第30話 聖都

 甲板への扉を開けると、汐の香りが強まり、ひんやりとした風が頬を撫でた。あたりを見渡すと、朝日に輝く海と、雲一つ無い青空がどこまでも続いている。寝間着に上衣を羽織った俺は大きく背伸びをして、慣れぬ船室での睡眠で固まった身体をほぐした。


「ん……やはり海はいい」


 ナンシスを立って三週間。俺たちはライネガルド南部の他領を経由し、一路パスティアに向かっていた。船に揺られての旅である。

 ライネガルドの南東と国境を接するパスティアだが、そこには二つの国を分かつ、峻険なトリニア山脈が横たわっている。おまけに二月の今は雪に閉ざされているため、陸路で進むとなると海沿いに大幅な回り道をしなければならなかった。

 幸い船舶技術が発展した昨今では、ライネガルドとパスティア両国に面する外海を大型の船舶が行き来している。俺たちはその一隻に搭乗し、パスティアの首都レムリアを目指していた。

 船縁に身を預け、海を眺めながら波の音を聞いていると、コツコツと甲板を叩く音が近づいてきた。


「おはようさんです。随分と早いお目覚めで」

「ベルナールか。おはよう。朝の空気が好きでね」

「ああ、それはわかります。特に海はなんだか頭がはっきりとしますな」


 そう言って隣に立ったベルナールも、大きく背をそらしながら欠伸をする。今回の旅では世話係としてエミリー、参謀としてセシールを連れてきたほか、ベルナールを筆頭とした騎士達が俺の護衛についていた。

 そのまま柔軟を始めたベルナールに目を向けていると、彼ははたと動きを止め、姿勢を正し始める。


「失礼。主人の前でする態度ではありませんでした」

「いきなりどうしたのだい」

「拝命いたしました副団長の地位に、相応しくあろうとしております」

「……ふ、ははっ! そういう事だったか。急に変わるものだから、昨夜の魚にでもあたったのかと思ったよ」


 似合わぬしかめっ面と仰々しい言葉に、俺はたまらず大笑いした。ベルナールは大声に面食らったようだったが、すぐに遺憾であると言わんばかりの表情に変わる。


「伯爵様、これでも俺、いや私は……!」

「分かっている。分かっているとも。ベルナール。君のその志は尊いものだ。だがね、公の席でもないのに、そんな無理をした態度をとらなくても良いさ。気疲れをしてしまって、動きが鈍くなっても困るだろう」

「それは、そうですが……」


 思い当たる節があったのか、ベルナールは歯切れ悪くではあるが俺の言葉を肯定した。

 最大の力を発揮させるためには、一辺倒な決まり事に従わせるだけではなく、各々に合わせた柔軟な命令もする。前世の師である祖父がよく口にし、実際に活用していた事だった。その姿を思い起こしながら、ベルナールを納得させるために言葉を続ける。


「私がベルナールを副団長にしたのは、何よりその忠義と力を信頼しているからだ」


 彼の腰に目をやる。そこには朝早く、更には敵のいない船上だというのに、長剣が皮のベルトに括り付けられていた。


「私が一人で起き出したから、心配してついてきてくれたのだろう?」


 疲れて珍しく寝入っているエミリーを起こさないよう、こっそり部屋を抜け出てきたのだが、向かいの部屋にいたベルナールには気づかれていたようだった。そう指摘すると彼は頭をがりがりと掻いて苦笑する。


「察しの良すぎる主人というのも困りものですな」

「何を言っているんだ。私は世間知らずな箱入りだよ」

「姫様も冗談がお上手になられた」


 普段の調子に戻った俺たちの笑い声が、日の差し込む甲板に響き渡る。目的地であるレムリアを視界に捉えたのは、それから数日後の事だった。



 レムリアは外海の沿岸から半日ほど河を遡上した位置にある、パスティアの首都である。都市を東西に分かつ河川があり、外海の河口に繋がっているため、古くから交易の拠点としても名高い。俺たちは河口で中型の船舶に乗り換え、船に揺られながらレムリアに入っていった。


 アーチ状の水門をくぐり抜けた先にある船着き場は、水門が閉ざされる直前の夕方ということもあってか、多くの人でごった返していた。荷を抱えながら桟橋に下りる水夫達、荷下ろしの指示をする商人や船着き場に着いた者を調べる役人達が、あちらこちらに見受けられる。

 俺たちの下にも役人が護衛の兵士を引き連れ近づいてきた。武装するベルナール達を見て警戒していたようであったが、対応をしたセシールが教皇庁からの招待状を見せると、慌てて詰め所に案内された。


「遠路はるばるよくお越し下さいました」


 詰め所で暫く待っていると、呼び出されたらしき老司祭が俺に挨拶をした。司祭曰く、クラネッタからの先触れは来ていたものの、それでも俺たちがあちらの予想以上の早さで到着してしまったらしい。その為、式典の準備が整うまでの数日間をレムリアで過ごす事となった。


 各地から巡礼者が訪れる聖都だけあり、レムリアの宿泊施設は充実している。その中でも貴人や富豪向けに営業している宿を教皇庁は用意してくれたようで、俺は久しぶりの広々としたベットに嬉々として飛び込んだ。


「ああ、やはりベットはこうでなくては……」

「エリザ様。お疲れなのは承知しておりますが、まずお身体を清められてからベッドにお入りください」

「そうだ、風呂だ! ここに来てそれを忘れるとは!」


 布団にたっぷりと詰められた綿から返される柔らかな反発を楽しむ俺へ、エミリーがたしなめるように声を掛けた。その言葉でレムリアの名物を思い出し、バネ仕掛けのように勢いよく跳ね起きる。豊富な水源のおかげで、レムリアでは貧富の層を問わず入浴する文化がある。その為、入浴文化はレムリアから発祥したと言われるほど浴場が多く存在しているのだ。


「宿の者に伝え、既に湯の準備をさせております」

「流石だね。エミリーもおいで。一緒に入ろう」

「はいっ」


 嬉しげに返事をするエミリーと共に、俺は入浴の支度を始めた。


 一流の宿というだけあって、自前の浴場が用意されていた。それも公衆浴場では一般的な混浴ではなく、男女別のものだ。異性に肌を晒すことを嫌う貴婦人に配慮しているのだろう。

 広々とした浴場には白く大きな縦長の浴槽がいくつも並べられ、それぞれが天井から吊した薄布で区切られていた。朝方に入る文化のため、日も暮れた今は貸し切りの状態である。しかし客はとにかく普段ならばいるであろう使用人の姿もない。


「エリザ様のお身体は私がお清めいたします!」

「人払いは君の仕業か……」


 苦笑しながらエミリーに髪と身体の潮気を洗い流してもらい、湯が湛えられた浴槽に身を沈める。彼女もまた身体を清めた後、俺に断ってから浴槽に足を入れた。

 大理石をくり貫いたらしき豪華な浴槽は、二人でもまだ余裕がある。それだと言うのに俺たちはぴったりと身を寄せ合っていた。小柄な俺の身体をエミリーが腿に乗せ、後ろから抱きしめるような形だ。背中越しに伝わる柔らかな感触と温かな湯が、旅の疲れをほぐしてくれるようだった。


「こうしていると、領主になって良かったと思うよ」

「どうかなさいましたか?」

「エミリーと一緒に、堂々と風呂に入る事が出来る」


 メイドであるエミリーも宿の風呂を使えるのには訳があった。彼女は俺が辺境伯となって暫く後、専属のメイドという立場はそのままに、領館内を取り仕切る家令に任じていた為だ。辺境領の重臣となった彼女は貴族に準ずる扱いを受けられるようになっていた。


「そうですね。エリザ様との入浴を楽しむ為にも、一生懸命お勤めします」


 戯れの言葉にエミリーも話を合わせる。無論私情で選んだ訳ではないと、お互いに重々承知していた。領土運営を行う家令に抜擢されたクロード同様、適任だと見極めた上での人事である。そして、彼女はその地位に求められる以上の働きを見せていた。


「エミリーは人一倍やってくれている。本当に、感謝しているよ」


 俺はエミリーから離れて浴槽の中で向かい合い、公私ともに支えてくれるパートナーにそういって頭を下げた。


「お礼をいっても足りない位だ。エミリー。何か欲しいものでもあるかい?」

「ありがとうございます……それでしたら、一つだけご褒美を下さい」


 その言葉の後にエミリーが瞳を閉じる。湯には浸かり始めたばかりだが、その顔だけはほんのりと色づいていた。手は胸元で祈るように重ねられ、あごも少し上向きになっている。

 ここまで分かりやすいおねだりをされては、気づかないふりをするわけにもいかない。それに俺自身も、普段はあまり見られない甘えたようなエミリーにのぼせ上がっていた。

 しかし覚悟を決めて顔を近づけたとき、カチャリという取っ手の音が耳に届き、俺は反射的に湯の中へ背中から倒れ込んだ。

 浴槽に飛沫が上がり、同時に木戸を開けて入室してきた者が、慌てて駆け寄ってくる。


「エリザベート様っ。大丈夫ですか!?」

「ああ、セシールか。ちょっと滑ってしまっただけっ……」


 聞き覚えのある声に身を起こすも、近づいてきたセシールの姿に俺は言葉を詰まらせた。風呂場では当然だが、彼女も又一糸まとわぬ姿だったからだ。瑞々しい褐色の肌と僅かに膨らんだ丘陵は、開花を待つ可憐な蕾を思わせた。

 俺は青い魅力を持つその姿に見とれていたが、物言わぬ圧力に慌てて視線を湯船に落とす。そしてそろそろと正面に目を向けると、そこには薄く目を開け、俺に微笑み掛けるエミリーの姿があった。


「姫様。お怪我はございませんか」

「う、うん。どこも痛めていないよ」

「久しぶりのお風呂とはいえ、はしゃぎすぎですよ」


 確実に怒っている。当然だろう。恋人が目の前で他の少女の裸体に鼻の下を伸ばしていたのだ。それでもエミリーは俺の手足に触れ、捻挫などをしていないか確かめてくれた。ただこっそり風呂の中でふくらはぎをつねるのはやめてほしい。


「仲が、よろしいのですね。一緒にお風呂に入られるなんて」


 その様子を見ていたセシールがぽつりと漏らした呟きにぎくりとしながらも、俺はなんとも無いようなふうに笑う。


「まあ。姉妹みたいなものだからね」

「そうですよね。私、てっきり……いえっ! 何でもありません。私も髪を洗って参ります」


 セシールがそういって離れた浴槽に向かう。その姿が薄布に遮られて見えなくなり、俺たちは胸をなで下ろす。


(なんとか、ごまかせたようだね)

(はい、少し疑われたようでしたが。うう、しかし一度ならず二度までも……)


 顔を寄せて小声で話しかける俺に、エミリーがうめく。以前の執務室の時といい、恋人との時間を中断されたのがよほど悔しかったのだろう。セシールが向かった浴槽の方へ恨みがましい目線を向けている。


――まずいな。


 セシールは聡い娘だ。公私の分別はしっかりしているエミリーが口に出すことは決してないだろうが、抱かれている感情を悟られる事は十分にあり得る。共に側近として仕えてもらう者たちの仲違いは、これからの運営に支障をもたらすことに繋がりかねない。なんとかしなければと考える俺の頭に、一つだけ妙案が浮かんだ。


(エミリー、エミリー)

(はい。なんでしょうっ……)


 もう一度セシールから見られない位置であることを確認したのち、俺はエミリーに小声で声をかける。そして振り返った彼女の頬を両手で抑え、そのまま唇を奪った。

 数秒程度の、ほんの僅かな時間。だが俺が唇を離した時、エミリーの頬は長湯をしたような朱に染まっていた。薄布数枚を隔てた先でセシールが髪を洗っている、そんな状況下での口づけは、彼女の想定外の出来事だったようだ。


「お互い、のぼせてしまったね。そろそろ上がろうか」


 そういって頭を撫でると、エミリーは顔を真っ赤にしたままこくこくと頷いた。

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