第34話 将星
エリザがパスティアからの帰路を急いでいた頃、カールス帝国諜報部隊長オスヴァルは足早に歩みを進め、宮殿の奥へと向かっていた。
普段ならばあまり目立たぬよう、緩やかな速度で歩く。だが部下から届いた一報は、それを忘れさせるほどに焦燥を駆り立てるものだった。
日もまだ高いため通路で多くの人とすれ違うが、誰もオスヴァルを見とがめることはない。それどころか貴族、使用人問わず脇にそれて道を譲っていく。それは、彼の表の職業に起因していた。
今オスヴァルが纏っているのは軍服ではなく、くるぶしまで丈がある紺地の長チュニックである。皮の帯で締めるそれ自体は宮廷人としてはありふれたものだ。しかしその上に羽織った、赤い裏地をした白絹のマント――皇帝直属の秘書官の証――が彼の地位を明確に表していた。
皇帝の耳目である彼らを妨げる者がいようはずもない。程なくして執務室に到着したオスヴァルは、人払いの後に報告を開始した。
「焦ることはない」
エリザベート、サジェッサ枢機卿と対面す。その知らせはオスヴァルをしても動揺を誘うものだったが、若き女帝ジュリエット・カールスはそう一言呟くだけであった。
その泰然たる態度は跪くオスヴァルの焦りを静めたが、それでも彼は諜報部隊長の責務として、あえて危惧する所を述べた。
「ですが、見過ごす訳には参りません。陛下を敵視する枢機卿に、クラネッタの軍事力が合わさっては一大事です」
反帝国を露わにしているサジェッサ枢機卿の動向は、帝国がレムリアに送り込んでいた間諜によって逐一報告されていた。その報告は迅速なもので、エリザとの対面から十日と立たぬうちに帝都ファルンへと届いている。
伝書鳩を用いた連絡網によるものだ。文面は注文書などに偽装されており、万一他者に渡っても解読は困難なものとなっている。商人の国でもあるパスティアでは一般的な連絡手段なだけに妨害も無く、彼の国に関する情報はいち早く帝都にもたらされていた。
「今後、両者の関係が深まるやも知れません。なにとぞ、私めに調査のご許可を」
「よかろう。動きがあるとすれば西方領内。汝の庭だ。存分に調べ上げるが良い」
「はっ!」
再び頭を下げ、感謝の意を表した後、オスヴァルは皇帝の執務室を退いた。旅支度に向かう彼の足取りは、凪いだ湖面のごとき静けさを取り戻している。されどその心中は、その姿とは裏腹に先年の雪辱を果たさんと激しく燃え立っていた。
◆
一週間後の昼。西にトリニア山脈が連なるカールス帝国南部の平原において、二つの軍が南北に分かれて睨み合っていた。
南側の軍は、かつてこの一帯を治め、昨年帝国に併呑されたグラーツ王国の貴族連合軍だ。武装した農民兵を中心とした本隊と、両翼を騎士で構成された軍は一万を越える規模の大軍であった。
対して北側の僅かに高い丘に陣取っているのは、帝国の討伐軍である。陣形は前者と似ていたが、その装備と兵数は大きく異なっていた。
歩兵は黒一色の軍服に統一され、騎士もまた、貴族連合軍が装備しているような
黒地に黄金の
その本陣で、ひとりの老将が馬上から戦場を俯瞰していた。
鈍く銀色に光る
短い髪と整えられた口髭は雪のごとき白さで、かなりの高齢であることが分かる。だが、彼らや周囲を守る兵達から向けられる視線に不安や侮りの色はなく、確かな信頼と尊敬が込められていた。
多くの視線に晒されても微動だにしていなかった老将だったが、相手の陣の一角をみてその鳶色の目を一瞬だけ細めた。
「釣れたな」
「我らが兵数を見て勝機有りとみたのでしょう。元帥閣下」
「うむ、だからこそあのように功を焦る者が出てくる」
傍に控える武将から元帥と呼ばれた老将、ヴァルターは、低く重々しい声を上げながら連合軍の右翼を指す。貴族達の旗印が動き、帝国軍の側面に回り込もうとしているのが見て取れた。それに僅かに遅れて左翼、中央の本隊も連動して動き出す。
連合軍の戦略は明らかだった。先に騎士が数に劣る帝国の両翼を潰し、そのまま左右から中央の歩兵になだれ込む。敵正面の抵抗が弱まれば、本隊が進出して止めを刺す。数を恃みにした戦術であったが、決して間違いではなかった。それが、帝国軍の思惑通りでなかったら。
「甲冑騎兵、迎撃せよ」
ヴァルターの指示に対応し、角笛が高らかに鳴り響く。その間にも連合軍の騎士は馬蹄が地を打つ音を轟かせながら接近していた。帝国軍を包もうとするその動きに対し中央から矢が射かけられるが、側面を疾駆する馬にそうそう当てられるものではない。難なく帝国軍の騎士と肉薄した両翼は、倍する兵力で相手の機動力を奪おうとし――瞠目する事となった。
鎧で、武器を受け止められたからだ。全身を包む帝国軍の鎧には隙間がなく、連合軍の騎士が繰り出す槍や剣を容易く弾いた。反対に、帝国軍の攻撃は鎖鎧、あるいは一部のみ鉄板で覆った小札鎧を貫き、騎士を馬上から叩き落とした。みるみる内に両者の戦力差は縮まっていく。
「長槍兵、構え。長弓兵は敵の第一波が丘の中腹まで接近したら斉射を開始せよ」
想定とは違う展開に焦った連合軍は、本隊を中央に進出させる。しかし、陣に近づく前に弓隊の猛射を浴び、辛うじて矢の雨を逃れた兵士達も、待ち構えていた長槍の餌食となった。中央に配置されていた少数の騎士がその突撃力で突破を試みるも、頑丈な馬防柵に勢いを殺され、兵士達と同じ運命を辿った。
「頃合いだ。ハイデマリーに合図を」
連合軍の進軍は完全に止まった。それと同時に帝国の本陣から赤い煙が上がる。何事かと警戒する連合軍本陣であったが、突如背後に沸き起こった怒号と悲鳴で、その意味を知ることとなる。
「強襲騎兵隊、突撃! 皇帝陛下に仇なす賊徒どもを討ち果たせっ」
軽装の鎧に身を包んだ少数の帝国軍騎兵が突如として現れ、本隊の後背を突いたのだ。先頭で駆ける小柄な騎兵――驚くべき事に少女である――が馬上弓を手にそう叫び突撃する。そして彼女の馬が全速で駆け抜けた敵陣には、兜の隙間から頭蓋や喉元を射貫かれた敵将の姿があった。
この奇襲は辛うじて統制を保っていた連合軍本隊を完全に瓦解させた。四散して逃げ出す連合軍に対し、敵騎士を撃滅した帝国騎士が追いすがり、次々に討ち取っていく。夕刻になる頃には連合軍の主立った者は捕らえられるか討ち死にし、兵も皆降伏していた。
◆
「ただいま。終わったね。師匠」
「ハイデマリーか」
降伏した将の引見を終え、帝国軍元帥ヴァルター・フォン・シャルンホルストが自身の天幕に戻ると、ぼさぼさの金髪をした少女、ハイデマリーが訪れてきた。彼女は慣れた様子で中に入ると、そのままドサリと床の敷物に横たわる。
「あー、気持ちいい」
「おまえには専用の天幕が用意されているだろう。そこで休みなさい」
「やだ。あっちの敷物固い。こっちは柔らかくて暖かいのだもの」
そんな理由にもならない事を言いながらハイデマリーは敷物に頬ずりし、黒に近い、藍色の瞳を細めた。
整った顔立ちと引き締まった身体を持つ美少女だが、肩の辺りで適当に切られた髪といい、だらけた態度といい、色気というものを感じさせない少女である。
その様子をあきれ半分でみながらも、ヴァルターは彼女を追い返したりはしない。
「今日は良くやってくれた」
彼女の傍に腰掛け、手甲を外した手でぐりぐりと頭を撫でた。軍人らしい無骨な手つきで、十七の少女に対するいたわりには不適に思える。それでもハイデマリーは心地よさそうにされるがままになっていた。
「今回は簡単だったよ。あの貴族達、近辺にしか偵察を出していなかったから」
霞のごとく現れたかに見えたハイデマリー率いる強襲騎兵隊は、連合軍と対峙する前から帝国軍本隊を離れ、長駆して背後に回り込んでいたのだ。
「そうか。だが今回上手くいったとはいえ、油断はするなよ」
「分かってるよ。師匠。常に最悪を想定せよ、だよね」
「ああ、されど臆するな。皇帝陛下のお言葉だ」
「うん。でも上手くいって良かった……陛下は、喜んで下さるかなぁ」
「そう、だな。そうだと良いな……」
ハイデマリーの呟きに明確には答えず、ヴァルターはただ頭を撫で続けた。
◆
「元帥閣下! 帝都から指令が届いておりますっ」
完全に日が落ちた頃、天幕の外から伝令の声が響いた。まだハイデマリーは中で横になっていたが、声を耳にするとすかさず身を起こし、威儀を正した。驚くべき変わり身の早さだ。
師弟ではあるものの、公式の場では元帥と将軍。こういった分別があるだけに、ヴァルターは二人きりの時はつい孫娘のように甘やかしてしまうのだった。
「……入りたまえ」
「はっ! 失礼いたします!」
ヴァルターが入室の許可を与えると、緊張した面持ちで若い伝令が天幕の布をめくって入ってくる。彼はそこにいたハイデマリーに少し意外そうな顔をするも、本来の責務を思い出したのか元帥に向き直り、膝を突いて報告を始めた。
「反乱鎮圧が終わり次第、急ぎ帝都に帰還せよとの事。ハイデマリー将軍にも同様の指令が届いておりますっ!」
帝国の影が、再びエリザの足下に忍び寄ろうとしていた。
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