第15話 クラネッタの怪物退治 1

 それがこちらの世界にもあるのを知ったのは十二歳の秋、腰を痛めて休養していた老庭師の土産話を、領館の庭にある東屋で聞いていた時だった。


「クラネッタ領内に温泉があるのか!」

「へえ、姫様。北東のベルギム山脈に近い山々にいくつかごぜえますだ」


 中天にある太陽よりも顔を輝かす俺に少し仰け反りながら、向かいで腰を休めていた庭師のドミニクは南方訛りの口調で答える。父上が若い頃に亡くなった祖父、先代の公爵から仕えている彼は、元は南方の国パスティアの出身らしい。生来必要な事以外は喋らぬ男で、なぜライネガルドに来たのかを知る者は家中にいない。だが忠勤を尽くす家臣に余計な詮索は無用と、俺から生い立ちについて聞くことは無かった。

 それがドミニクにとっても心地よかったのか、俺に対しては色々な事を教えてくれた。特に彼は様々な植物の生きた知識とでも言うべきものを身に着けていて、ともすれば理屈倒れになったであろう初期の農業改革に、現実的な助言をしてくれた事もしばしばだった。


「温泉に入った事がごぜえますので?」

「うん、パスティアに洗礼を受けに行った時にね。あれは良かった……領内の温泉の話、詳しく聞かせてほしいな」


 前世では爺さんとよく行っていたが、転生してからは久しくご無沙汰であった。四年前にパスティアで一度だけ入ったきりである。領内にも有ると聞き、いてもたってもいられなくなった俺は、急ぎの仕事をかつて無い速度で終わらせて、父上に温泉旅行の許可を貰ったのだった。



エミリー他僅かな従者と最低限の護衛を連れて出発し、馬車に揺られて七日目の昼。懐かしい匂いが鼻をくすぐり、俺は急いで窓から顔を出した。


「おおっ! 温泉街だ!」


 馬車の向かう先には緑深い山々と、その裾野に広がる小さな町、スパリングがあった。丸屋根をした白い家々が立ち並ぶ町のあちこちから、細い湯気が立ち上っている。近づきつつあるそれらを暫く眺めていると、馬車の向かいに座っていたエミリーの手が優しく肩に掛かり、車内へと引き戻された。


「姫様。御髪おぐしが乱れます。それに温泉は逃げませんよ」

「そうなんだけどね、少しでも早く入りたいんだ。」

「そんなに温泉とは良いものなのですか? 領館にも湯船をお作りになったでしょう?」


 俺の髪を整えながらエミリーが首をかしげる。


「ああ。凄く良い。館に作ったものも中々だが、天然の温泉は一味違うよ。パスティアに行ったときは入らなかったのかい?」

「私たちは蒸し風呂を利用していましたので。でも気持ちの良いものでした」

「そうだったのか。あれも別の良さがあるね。今回は温泉に浸かると良い。きっと気に入るよ」

「はい。空いた時間に入らせて頂きます」


 町に乗り入れると、役場で六十過ぎの町長の歓待を受けた。立場上受けざるを得ない為じっと我慢していたが、気もそぞろであった為、挨拶の内容に関してはほとんど頭に残らなかった。覚えているのは湯が透明で、肌に非常に良いといわれているという泉質だけだ。


「それでは温泉にご案内いたします。姫様にゆっくりお寛ぎ頂く為、別荘を掃き清めておきました」


 緩やかな坂の中に出来ている町の最上部、他の建物からは少し離れた場所に別荘はあった。色合いは他と変わらぬ白い建物だが、二階建てで、広さも数倍以上ある。加えて珍しい花や植物が植えられた庭が周囲に広がっていた。


「ここは領主様やそのお客様がお泊りになられる別荘です。領主様はご多忙ゆえ、久しくいらっしゃいませんが、領主様や姫様にいつでもお使い頂ける様、庭と温泉の手入れは欠かしてはおりません」

「ありがとう。早速温泉に入りたいのですけど、準備は出来ていますか?」

「勿論でございます。それにこの建物の温泉には、もうひとつ趣向が凝らしておりまする。きっとお楽しみ頂けるかと」


 老人らしからぬ、秘密基地を紹介するいたずらっ子のような笑顔で、町長は俺達を中に招き入れた。



「露天か! 珍しいな!」


 案内を引き継いだ侍女に導かれ、階段を昇った先の浴場は露天風呂だった。町の最上部だけあって、町の様子だけでなく、遠くの山々まで見渡せる開放感がある。庭を眼下に望める建物の端の部分に透明度の高い湯が張った湯船があった。


「ひ、姫様っ。お、お召し物を脱がれて外に出られてはっ」


 白い肌を惜しげもなく晒して露天風呂に飛び出た俺に対して、濡れても良い薄手の肌着に着替え、黒髪を頭上で纏めたエミリーが、建物の中から慌てて呼び戻そうとする。露天風呂を知らない外国人にありがちな反応に笑いながら、服を取りに戻ろうとする彼女を手招きした。


「大丈夫だよエミリー。外からは高さの違いで見えなくなっているんだ」


 建物の高低差で、外から風呂は覗けなくなっている。庭に植えられた葉の多い木々も、遮蔽効果に一役買っているようだった。そう聞いてエミリーも恐る恐る出てきたが、一番見晴らしの良い湯船のそばまでは近寄らなかった。


「景色がいいのだけどなぁ。まあいいや、先ずは身体を洗おう」

「はい。準備いたします」


 エミリーが露天風呂の入り口近くにある出湯口から湯を汲んできて、手馴れた手つきで俺の身体を洗い出す。領内の温室で採れたオリーブの油と、海藻灰を混ぜ合わせた固形石鹸を布に擦って泡立たせ、丁寧に身体を磨く。俺は大人しく備え付けの椅子に座ってされるがままになっていた。

 白く華奢な腕から始まり、腋、背中、お尻に足と順々に彼女の手が伸びる。身体を優しく洗われる心地よい感覚に身を委ねながら、泡立つ己の身体を見る。


「やはり成長していないな……」


 十歳位まではすくすくと成長し、手足もすらりと伸びたわが身であったが、背は百四十強、身体つきも僅かに女性らしい丸みを帯びたあたりでピタリと変化が無くなってしまった。


「姫様は誰よりも可憐でございます。あと数年もすれば、麗しいご令嬢にもなられますとも」

「ありがとう。実際に綺麗になったエミリーの見立てなら、本当にそうなるかもね」

「わ、私は姫様の足元にも及びませんっ」


 何気ない独り言だったのだが、エミリーからすかさずフォローが入る。気の優しい娘だった。彼女の言葉に掛かれば、たいていの事は出来そうに感じるから不思議である。綺麗だと返されて恥ずかしがるエミリーを見ながら、ただこればかりはどうしようも無いとも自分では考え始めていた。


――やはりこれが神の言っていた『おまけ』なのだろうか。


 二歳の時の怪我の直りから、その治癒力がおまけなのかと考えていたが、どうやらそれだけではなかったらしい。髪や爪は伸びるものの、成長が止まった後に密かに試した筋トレは全く効果が無く、無理に食事を摂ってみたりもしたが太る事も無かった。十歳頃の時の姿に固定するような働きが俺の身体にあるようだ。


――これがもし不老だとしたら、後々面倒な事になるかもしれない。


「姫様?」

「ああ、いや、何でもないよ」

「では、今度は前を失礼します」


 知らず知らずの内に考え込んでいたらしい。エミリーの声掛けに返事をすると、彼女は断りつつ、膨らみかけの胸を洗おうと後ろから手を伸ばしてきた。


「いや、前は自分でやるから良い。もう子供でもないしね」

「で、ですがこれも私のお勤めですので……」


 いざ洗わんとしたときに待ったを掛けられ、泡立った布を持つ手が小さな胸の前で所在無げに揺れた。

 だがこれ以上されてはこちらが困った事になる。エミリーは俺の為に熱心に働いてくれている。そのひたむきな姿勢に惹かれ、密かに思いを寄せているのではあるが、こればかりは遠慮して貰いたかった。


――胸が、当たるんだよなぁ。


 主人の身体を磨き上げようと、敏感な部分まで優しく洗われるのは、まだ自分の身体なのでこらえが効く。しかしその時に背中に当たる柔らかな感触だけは、常に鉄の意志を以って時が過ぎるのを待たなければならなかった。領館の風呂ならば他のメイドも側にいる為なんとか我慢できたが、ゆっくりしようと人払いをしてしまったこの露天風呂では二人きりなのだ。いつ女豹となって本能のままに襲い掛かっても不思議ではない。そんな事は、忠臣であり友である彼女の信頼を裏切る行為だと考えた俺は、何とか納得してもらおうと急場凌ぎの理由を述べた。


「ほら、今はいないけどいつここの人たちが来るかも分からないし。赤ん坊みたいに全部洗って貰っていたら、彼女達に笑われてしまうよ。領館に戻ったらエミリーの好きにしていいから、ね?」

「っ分かりました……では私は桶に湯を汲んでまいります」


 エミリーが世話をするということで下がっている現地の侍女たちを出しにして、何とか思い留まらせる事に成功させる。身体を微かに震わせながら出湯口に向かうエミリーに手を合わせ、俺は急いで残りの部分を洗った。だが慌てていた為、洗い終わったと同時に使っていた石鹸が布から飛び出、そこに折悪しく彼女が戻ってきた。


「姫様、お湯をお持ち、きゃあっ!」

「エミリーっ! 大丈夫!?」

「は、はい……」


 落とした石鹸に転んだエミリーがつるりと滑り、ばしゃんと音を立てて桶の湯が飛び散った。彼女自体はしりもちをついただけで済んだ様だったが、その上から湯が容赦なく掛かり、頭の上からずぶ濡れになってしまっている。纏めていた髪もぐっしょりと濡れて、服と共に肌に張り付いていた。透けてしまった肌着を見ないように、目線を彼女の顔に固定しながら手を差し出す。


「ごめん、私が不注意だったばっかりに……」

「いえ、お気になさらないで下さい。それよりも早く洗い流して湯船に浸かりませんと、姫様が風邪を召してしまいます」

「今入るべきは君だっ。頭まで濡れてしまっているのにそのまま仕事をしていたら身体を悪くする! 私は身体を流したら一旦出ているから」

「いいえ、主を差し置いて湯に浸かるなど……」


 譲り合いの問答を繰り返している内に、


――どうしてこうなった。


 俺は片思いの相手と仲良く並んで露天風呂に浸かっていた。


「温かい……それに、本当に絶景ですねっ。私、こんな景色初めてです!」

「うん……お、私もだよ」


 前世も含め、初めて見る景色である。危うく素が出かけるところだった。


「遠くの山まで見えます!」

「ああ、双子山だね……とっても白い」

「双子山ですか? あっ、本当です! もう雪が積もっているのですね」


 外から見えない事を確認して安心したのか、初めての温泉にはしゃぐエミリーから、俺は目を離す事が出来なかった。流石に湯の中までは決して見ないように自制したが、湯に浮かび上がる2つの白い山から目を逸らす事は叶わなかった。温泉の熱さからくるものではない汗が流れ出る。このままここにいては大変な事になると、のぼせた振りをして先に湯船から上がろうとしたその時、その肩に手が掛かって押し留め、硬質な声が上がった。


「姫様」

「ハイ」


 終わった。そう思った。しかし観念しかけていた俺に掛けられたエミリーの言葉は予想外のものだった。


「そのままお湯に浸かり続けていて下さい。何者かに見られています」


 すみませんそれは多分俺です。


「恐らく目前の遮蔽となっている木のどれかに……そこっ!」


 エミリーが眼下にあった木のひとつに風呂桶を投げつける、すると、そこから大きな影がこちらに向かって飛び出してきた。


「姫様っ!」


 叫びが聞こえるや否や、守るように抱き寄せられ、視界が白く、柔らかなものに包まれる。生まれ変わった時のような暖かさに顔を包まれた俺の意識は遠くなり――


「大きな鳥……でしたか。すみません、お騒がせっ、ひ、姫様ぁー!?」


 湯に赤い花を咲かせたようだった。その顔は何故か安らかなものだったという。



「お加減は如何でしょうか?」

「ええ、大丈夫です。すこしのぼせてしまっただけですので。医者まで手配してくれてありがとう」


 別荘の一室。寝かされていたベッドから起き上がった俺を心配げに訊ねる町長を安心させるよう、にこやかに礼を返す。


「重ねて言いますがあなた方に責任はありません。私が寛ぎたいからと、自らの侍女のみを連れたのがそもそもの発端。この件はこれでおしまいにしましょう。念の為、私はもう少し横になる事にします」


 そう告げて町長に退出してもらった後、部屋の隅で消沈しているエミリーを側に呼んだ。


「エミリー。勿論君にも何の責任も無いよ」


 彼女が口を開く前に、前もって伝えたい事を告げる。


「ですが、私が勘違いした所為で姫様がっ!」

「勘違いじゃないんだ。あの時君を見ていたのは私だよ」

「姫、様が? どうしてです?」

「エミリーの肌が、初雪みたいで凄く綺麗だったから。ごめんね。不躾に見てしまって」

「い、いえ、光栄です……」


 そう謝ると、エミリーは恥ずかしがりながらもようやっと自分を責めるのを止めてくれた。


「目が覚めるまで側にいてくれてありがとう。あと少しだけ、お願いできるかな」

「はい。いつまででも、お側にいます」


 その雪のように見えながらも暖かな手を、ベッドの脇に出した自身の手に添えられながら、俺は再び眠りに就いた。


 数日間の滞在の後、俺達はアミーンへと戻った。滞在中に確認した黄色い石の存在は、俺にある事を考えさせたが、危険であると判断した為に開発を保留する。しかし知る由も無い事であったが、それを使わざるを得ない存在の出現が間近に迫っていた。

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