
「おんや、サジェッサ。どうしただ」
呼び声に、庭の植物に水をやっていた男――司教が顔を上げ、訛りの強い言葉を返した。
中庭の入り口に立つサジェッサの背は、成人と同等の高さまで伸びていた。だがその興奮冷めやらぬと紅潮した顔は、まだ年相応の若々しさを残している。彼は小走りに司教の許まで近づくと、固く握りしめていた羊皮紙を誇らしげに広げた。
「やりました! 見て下さい!」
「どれ……おお! ようやった!」
司教は手を止めてそれをまじまじと見、驚きにほっと息を吐いた後に喜びの声を上げた。羊皮紙にはサジェッサの見習い期間の修了と、正式な修道士への辞令が記されていた。
「お師匠様のおかげです」
「いんや、儂はなんもしてねぇ。お
「ありがとう、ございます……」
通常よりも早い認可である。彼の日頃の修練により、師以外からも多数の推薦を得られた為であった。師の目の端に光るものを見て、サジェッサの瞳にも熱いものがこみ上げてくる。師弟は行いが報われた事を共に喜び合った。
サジェッサは修道士として地方へと出向する事となった。修道士達は各地で経験を積み、その中でも優秀な者が中央の教皇庁へと迎え入れられる。再び栄達への第一歩を踏み出したのだが、このときの彼は祈りの生活が続くことを純粋に喜んでいた。
「気をつけてな。風邪引くんでねぇぞ」
「はい! お師匠様こそどうかご自愛下さい」
「困った時は、いつでも
出立の日。教会の門前で司教はサジェッサを抱きしめ、優しく背中を叩いた。弟子の門出であるために、その服装も正式な司教の祭服に着替えている。だが、抱きしめられるとどこか柔らかな土の匂いがし、サジェッサは師の許で過ごした日々を思いだして目を赤くした。
見送りにきた他の者達にも礼を述べ、彼は再び師と向き合う。
「では、行って参ります!」
「おう、きぃ付けてな」
師が口にした別れの挨拶は、気取りのないものだった。再び会える。サジェッサがそう信じて疑わない程に。
◆
六月の下旬。教皇庁の深部にある礼拝堂で部下の報告を聞きながら、枢機卿サジェッサはままならぬ状況に苛立ちを募らせていた。エリザベート・クラネッタが想像以上の難物であった為である。
今まで彼女を従わせるべく行われた試みは、悉く失敗に終わっていた。少し前に使節団から届けられた報告で、辺境領が動員に耐えうると言う証拠を得る事は出来た。
しかし、朗報といえるのはそれだけだった。ライネガルド王家から言質を取り、言い逃れに使われた臣下の立場を失わせる策は、王太子に討伐軍の対象を表明できぬ事を突かれて頓挫した。思わぬ伏兵による失敗は、宰相の不在を狙った謁見が上手くいっただけに大きな失望を枢機卿にもたらした。
強兵として名高い聖騎士団を抱え、莫大な富から大規模な傭兵も動員出来るパスティア教国でも、単体では帝国と事を構えることは出来ない。クラネッタ、そしてライネガルドを利用して初めて勝利が見えてくる。その認識は、サジェッサを含む教皇庁上層部の共通認識であった。
教皇庁の勧告を無視して、信教を同じくするグラーツ王国を滅ぼした帝国を批難することは出来る。しかし勝率の低い今はまだ、明確な敵対は避けなければならなかった。
「クラネッタさえ従えさせられれば……」
部下をさがらせ、枢機卿は独りごちる。その声には焦りが含まれていた。サジェッサ自身の工作によって得た異端討伐の密勅は、成功を収めれば帝国のもつ広大な所領を教皇庁の管理下に置くことが出来、それを主導した彼の目指す最終的な地位をも約束するものとなる。だが果たせぬ時には逆に足かせにもなる諸刃の剣であった。
「急がねば、ならぬ」
ふしくれの様に細い手で胸元の法衣を握りしめ、サジェッサは苦しげな呟きを漏らす。彼にはもうひとつ、自らを急かす要因があった。実の父親の命を奪った心臓の病。その父親が亡くなる前と似た変調が、彼の身体にも表れ始めていた。
しばらくその場で枢機卿が休んでいると、先ほどとは別の部下が新たな報告――クラネッタに関する密告を持参した。不調から気怠げに報告を聞いていたサジェッサであったが、その内容が今までとは異なることに気付くと顔色を変える。
「その密告はどこから得られたものか」
「クラネッタと隣接する、ザールの教区を介してにございます。教会に出入りする商人達から得られたものです」
「ザールか……」
その答えを聞き、サジェッサは密告の裏に潜む影をおぼろげながら理解した。それでもクラネッタを跪かせる好機であると、彼は直属の配下、審問官の派遣を命じる。
「クラネッタに密告の内容への申し開き、その証明としての討伐軍への従軍を求めよ」
「もし、要求に従わなかった場合は……」
「貴様も知っていよう。異端はどこにでもあらわれるものだ」
部下の問いに、サジェッサはそう言葉を返した。
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