第29話 教皇庁からの手紙
一月末、ナンシスの執務室に一通の羊皮紙が届いた。俺はエミリーからそれを受け取り、施された封蝋を目にして動きを止める。鍵と剣が交差する紋章は、この大陸で最も古く、権威あるものだった。
「エミリー。この手紙をお持ちになったのはどなただ」
「ナンシスの大司教様よりお預かりして参りました」
「本物の、パスティア教皇庁からの手紙か……大司教殿は他に何か仰っていたか」
「エリザ様の信心が、遠く聖庁まで届いたとのお言葉を賜わっております」
その言葉を聞き、少しだけ安堵する。そして深呼吸をして封蝋を割り、無言のまま広げられた羊皮紙に目を通し始めた。最後まで読み終わった時、俺はほぅ、と長い息を吐いていた。
「エリザ様。いかがなさいましたか?」
緊張した面持ちになっていた俺に、エミリーが心配げに問いかける。
「大丈夫だよ、エミリー。実は例の官僚化政策で少し気がかりな点があったのだけど、杞憂だったようだ」
「よろしければ、お教え頂けませんか。もしそれが起こってしまったときに、お役に立ちたいのです」
エミリーは使命感に駆られた表情となり、こちらをじっ、と見つめてくる。珍しい事だが、こうなってしまうと彼女は頑として聞かなくなる。実際に俺を思っての事なだけに、無下に拒む気にもなれなかった。
「わかった。セシールも呼んできてくれ。手紙の件は彼女にも伝えておかなくては」
◆
程なくやってきたセシールに、教皇庁から手紙が届いた事を伝えると、彼女も又、顔を青くした。
「エリザベート様。もしや……」
「いや、慌てないでくれ。これはただの招待状だ」
そう宥めながら手紙を手渡す。僅かに顔をこわばらせながら読み進めていたセシールであったが、じきに俺と同様の穏やかな表情となった。
「領内でのパスティア教に対する保護を賞する、ですか。エリザベート様が危惧されていらっしゃった事ではありませんでしたね」
手紙の内容はパスティア教皇庁への招待状であった。官僚として働いてもらっている見返りとして行っていた教会や修道院への支援の詳細が、パスティア教の総本山、教皇庁にも伝わったらしい。その厚い支援を教皇聖下は大層お喜びになり、直々に祝福を授けると書かれていた。
「ああ、だがあちらで何が起こるかはわからない。だから同行してもらうエミリーにもきちんと話しておこうと思ってね」
「然様でございますか。では又、私がお伝えしましょうか?」
「いや、今回は私から話そう。エミリー。この教会官僚化政策には一つ気をつけなければならない事がある」
その言葉をはじめに、俺はこの政策で懸念していた事を語り始める。
「教会・修道院を官僚として利用するということは、彼らの手綱を握ることにも繋がる。その案配に気をつけないと、聖権を侵したと見られかねない事だ」
「聖権と言いますと、どのようなものでしょうか」
「今回だと聖職者達の任免権だね」
聖権とは、神から教会に与えられたと考えられている権利だ。任免権もその一つである。
俺も基本は現状のまま官僚化を進めるつもりではあるが、行政にも携わらせる以上、聖職者達が不正を行った場合はその地位を剥奪し、罰しなければならない。場合によっては新たな聖職者にすげ替える必要性も出てくるのだ。
しかしながらその任免を俗人である俺が握ってしまっては、聖権を侵害していると捉えられかねない。
「それ故に聖職者の任免は教区長、大司教殿の承諾をいただく形にしているのさ」
実際にはこちらの意向をかなりのんでもらってはいるが、最終決定権を委ねている形だ。教会には聖権を保つ名誉と、クラネッタの支援という実益が残る。これは教会官僚化政策を策定している際、この先に起こりうる問題を唯一予期したセシールと考案したものであった。これで一安心と考えていたところに、あの手紙が送られてきたのだ。
「それでセシール様も驚かれていたのですね」
「そういう事だ。では二人とも、急な話ですまないが三日後までに出立の準備を」
「承知いたしました。急ぎ、引き継ぎをして参ります」
素早く、それでいて優雅な身のこなしでセシールが執務室を出て行き、俺とエミリーだけが残った。しかし、エミリーは扉が閉まってしばらくしても机の傍らから動かなかった。
「エミリー? どうかしたのかい?」
「セシール様は、知っていらっしゃったんですね」
「う……」
「エリザ様とセシール様のお二人だけで・・・・・・私もお手伝い致しましたのに……」
よく見ると、エミリーは少しだけ頬を膨らませていた。二人きりの時の呼び名はいつも通りであった為、怒ってはいないようだったが、ちょっぴり拗ねてしまっているようだった。幼い頃に見たような、いささか子供っぽい仕草にくすりと笑った後、俺は椅子から立ち上がって彼女の正面に回る。
「エミリー。ちょっと膝立ちになってもらってもいい?」
「エリザ様?」
「いいから」
有無を言わせぬ俺の言葉に不思議そうな顔をしながらも、エミリーは素直に両膝を突く。いつもとは逆の視点となった俺は、両手で彼女の頭を胸元に抱き寄せた。
「な、何を」
「よしよし」
腕の中で慌てるエミリーの頭を、手の平で優しく撫で続ける。背中へ流れる黒髪に手を入れ、いつも櫛でやってもらっているように髪を梳くと、彼女は「ふぁ」と心地良さそうな声を漏らした。それを数度繰り返す内に、エミリーはすっかり大人しくなっていた。
「エミリー。話さなかったのは別に悪気があったわけではないよ」
「存じております……秘密が漏れないようにするため、ですよね」
落ち着きを取り戻した頃合いを見計らって声を掛けると、腕の中から小さく言葉が返ってきた。長く俺の傍らにいる彼女は、知る者は必要最低限という、機密保持の原則も知っている。
それでいながら大人げない態度をとってしまった事を、エミリーは自責しているようだった。悲しみに沈む恋人の顔に耐えられず、言わないでおこうとしていた本音が口をつく。
「それもあるけど、一番の理由は愛する人を不安にさせたくなかったから、かな」
「え……?」
「さて! 時間も無くなってきたことだし仕事に戻るとしよう」
「い、今の。も、もう一度仰ってください!」
きざな台詞をかき消すかのごとく、俺は両手を大きく広げて机に戻り、残っていた書類を片し始める。執務室に姿見は置いていないため確認しようがなかったが、きっとその時の俺は、食い下がるエミリー同様の真っ赤な顔をしていたことだろう。
そしてきっかり三日後。俺はエミリーとセシールを引き連れ、南の宗教国家パスティアへと旅だった。
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