第35話 揺れる心
孤児院の教室に、清らかな聖歌が響く。楽しげに歌っているのは修道女ルチアであった。
机を脇に除けられた教室の中心で歌う彼女の周囲には、小さな子供達が集まっていた。いつもは騒がしい彼らも、今はその歌声に聞き惚れている。周囲を黙らせるほどの可憐さが、彼女の歌にはあった。
歌が終わる。そしてルチアがお辞儀をすると同時に子供達が歓声を上げ、彼女の許に駆け寄った。
「ルチアねーちゃん、すごい!」
「もっと、もっと歌って!」
子供達に続きをせがまれ、今度は彼らと一緒に歌い出す。その表情は柔らかなもので、彼女が心から楽しんでいることを示していた。
「いつもありがとうございます。ルチアさん」
「いえっ、私も好きでやっていますから!」
遊び疲れた子供達が昼寝を始めた後、孤児院の運営を行っている老シスターはルチアを事務室に通し、温かなハーブティーを出して労っていた。
「それでも、感謝しています。貴女が来られてから、新しく迎えた子供達も今まで以上に笑うようになりました」
「それは、よかったです」
辺境伯エリザベートの庇護下にある子供達は、他の孤児と比べて遙かに恵まれた立場にある。しかし皆、様々な理由で親との別れを経験した者達だ。自らの身の上から、初めはなかなか心を開かない子もいる。その頑なな心を歌によって解きほぐしたといわれ、ルチアは照れくさそうに薄く頬を染めた。
「歌は、支えになります。私も、孤児でしたので……」
「そうでしたか……」
ルチアは、数年前の事を思い起こしていた。貧しい孤児院の生活。飢えと、先の見えない不安の中、唯一の慰めであった歌の事を。
「これも、主神パスティアのお導きでございましょう。このナンシスの地に、あの御方と貴女を遣わして下さったのも」
手を合わせ、祈りと共に老シスターが口にしたその言葉に、ルチアは目線を僅かに落とした。連れられてではなく、自らここに来た、最初の目的を思い出して。
◆
ルチアはエリザベートの傍に侍り、その動向を報告する役目を枢機卿から密かに与えられていた。同時に、何か信仰に反すると見なせる行いがあれば、その証拠の収集を行うのも彼女の役割であった。それを盾に取って、帝国に対する討伐軍への参加を『交渉』するためである。
他の調査員は遠方に追いやられたが、目論見通り幼いルチアはエリザの許へと留まった。
それでも当初は警戒されていたようだったが、彼女だけでは出来ることも少ないと考えられたのであろう。エミリーや他のメイドといった監視すら付かない時もあった。
行動の自由を手にし、ルチアは領館の様々な所に顔を出した。その愛くるしさと素直な態度はいずれの場所でも歓迎され、彼女は多くの情報を手に入れた。ここまでは、いつも通りの流れであった。
しかし、エリザベートの事を知れば知るほど、ルチアは困惑する事となった。聞こえてくるエリザの評判は良いものばかりで、枢機卿のいう『交渉』の材料となるものが見つからなかった為だ。
後ろ暗い部分のない権力者などいない。神に仕えし枢機卿ですら自身のような間諜を使っているのだから。そう考えていたルチアは領館外にも足を伸ばし、調べを進め始めた。その先が、孤児院だったのである。
◆
(だけど、それも)
エリザベートが人々に強く慕われている事を知るだけとなった。今までにない結果に動揺したルチアは、孤児院に最早来る必要など無いのに足繁く通うようになっていた。歌っている時は余計な事を考えずに済むし、自身と同じ孤児達が喜ぶ姿は、彼女の密かな慰めとなっていた。しかし、もうそのような事をしていられる時間もあまり無くなってきている。
「いただきます」
再び顔を上げたルチアは、用意されたハーブティーを口にする。爽やかな口当たりから、喉に良いとされるハーブが使われている事が分かった。前回来たときには無かったものだ。
「どうでしょう。お口に合いましたでしょうか」
「ええ、とても。ありがとうございます」
その心遣いが、ルチアの胸を密かに締め付けていた。
◆
「ルチアが、子供達に歌を?」
「はい。丁度昨日もいらっしゃいました。とても美しい歌声をお持ちです。伯爵様も今度是非お聴きになってください」
「ああ、彼女の独唱は聴いたことが無かったな。来ると分かったら知らせてほしい」
「勿論でございます。伯爵様もいらっしゃると聞いたら、子供達も大喜びでしょう」
孤児院への視察――実際には子供達の遊び相手という面が強いのだが――のおり、老シスターからルチアの話を聞き、俺はますます彼女の事が分からなくなっていた。
地方に飛ばした修道士達は、予想されていた聞き込みなどは行っていたものの、得るものが無いと分かったのか、最近は怪しげな動きを見せていない。むしろ一番動きがあったのが、監視を『耳』へと切り替えていたルチアであった。
女子供でも間諜に使われる事はあると、セシールの助言で始めた措置だ。わざと泳がせることで確かにルチアの動きを捉える事は出来た。しかし、
――杞憂ではないのか
とも考えてしまう。昨今のルチアの行動からは、間諜らしき行いは失われている。一部の機密を除けば、隠すものは殆ど無い我が身だ。調べあぐねている可能性もあり得る。だが、そうだとしても孤児院では無く、他に足を運ぶ事は出来るだろう。
それを行わない理由が、俺には分からなかった。同時に彼女への疑惑が本当に杞憂であってほしいとも思い始めていた。
ルチアは、子供達に良くしてくれている。彼らは自らに向けられる気持ちに敏感だ。私への思いは分からないが、少なくとも子供達への好意は本物なのだろう。
――しかし、そうだとしても
彼女が辺境領に害を及ぼせば、俺は対処せざるを得ない。最早この身はただの娘ではなく、領民を預かる辺境伯なのだから。
孤児院に併設された礼拝所で、祈りを捧げてから帰った。辺境領とライネガルドの平穏、そして懸念が、思い違いであることを願って。
◆
煙るような雨の中、少年はあてどなくさまよっていた。新たな教皇が決まり、盛大な祭りを催していた聖都の通りも、今は人の姿を見受けられない。
そうだというのに、少年の耳の奥には先ほど投げつけられた言葉が渦巻いていた。
――
つい先日、少年の父である大司教は心臓の病で亡くなった。時を措かず、教皇庁の一員となっていた彼は宿舎から叩き出されたのであった。
土地の有力者が、新たな富を求めて聖職を買う。少年の父もその中の一人だった。彼も今はただの見習い修道士であったが、いずれ父と同じく栄達への道を歩むと目されていた。
だが、その庇護者である父を失い、今まで抑え付けられていた二人への反発、嫉妬が全て彼へと向かう。結果、少年は一日中、一人聖都をさまよい続けているのだった。
雨で冷え切った足がもつれ、少年は地面に倒れ込む。その顔に、雨と共に涙が流れ落ちた。彼は父親と違い敬虔な信者であった。日々の祈りも心から行っていた。だが、周囲の者達はそうは見做さなかった。
身体の内からも絶望という冷たさが這い寄ってくる。それに少年が身を委ね、瞳を閉じた時、重々しい扉が開かれる音を聞いた。
「
少年が目を覚ますと、そこは薄暗い屋内だった。かなり訛りの強い言葉が彼に掛けられ、振り向くと四十過ぎの男と目が合った。頷いた後、ここは、と少年が聞き返すと、レムリアの教会の一つだという。その教会の者達に受けた仕打ちを思い出し、少年は再び涙を溢れさせた。
「大丈夫だ。大丈夫だ」
その様子を見て慌てた男は少年を抱きしめ、背中を優しく叩く。暖かな手の感触に、少年は落ち着きを見せ始めるも、すぐに自ら身を離した。
「僕は、
その青い目は未だ、絶望に彩られている。この事実を知れば、男――恐らく教会関係者であろう――も自身を追い出すだろう。そう思って少年はやさぐれ気味に自らの事情を話したが、返されたのは意外な言葉だった。
「関係ねえ。お前さん。神様は信じておるんだろ?」
「は、はい」
「ならお前さんは神様の子の一人だ。
「でも……」
自分がいては、迷惑がかかるのではないか、そう言いたげな少年の背中を、男はもう一度、今度は勇気づけるように叩いた。
「でぇーじょうぶだ! 親戚の子を預かるだけだ」
「それって、嘘じゃ」
「嘘じゃあねえ。儂も神様の子。お前さんも神様の子。ほら、親戚だ」
そう言って男は大笑する。つられて少年も僅かに口角を上げた。
「そんで、お前さん、名前は?」
「親戚なのに知らないの?」
「こりゃ、一本とられた」
「僕、おじさんに新しい名前を付けてもらいたい」
いくら引き取ってくれるとはいえ、名前を変えなければすぐにばれてしまうだろう。そう忠告する少年に、男は感心したように頷く。
「お前さん。賢いなぁ……よし! それならお前さんの名は……」
◆
深夜、サジェッサは強い雨音に目を覚ました。窓に目を向けると、かつて師と出会った夜の様な、霞がかった風景が聖都に広がっている。
「そうか、だから」
一瞬だけ彼の目が柔らかなものとなったが、すぐさまその暖かな光はかき消えた。最早師は、この世のどこにもいない。
「クラネッタめ……」
師が没した地を支配している、忌々しき一族。意趣返しに討伐軍ですり減らしてやろうと呼びつけ、更には間諜も送ったが、なかなか隙を見せないのが又憎らしい。
「だが、逃がしはしない」
枢機卿にまで上り詰めたかつての少年は、青い瞳に静かな狂気を宿し、既に打たれた次の手の結果を待っていた。
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