第16話 クラネッタの怪物退治 2

 温泉から戻り、冬となった。通年で平均的に雨が降るライネガルドには珍しい、乾燥した冬だ。火事の発生を危惧した俺達は、木枯らしのなか領内の都市や村々への防火訓練の指導に走り回っていた。その徹底により領民の居住地では小火騒ぎ程度で済んでいたが、手が回らずに大火となった場所があった。



「森林火災か。近隣に村は?」

「ひとつございます。幸い、延焼は免れたようです。ただ……」


 ベルギム山脈の東端、ユンク伯爵領に程近いクラネッタ領南東部で森林火災が発生したとの報告を領館で受けたのは、十一月の事だった。村まで火が至らなかった事に胸をなでおろすも、エミリーが次に発した言葉に目を丸くする。


「火災の後、森から怪物が出たと」

「怪物ぅ?」


 詳しく聞くと、看過できない話である事が判明した。村で共有する厩舎がその怪物に襲われたというのである。夜更けに家畜の悲鳴が聞こえ、様子を見に行った村人が見たのは、土壁の一角が完全に崩れた厩舎と、動かなくなった馬のうなじを咥えて森へ引き摺る、巨大な黒い影だった。


「熊かな。かなり大きいようだけど」

「おそらくは」

「村の猟師達はどうしているの?」

「残念ながら、彼らの手には負えぬようです」


 後にもう一度現れ、待ち伏せしていた猟師達が矢を射掛けたが、刺さった矢などものともせずに再び家畜を浚って行ったという。このままでは冬越えができないという悲痛な訴えを受け、俺は騎士団の派遣を決め、被害状況を見る為に現地へ同行する事とした。



 怪物による村の被害は想像以上だった。冬篭りに備えて肥えさせていた家畜はあらかた怪物に連れ去られ、牛一頭のみが補修された家畜小屋の隅にうずくまっていた。


「もうあの場所から動こうとしません。他の家畜達が殺されるのを間近で見てしまったのでしょう」


 村に到着した俺達に村長が惨状を説明する。牛は既に生きることを諦めてしまう程の恐怖を味わったようで、餌も殆ど口にしなくなったという。


「一部の畑は踏み荒らされ、鋤き直さなければ使えなくなっています。ですが……」


 農具を既に重量有輪犂へと転換している為、牽く輓獣ばんじゅうがいない今、それらは使い物にならない。この状況の心労からか、老境に入ったばかりであろう村長の顔はやつれ、歳以上に老け込んで見えた。髪も白いものが多くなっている。安心させる為に俺は村長の筋張った手をとり、事態の収拾を約束する。


「あなた方の苦労は分かりました。クラネッタが長女、エリザベートの名にかけて、戦う者としての責務を全うしましょう」

「おお、ありがとうございます……」


 頭を下げ続ける村長を労わりながら、俺は騎士達に迎撃の準備を命じた。



 赤々とした篝火かがりびが村のいたるところに立てられ、辺境の夜の闇を払っている。祭りの日のような明るさだが、家々の扉は閉められ、息を押し殺したような静けさに包まれていた。

 あの後村長に怪物――やはり大きな熊らしい――の動向を訊ねたところ、数日に一回は現れ、今日にでも出るのではないかという予測を聞けた。そのため、二十名いる騎士の半数を村人の護衛に、又半数を家畜小屋から少し離れた風下に待機させ、俺とエミリーもそこに陣取っていた。家畜小屋の周りに明かりを置いていた時ですら襲われたというので、少しでも騎士達が戦いやすいように篝火を増やしたのだ。

 腹部を守る胴丸のような鎧を身に付けた騎士達は手に大弓や長槍を持ち、怪物の登場を待ち構えている。

 俺も目立たぬ黒のドレスに胸甲を付け、狩りの時に使っている弩弓アルバレートを手にしていた。非力なこの身体では弓も槍も使えないが、引鉄ひとつで矢が飛び出る弩弓ならば扱う事が出来る。弦を引くのは他人任せな為、連射できるよう手に持っているもの以外にも二つ、地面に予備として置いてある。脇に控えるエミリーが、俺の淑女らしからぬ格好に少し眉を顰めながら口を開いた。


「姫様。なにもご自身がそのような事をなさらなくとも……」

「心配してくれてありがとう。でも私は戦う者として人の上に立つクラネッタ家の一員だ。その責務を果たさなくては誰も付いては来ないよ。なに、弩弓の扱いは得意だし、もし邪魔になりそうだったら大人しく下がるさ」

「お願いいたします。姫様はクラネッタの至宝なのですから」


 エミリーも又、メイド服の上に胸甲を身に付けている。彼女は弓ではなくサーベルを腰に佩いていた。幼少のみぎりから父マルセルの薫陶を受け続けている彼女は、そこいらの騎士では歯が立たないほどの剣技を身につけている。二歳の時の騒動の後、職務に復帰したばかりのマルセルが、エミリーに俺の護衛を兼任させる事を進言してきた時は、多くの者が彼を嗤った。しかし実際にエミリーの短剣捌きを見てからは、なお嗤い続けるものは一人もいなかった。彼女の体と技術の成長に伴い、武器も短剣から刀身の長いサーベルにかわっている。

 こちらを心配するエミリーの苦言を容れ、いざという時は下がる事を約束する。そこに、小隊長として今回の任についた騎士、ベルナールが俺達に近づいてきた。


「来ませんな。ここまで物々しいと流石に怪物とやらも警戒しているんじゃあないですかね」


 口調こそおざなりなものだが、話しかける時にも周囲へ目を配り、警戒を怠っていない。


「うん、もし今日現れなかったら、家畜小屋の灯りを落としてみよう」


 武技だけの男ではない。要所要所で的確な判断が出来る冷静さを併せ持つが故に、異例の速さで小隊長になった。温和な性格で仲裁役として定評のある同輩のグレゴリー小隊長と並び、若手騎士の有望株だ。二人は仲の良い友人同士でもあり、小隊同士の連携が上手い。それを見込んで二人を今回の任務に抜擢したのだった。ベルナール小隊が見張る家畜小屋、グレゴリー小隊が護る集落。どちらに熊が出ても救援に来られる手はずが整っている。


「いや、その必要はないようですぜ」


 鋭さを増したベルナールの視線の先、家畜小屋に近い森の中から黒い影が抜け出てきた。


「おい、嘘だろ……」


 騎士の誰かが震えの混じった声で呟く。彼を臆病だとはその場の誰も笑えなかった。それほどまでにそれは異常だった。

 黒々とした毛並みの熊だ。色は偶に出没する他の熊と変わらない。だが、その大きさは尋常なものではなかった。大地を重く踏みしめる、成人男性の胴ほどある太い前足。俺のような体躯の小さい者なら、一呑みにしてしまいそうな大きな口。更にはその中には一本一本がナイフのような鋭さの白い牙が覗く。小山のような巨体で木々の枝を揺らしながら出てくる様は、まさしく怪物だった。その背に引っ掛かってしまった枝は枯葉を全て落とし、丸裸になってしまっている。怪物は寒々しくなった枝など気にも留めずに、家畜小屋へ悠々と近づいていく。


「姫様、お下がり下さい。あれは危険です」


 メイド服の上に胸甲を着込んで控えていたエミリーが、俺をかばうように前に出る。それと同時にベルナールが笛を吹き、グレゴリー隊に救援を求めた。その笛の音で怪物はこちらに気が付いたようであったが、すぐに興味を失ったのか家畜小屋に向き直った。


「エミリーは姫様を! 槍隊、構え! 弓隊は一斉に射掛けよっ。奴を小屋に近づけるな!」


 ベルナールがそのしなやかな身体つきから出たとは思えぬ大声で小隊に指示を飛ばす。あまりの敵の巨大さに一瞬呆けていた騎士達であったが、日頃の訓練の賜物か瞬く間に迎撃体勢を整えた。


「弓隊、構えっ……放てぇ!」


 三本の矢が斉射され、怪物の胴体に突き刺さる。しかし、怪物がうるさげに身を震わすと、そのどれもが地面に落ちた。


「化け物めっ。怯まず射掛け続けよ! 槍隊っ、俺に続け!」


 ベルナールと残りの騎士達が吶喊とっかんし、怪物に殺到する。矢は無視していた怪物であったが、流石に騎士達を見逃す事は無かった。家畜小屋から目線をこちらに向け、地を震わす雄たけびを上げる。その咆哮ひとつで、今まさに穂先を突きたてようとしていた騎士達に僅かな硬直が生じた。

 その隙を見逃す怪物ではなかった。その豪腕を横薙ぎに振るい、槍をまとめて騎士達の手から叩き落す。

 動きを見切って引いたベルナールの槍以外は、木製の柄をへし折られてしまった。


「喰らえっ!」


 すかさず反撃に移ったベルナールが槍を胴体に突きたてるも、その穂先が沈みこむ事は無かった。分厚い革と強靭な筋肉が、槍を押し込む力を抑えたのだ。だが致命傷には到底至らずとも、己から血が出た事が怪物にとっては意外な事のようであった。

 ベルナールを警戒したのか、その巨体に似つかわぬ機敏な動きで怪物は距離をとり、両者は再び対峙する。肌がひりつくような空気の中でそれを見守っていると、怪物の仄暗い黒の目が俺達を捉えた。


「しまった! 姫様をお守りしろっ」


 ベルナールが叫び、槍から剣に持ち替えていた騎士達が切りかかろうとするも、既にこちらに向かって走り出していた怪物には届かない。勢いを止めようと矢を放つ弓隊を援護する為、俺も弩弓アルバレートに矢をつがえ、怪物に向かって引鉄を引いた。

 一発目、肩に命中。しかし全く怯む様子はない。

 二発目、額を狙うも怪物が身を伏せて避けられる。

 そして弦が引かれた最後の弩弓に三発目の矢を番えた時、怪物は目前まで迫っていた。


「姫様ぁ!」


 エミリーがサーベルを抜き放ち、俺と怪物の間に立つ。だがその背中は細く、ぶつかり合えば結果は自明なものに見えた。


「エミリィーっ!」


 怪物が今まさにエミリーに飛び掛らんとした時、横からもうひとつの大きな影がぶつかり、その軌道をずらした。


「グレゴリー!」

「おおおおおっ!」


 グレゴリー小隊長が総鉄製の大槌を振るい間に割って入ったのだ。他の騎士よりも二周りは大きい体格が放つ膂力りょりょくが大槌に乗せられ、怪物を怯ませる。


「グレゴリーっ、間に合ったか!」

「すまんベルナール! 遅くなった!」

「いや、いい時に来てくれたっ」


 割って入ったグレゴリーと、追いついたベルナールが声を掛け合い、怪物を挟み撃ちにする。そして周囲には両隊の騎士達が集まり始めていた。怪物はその状況を不利と見たのか苛立ちのこもった雄たけびを上げ、包囲を狭めつつあった騎士達を弾き飛ばしながら逃走していった。



 村長の自宅で一旦怪物を撃退したと俺から伝えられた彼の顔は僅かに晴れたが、その後に続いたベルナールらの言葉によって再び顔を曇らせた。


「あの怪物には只の弓や槍では通用しない。逃さず完全に打ち倒す為には今回の十倍の人員に総鉄製の槍と、姫様が使われていた弩弓アルバレートを持たせる必要がある。それでも被害は免れないだろうさ」

「命に別状はないものの、逃走する奴に弾き飛ばされた騎士達の怪我は軽いものではない。彼らを送り返す以外にも、人員と装備の拡充にアミーンへ戻らざるを得ないでしょうな」

「そ、それでは我々はどうなるのでしょう! 怪物は明日にでも再び来るかも知れないのですぞっ!」


 一時撤退を進言する彼らに慌てた村長が、俺に向かって助けを求める。


「勿論貴方達を見捨てはしません。ですが、一時的に避難をしてもらいます」


 そう伝えても、村長の顔は晴れない。長く村を空ければ空けるほど、立て直すには時間が掛かる。ましてや今は冬、このまま事態が遅延すれば廃村せざるを得ない状況に彼らは陥っていた。


「ベルナール。先程言っていた準備はどれ位掛かりますか」

「人員と槍はとにかく、長らく戦が無かったものですから、使える弩弓の数が足りません。かき集めたとしてもおそらく三十が精々ですな。追加で作るとなりますと一月、いやさらに半月はかかりましょう」


 それでは遅すぎるという事が更に青ざめた村長の顔で分かった。迅速に討伐を完了させる必要があるのだ。

 今ある武器だけでは怪物を倒せない。整えていては村が助からない。そして整えたところで人死にの可能性まである。この事態に関わる者全てが苦悩に苛まれていた。

 そして俺はもう一つ、ある選択肢を迫られていた。村を助ける、助けないではない。助けるのにある方法を使うべきか否かである。必要な材料は揃っている。それを組み合わせれば三十の弩弓だけでも怪物を打ち倒せるだろう。だがそれが後に齎す影響を知っているだけに、俺は未だ決めかねていた。


「姫様」


 思考が堂々巡りに陥っていた俺を暖かな感触が包み、優しく頭が撫でられる。エミリーに抱き締められていた。


「エミリー……」

「姫様。私は、姫様の進まれる道に付いてまいります。それがいかなるものであろうと、私は何時までも姫様と共にございます」


 エミリーの顔を見る。俺を落ち着かせる為か、柔らかな笑みを浮かべるエミリー。村人や騎士達だけではない、この愛する人すら失うところであった事を思い出し、俺の身体に一瞬震えが走った。そしてそれが落ち着いて彼女から身を離した時、俺の心はもう定まっていた。


「グレゴリーっ! ベルナールっ!」

「はっ!」


 同時に返事をする両騎士に指示を下す。


「グレゴリーは小隊を統合し、負傷した騎士と村人をアミーンまで護送せよ! 出立は明日だ!」

「承知!」

「ベルナールはスパリングへ急行し、今から私が伝えるものをアミーンへ運べ!」

「お任せを」

「私はエミリーと先行してアミーンへ戻り作戦の準備を指揮する! アミーンへの先触れと随行の騎士の選定は任せる。急げ!」


 慌しく動き始めた騎士達に呆けている村長に近づき、俺は再度約束をする。


「村長。この怪物退治、一月以内に終わらせる。その為に協力して欲しい」

「わ、私達に出来る事でしたらいかなる事でも致します」

「ありがとう。では先ずこのあたりの地形について教えてもらいたいのだが……」


 強大な敵を打ち倒す為、俺達は一丸となって動き始めた。

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