第18話 クラネッタの怪物退治 4

 冬の星が、空高く輝いている。

 怪物との遭遇から三週間後の深夜、俺とエミリーは村の広場で怪物が現われるのを待っていた。

 待ち伏せの準備を行っていたベルナール達から完了を告げる狼煙が上がった為、護衛の騎士達と別れて村に残ったのだ。

 静まり返っているのは前回と同様だが、夜の闇に目を慣らすために灯りは落とされていた。幸い、満天の星空のおかげで周りは見通せる。星明りを頼りに、俺達は背中合わせに座って周囲を警戒していた。風に揺れる葉の音と、傍の杭に繋がれた戦馬のいななきだけが時たま聞こえてくる。

 冬の澄んだ空の下、暖かな背中にもたれあっていると、すぐ近くの森に怪物が潜んでいるとは思えなくなってしまいそうになる。エミリーも似たような事を考えたのか、背中を向けたまま語りかけてきた。


「姫様。おみ足は寒くはありませんか」

「ひざ掛けがあるから大丈夫。エミリーも冷やさないようにね」

「はい。ありがとうございます」


 今日着ているのはひざ上丈までしかない純白のドレスだ。怪物からの逃走に馬を使う為、騎乗の邪魔にならないものを選んだ。ドレスの上には角張ったポーチの付いた革のベルトが締められている。

 当初は乗馬用のキュロットを使う予定であったが、待ち伏せする騎士達からの誤射を防ぐ為、夜目にもあざやかなこのドレスが選ばれたのだった。エミリーも同様にメイド服の丈を短くしている。


「怪物は現われるのでしょうか」

「来るさ。腹を空かせているだろうし、以前取り逃がした獲物がここにいるんだ」

「熊は獲物に執着する、でしたか。ベルナールさん達に話されていた――」


 エミリーの語りに頷きながら返事をしていると、その時の様子が脳裏に浮かび始めた。



「理由をお聞かせ願えませんでしょうかね」


 囮役を自ら行うと告げた後、珍しくベルナールが怒った口調で問いかけてくる。しかしその眼差しには、他の騎士達と同じく俺を案じる様子が伺えた。


「理由は三つある」

「どのようなもので?」

「一つ目は熊の習性だ。自らの獲物に執着し、それを奪おうとしたものに襲い掛かる。怪物と遭遇した時の事を覚えているだろう。奴は私に向かって迷いなく突進してきた。獲物として認識している証拠だ」

「そうだとしても、姫様が御自ら囮になるのは危険すぎます」


 熊の習性を語るも、今度はグレゴリーが反対してくる。大丈夫だといっても承知はしないだろう。それゆえ俺は、あえて彼の言葉を一旦肯定した。


「そう、とても危険だ。誰がやっても命を賭ける必要がある」

「でしたらっ」

「二つ目の理由を教えよう。私の手を見てくれ」


 左の手のひらを差し出し、騎士達に見せる。血管が見えそうなほどの白さだが、それ以外はたおやかな乙女の手そのものだ。そこに、エミリーから受け取った右手のナイフで赤い線を入れた。


「姫様! 何をされているのですかっ」


 ベルナールがすかさずナイフを取り上げ、叫んだグレゴリーが手首を押さえて止血しようとする。


「そのような処置は無用だ。傷付けた所を良く見てみるといい」


 俺は血をハンカチで拭き取り、再び彼らに手のひらを見せた。


「なっ」

「傷が、消えたっ」

「これが二つ目の理由だ。一部の者しか知らない事だが、私には神の加護がある」


 神の言っていたおまけだ。どれほどの傷まで治るかは試した事が無いが、成長した今では多少の傷ならば一瞬で治るようになっていた。俺の身に起きた奇跡に騎士達がざわめき始める。


「聖女だ……」

「やはり姫様は神の恩寵を受けたお方なんだ。勝てる。怪物を倒せるぞ!」


 奇跡に勇気付けられ、騎士達が気炎を上げる一方、特に心配をしてくれていたベルナールとグレゴリーだけは、未だ承服しかねるといった表情を変えなかった。俺は彼らに言い聞かせるように、加護の有効性を繰り返し伝える。


「囮には傷の癒える私が最適だ。誰の犠牲も出さずに怪物を倒す事が出来るだろう」

「姫様のお優しい心は重々理解しております。ですが、我等はクラネッタの、姫様の騎士。いくら神のご加護があれども、姫様お一人だけにそのような危険を犯させるわけには参りません。どうか、数名でも護衛を付けることをお許し下さい」


 片膝をつき、改まった口調でベルナールが願い出る。いつもの飄々とした態度は欠片も無い。グレゴリーも身を屈め、自身も同意見であるとばかりに頷いた。

 二人の様子から強い意志を感じた俺は、常に共にあると誓い合った友人に目配せをする。


「ご安心下さい。ベルナールさん。グレゴリーさん。それは私が行う事になっています」


 エミリーが進み出、俺の護衛を行う事を告げる。団長の娘である彼女の実力を知る両騎士は、ここにきてようやく、俺が囮役をやる事に納得してくれた。


「確かにあなたならば護衛として申し分ない。姫様をよろしくお願いいたします」

「ええ、必ず守り通して見せます」


 頭を下げるグレゴリーに、エミリーが固く誓約する。その横でふとある事に気付いたベルナールが、こちらに向かって問いかけてきた。


「姫様。先程理由が三つあると仰ってましたが、後の一つはなんでしょうか」

「なんだ、本人達が気付いてなかったのか」

「どういうことです?」


 首をかしげるベルナールにニヤリと笑う。


「君達ならば必ず、私達と息を合わせて怪物を倒す事ができる。その自信が三つ目の理由だ」

「くっ、はははっ! 本当に、姫様には敵いませんな」


 照れ隠しか、ベルナールは普段の口調に戻って頬を掻いた。



「姫様」

「ああ、来たようだな」


 雑談が終わり、暫くした頃。エミリーが静かに声を掛けてきた。耳を澄ませると、微かに地を震わす音が聞こえる。二人して音の方角を注視すると、巨大な影が今まさに森から抜け出てきたところだった。


「エミリーっ」

「はっ」


 怪物を目にした俺達はひざ掛けを払って立ち上がり、戦馬に駆け寄った。マルセル騎士団長から借り受けた大柄な馬だ。主人同様に相当肝が据わっており、怪物が現われてもあまり動じていない。

 背中にはあぶみを吊り下げた二つの鞍が繋げて付けられている。先ず手綱を握るエミリーが前に飛び乗り、次いで彼女の手を借りて俺が後ろに腰を下ろした。そして杭と繋がる縄を解き、馬首を巡らせて怪物と対峙する。


――なんという威圧感だ。


 彼我の距離は未だ三十メートル以上保たれている。視界も馬上の高みにある。それでも押しつぶされそうになるほど威圧してくる怪物の異常さに身震いした。


――だが、


 手綱を握る友の背中に、そっと左手を当てる。彼女も又、微かに震えていた。しかし、互いの熱を確かめ合い、護るべき相手、信頼できる友がそばに居る事を感じた俺達の心身は、再び闘志を取り戻していった。


「怪物よ! 今日こそ決着を付けるぞっ」


 俺の叫びに応えるように怪物が咆哮し、地響きを立てて迫り来る。


「来いっ!」


 命懸けの逃走が始まった。



「しっかりとおつかまり下さいっ、飛ばします!」


 エミリーの腰に腕を回した途端、ぐっ、と後ろに引かれる感覚と共に加速が始まった。馬はあっという間に広場から周囲の畑へ抜け、山へと続く森の獣道へと駆け出していく。騎士団長の愛馬だけあって、俺たち2人を乗せても軽やかな走りだ。しかし、


「速いっ」


 身体をよじりながら後ろを窺うと、怪物は俺たちと付かず離れずの距離を保って追走してきていた。


「馬が疲労するのを待っているのです! 慌てては奴の思う壺。この距離を保って誘引しましょうっ」

「分かった! 近づかれたら知らせる。エミリーは前だけを向いていてくれっ」

「承知!」


 風を切る音に負けないよう、大声を掛け合う。


「森に入ります!」


 勢いはそのままに、獣道へと突入する。そして巧みな馬術で密集する木々の間をすり抜けていった。スピードは流石に落ちたものの、この細い獣道では怪物も追跡をてこずるかに思われた。


「姫様っ、怪物の動きはどうですかっ」

「あの図体だ。通れる道は限られ……なにぃ!?」


 怪物が、一直線に近づいてくる。比喩ではなく、目前の木々をなぎ倒しながら距離を詰めてきていた。俺は怪物の狡猾さを見誤っていた。最初から、逃げ場の少ない森で俺達を仕留めるつもりだったのだ。


「エミリー! 奴が近づいてきている。速度は上げられるかっ」

「もう少しでしたら。ですが、それ以上は転倒の恐れがありますっ」

「分かった。転ばない程度に急ごう。時間を稼ぐ! 一旦風上に走ってくれ!」

「はっ!」


 風上に向けて走り始めたのを確認した時には、怪物との距離は5メートル程にまで近づいていた。俺は腰のポーチに手をやり、紐で口を結んだ小袋を取り出す。


「近付き過ぎたなっ。喰らえっ!」


 紐を解かれた小袋を後方の地面に叩きつけると、黄色い粉末が舞った。それをもろに顔面に受けた怪物が、短い悲鳴を上げて転倒する。


「どうだっ、初めてのからしの味はっ」


 ポーチにしまってあったのは粉末状にしたからしである。それを袋に小分けにし、いざという時の為に用意していたのだ。起き上がった怪物は怒りの雄叫びを上げて再び追ってきたが、その間に俺達は十分な距離をとっていた。

 怪物が近づき、俺がからしで牽制する。それを何度か繰り返す内に、馬を操っていたエミリーが声を上げた。


「姫様っ、隘路あいろです! 隘路が見えて来ました!」

「着いたかっ」


 エミリーの声に前方を向くと、森の切れ目と山の崖に挟まれた隘路が見えた。待ち伏せのベルナール達に知らせる為、俺は胸元にしまっていた笛を一息に鳴らした。甲高い音が、隘路にまで反響する。


「よしっ、後はあそこに誘い込めば、なっ!?」


 再び後方を振り返ると、怪物の姿が消え去っていた。いや、見えないものの近くにいる。地を重く踏みしめる音が、近づいたり、遠ざかったりしながら併走していた。


「すまないっ、目を放した隙に奴が姿を消したっ。気をつけてくれ!」

「承知! 隘路に急行しますっ」


――どこだっ


 音を頼りに怪物を探すもその姿を捉えることは出来なかった。しかし、森の出口に差し掛かろうとしたその時、濃厚な獣臭さが鼻を刺す。


「っエミリィー! 風上にいるぞ!」


 俺がそう叫んだのと、怪物が俺達の左斜め前から現われたのはほぼ同時だった。

 風上に行かれては、からし袋は使えない。怪物が笑うように牙を剝き、その豪腕で俺達の命を刈り取らんと飛び掛ってくる。全ては一瞬の出来事だった。にも拘らず、エミリーの反応はそれを更に上回っていた。


「決して離さないで下さい!」


 とっさの叫びに従い、腰に回していた手をきつく締める。すると彼女は急に馬を伏せさせ、その反動で前方へと一気に跳んだ。浮遊感と共に、ギリギリの距離で怪物とすれ違う。

 凶悪な爪は空を切り、俺達はつんのめる様に森を抜け出て隘路に駆け込んだ。怪物もすぐさま体勢を立て直し、後を追って入ってくる。


「やった!」

「いや、まだだ!」


 おびき寄せる事には成功したものの、怪物の追撃は尋常なものではなかった。僅か数秒で俺達のすぐ真後ろにまで迫ってきている。全速力で走る馬の動きは激しく、からし袋で牽制する事も出来ない。

 そして次の瞬間には怪物が身を屈め、背後から再び飛び掛かってきた。その巨体が星々の光を遮り、俺達を漆黒の影で覆わんとする。だが、恐怖は無かった。この場所にいるのは、最早俺達だけではない。


「我が騎士たちよ!」


 俺の呼び声に応え、左右の崖上から放たれた二つの投槍が、流星の如き速さで怪物の右目と左腕に突き刺さる。跳躍の軌道をずらされた怪物は再び悲鳴を上げながら転倒し、その隙に俺達は目印が付けられた所定の場所を駆けぬけた。



「姫様が罠を抜けられたっ。今だ! 縄を切れっ」


 怪物の右目に見事槍を当てたベルナールが、山と積まれた岩を押さえる木板の縄を切るように指示する。支える物の無くなった岩が重い音を響かせながら一斉に落ち、隘路は怪物を捕える檻となった。対岸のグレゴリーがすぐさま騎士達に号令を掛ける。


弩弓アルバレート隊、構えよっ」

「こちらもだ! 姫様がお作りした好機、無駄にするなっ」


 両側の崖に伏せていた騎士達が端に駆け寄り、火薬付きの矢を番えた弩弓の狙いを定める。怪物は謀られた事に気付き、威嚇するように立ち上がって呻り声を上げた。地の底から聞こえてくるようなおどろおどろしい響きであったが、地の利によって安全が保たれた騎士達が恐慌する事は無かった。これが同じ大地に立っていたらどうだったか。ベルナールはエリザの戦術眼に舌を巻きながら、振り上げた手を下ろした。

 火薬の導火線に火を付けられた三十余の矢が怪物に突き刺さる。そして、小さな太陽が騎士達の前に現われた。



 背後の岩が隘路を完全に閉ざしたのを確認した後、轟音が大地を震わせ、岩の向こう側から火柱が上った。次いで怪物の長い絶叫が、濛々もうもうと立ち上った白煙の中から響き、巨体が大地に倒れ付す音と共にやんだ。

 一瞬の静寂の後、崖上から騎士達の喝采が上がる。俺達も緊張からようやっと解き放たれ、馬を下りた。


「よく頑張ってくれたな。おまえのおかげで逃げ切れたよ」


 汗だくになっていた馬の首を撫で、エミリーと一緒に鞍を外してやると、嬉しそうにいなないて遠くに生えていた草を食べに行った。


「終わりましたね。姫様」

「ああ。皆の協力のお陰だ。特にエミリーには感謝してもしきれないよ。囮役に付き合わせてしまって、申し訳なくも思っている」


 エミリーに向き直り、感謝と謝罪の気持ちを込めて頭を下げると、彼女はゆっくりと首を振った。


「謝罪など必要ありません。私が姫様と共にありたいと思ったからご一緒したのです。私は貴方の家臣であり、友なのですから」

「友か。それでも礼は言うものだ。ありがとう。エミリー」

「恐れ入ります。姫様」


 エミリーはにこりと微笑み、短くしてあるスカートの端を摘まんでお辞儀を返してくる。その返答は、家臣としては完璧なものだった。


「うーん。その返しはちょっと違うな」

「な、何か失礼をいたしましたでしょうか?」


 怪物からの逃走でも冷静だったエミリーが初めて困惑した表情になった。その事におかしみを覚えながらも、彼女に答えを教える。


「姫様でなく、エリザと呼んで欲しい」

「で、ですが私は姫様の……」

「友、なのだろう?」


 あるじの名前を呼ぶことを遠慮しているエミリーに、先程彼女が口にした言葉を返す。するとエミリーは赤面しつつ、しかしどこか嬉しそうに口を開いた。


「……エ、エリザ様」

「うん、それで……」


 良い、という言葉を最後まで口にする事は出来なかった。エミリーの背後、積み上げられた岩の向こうに立ち昇る白煙の中から、血まみれになった怪物がこちらに飛び掛って来ていた。



「エミリーっ!」


 目前の主に覆いかぶさられ、エミリーは仰向けになって倒れた。直後、真上を黒い影が通り抜け、前方の地面で数度弾んで再び動かなくなった。


「か、怪物」


 黒い影の正体は先程倒したかと思われた怪物であった。最後の力を振り絞って岩を越えてきたようだ。エミリーはそのしぶとさに戦慄しながらも、自らを助けてくれた主に礼を言おうとし、その目を見開いた。


「姫様っ」


 自らの上に乗っていたエリザの背中には斜めに走る大きな爪跡が残されていた。裂かれた白いドレスが瞬く間に赤く染まってもなお、傷口から新たな赤があふれ出ている。そうだというのに、彼女は黄金色の瞳をエミリーに向け、その安否を訊ねた。


「エミリー……怪我は、無いか」

「はいっ、はいっ、でもっ、姫様がっ!」


 しゃくりあげるエミリーの様子で自らの傷の深さに気付いたのか、エリザは一瞬口を閉ざす。しかしすぐに微笑みを浮かべて静かにエミリーに話しかけた。


「この傷では助からないな」

「そんな事はありませんっ!」

「いや、二度目だから分かる。エミリー。父上と母上に伝えてくれ。今まで育てて頂いた事への礼と、私がクラネッタの務めを果たした事を」

「嫌っ、嫌ですっ」

「お願いだ……」


 子供のように首を横に振るエミリーだったが、エリザの縋る様な眼差しに促され、最後には頷きを返した。


「今まで、ありがとう。エミリー」

「姫様っ……」

「そんな顔をするな。私は、俺は、満足しているんだ。愛する人を、守れて……」


 瞳を閉じ、微かに笑みを浮かべたまま動かなくなった主を、エミリーはそっと抱き締める。その時、彼女達の近くで動き出すものがあった。



 怪物が、再び起き上がっていた。全身が焼け焦げ、火薬で肉が弾け飛んでいる箇所もある。左腕も皮一枚で繋がっているような有様だが、それでもその命の火は吹き消されてはいなかった。怪物は緩慢な動きで周りを見渡し、すぐ近くに二匹の獲物が残っている事に気付いた。一つは先程怪物の爪で仕留めたもの。もう一つはこちらに向かって立ち塞がっている。

 食べねば死ぬ。その事が本能的に分かった怪物が近づくと、立ち塞がっていた獲物も又近づいてきた。それを不思議に思いながらも、飛び掛り、無事な右腕を振り下ろす。

 ぶつりという音が、怪物の耳に届いた。獲物を切り裂いた音ではない。自身の右腕が半ばで無くなっていた。痛みと驚愕に悲鳴を上げて立ち上がる怪物の前に、獲物が細長い一本の爪を光らせて再び近づいてくる。

 今まで怪物が腕を振るえば、どんな獲物でも傷を負った。噛み付けば動かなくなるものはいなかった。怪物は、得体の知れない感情を初めて味わっていた。

 怪物が必死に吠えるも、その歩みは止まらない。その感情が死に対する恐怖だと気付き、踵を返して逃げ出そうとした時、獲物と思っていたものは既に怪物の身体を駆け上がり、その首筋に爪を突き立てていた。



 サーベルに貫かれた首筋から血を噴き出し、怪物が前のめりに倒れる。地面に降り立ったエミリーはそれを一顧だにせずに、再び主のもとへと駆け戻った。仰向けに寝かされたその姿は、背中の傷が見えない今、ただ眠っているように見える。

 エミリーは主のそばに跪き、その顔を覗きこんだ。暖かな日を思わせる黄金色の髪、伏せられた長い睫毛に薄桃色の唇。他の全ても神々によって形作られたとしか思えない美しき姫君は、夜の暗闇の中ですら輝いている。エミリーは、胸に湧き上がる思いを抑えきれずに口を開いた。


「愛しています。私も貴方を愛しています。貴方が友と呼んで下さったあの幼き日から、私は全てを奉げようと心に決めておりました。この身も、心も全て。これが、愛だったのです。私の愛を奉げます。私の全てを奉げます。ですからっ」


 その瞳から零れ落ちた雫が、愛しき主の瞼に落ちる。すると僅かに、その瞼が痙攣したかのように見えた。もしやと思いエミリーがエリザの上半身を抱き寄せると、その背中の傷は消えており、弱弱しくはあるものの、確かな鼓動がエミリーの身体に返って来た。


「ああ、ああ。生きていらっしゃる。生きてっ」


 エミリーは騎士達が駆けつけるまで、喜びの涙を流しながら主を抱き締め続けていた。



 眩しさに目を開けると、天井の木目が見えた。


「お目覚めになりましたか」


 すぐさま掛けられた声に目線を向けると、エミリーが椅子に座って微笑んでいた。朝日が差し込む窓を背に、いつものメイド服を着込んでいる。もう二度と会えないと思っていた彼女との再会で、俺は命を拾った事に気付いた。


「ここは……?」

「村長宅の客間です」

「客間……そうだっ、怪物は!?」


 急に半身を起こしてふらつく俺をエミリーが優しく支えながら答える。


「エリザ様のおかげで討ち取る事が出来ました」

「そうか……良かった」


 安心して再びベッドに横になろうとしたが、聞き逃せない一言にエミリーを見つめる。


「今、名前を……」


 そう口にすると、エミリーの白い顔が真っ赤に染まった。しかし恥じらいに頬を染めながらも「エリザ様」と再び嬉しそうに口にする。その響きには今までにあった信頼以上のものが込められていた。

 お互いに赤面して見詰め合ったまま黙り込む。気恥ずかしくも心地よい沈黙であったが、何時までもこうしているわけにもいかない。俺は意を決してエミリーに告白した。


「エミリー」

「はい」

「これからも、一緒に居て欲しい。家臣として、友として、俺の……恋人として」


 返って来たのは、やわらかな唇の感触だった。

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