第11話 浮浪児たち 前編
王国暦三百七十六年の秋。俺が五歳となり、危なげなく歩き回れる様になった頃、ようやっと屋敷からの外出許可が父上から下りた。とはいっても行動を許されたのは都市アミーンの内部、そして都市外壁周辺の畑までだ。当然の事ながら護衛付きのお出かけである。
それでも俺は嬉しかった。館の中でこの世界の知識を蓄えてはいたものの、実際に目にしなければ分からない事は多々ある。この視察は、これから行うクラネッタ領の改革には決して外せないものだった。
そして外出の当日。子供用ながらシックな黒色のワンピースを着て、その上から風邪を引かないように白い羊毛のマフラーを首に巻かれた俺は、玄関先で見送る両親にいつもより弾んだ声で挨拶をした。
「それでは父上、母上、行って参りますっ」
「気をつけて行くようにな」
「日が暮れるまでには帰ってくるのですよ。マルセル小隊長、エミリー。エリザを頼みますね」
「はっ! この身にかえても姫様をお守りいたします!」
「お任せ下さい! 決して姫様のお側を離れません!」
母上の言葉にマルセルとエミリーが力強く答える。マルセルは十人からなる騎士小隊の隊長となっていた。今回の外出ではその小隊の者達が護衛役となる。
小隊長ともあって、マルセルの装備は背後に控える他の騎士達とは違っていた。隊員達が身に付けている革鎧の一部に板金が縫い付けられた、心臓などの臓器をより強固に守るラメールという鎧を着込んでいる。
そしてエミリーはパリッとしたモノトーンのメイド服を着こなしていた。八歳ごろから成長著しい彼女は、十歳の今では百五十センチ近くなっている。マルセルとの武術の訓練の成果で引き締まった体つきをしているものの、平均よりも膨らんだ胸など女性らしい部分もある。二本の白いリボンで纏められた、左右の胸元まで垂れる黒の前髪が、胸に押し出されて曲線を描く様に密かにどきりとさせられる事もしばしばであった。
「では姫様、失礼させて頂きます」
そう言ってエミリーが暖かな手で俺を抱き上げ、待機している四頭立ての箱型の馬車に慎重に乗り込む。以前の様な怪我を恐れてか、エミリーを初めとする家の者の俺に対するお世話は少々過保護な程になっていた。彼女達に心配をかけるのは本意ではない為、されるがままにしている。表情には出さないが、エミリーの柔らかな感触を楽しめるので役得とも思っていた。
「出発する!」
騎乗したマルセルが騎馬隊に号令を掛けると、騎馬に囲まれた馬車はゆっくりと動き出した。
◆
俺達の最初の視察目標は都市内のものではなく、都市周辺に広がるクラネッタ家直営の畑だった。最も効果的な改革を考えた時、先ず最初に思い浮かんだのが農業だ。貴族の収入の多くは、人口の九割を占める農民から納められている。そしてクラネッタ領はライネガルドの一大穀倉地帯である為、自分の知識を使った改革を行うならばここからだと考えていた。
賑やかな喧騒に溢れる領都アミーンの門を出て、周辺の畑に向かう。初めて乗る馬車の想像以上の揺れに驚き、日本とは全く違った石造りの町並みを楽しむ余裕は無かった。街中を
揺れが止まり、馬車の扉が開かれると、そこは遥か遠くの山々まで見渡せる広大な畑だった。エミリーの手を借り、踏み固められた黒土の農道に立つと、かすかに湿った土の匂いが鼻をくすぐる。
畑には多くの農夫が立ち入り、麦らしき作物の種を蒔いていた。別の場所では牛が放牧されている場所もあるようだ。気になる事があり、前世のような口調でエミリーに訊ねようとするも、俺の一挙一動を見守る騎士達が控えている事を思い出し、多少女の子らしい言い方に変えた。
「エミリー。あれは何を
「はい。小麦の
「ああ、あれが小麦の種籾なんだ」
前世において祖父の家庭菜園を手伝っていた事があったが、小麦を育てた事は無かった。目線を動かすと、種を蒔いていない畑があることに気付く。
「あっちの畑は殆ど人がいないようだけど、あそこでは小麦は作らないのかな」
「あちらは休閑地ですね。毎年同じ場所で小麦などの作物を作ると、大地の力が弱まって収穫が減ってしまうそうなのです。ですからああやって交代でお休みをさせているのですよ」
つまりは中世ヨーロッパで行われていた
『食』という生活の一部を重要視していた祖父の薫陶により、知識としては知っていたが、実際に目にすると感動もひとしおだった。そして、都市の生まれであるのに農業について詳しいエミリーに驚きも覚えた。
「それにしてもエミリー。農業について随分と詳しいようだけど、以前手伝いでもした事があるの?」
「いえ、農作業の経験はありません。ですが以前から姫様が畑を見たいと仰っていたので、休みの時に農家出身の先輩方に話を伺っていたのです」
「……ありがとう」
主人の言葉をしっかりと覚えていて、役に立とうと自らの意思で行動するエミリーの健気さに目頭が熱くなる。これから自分がどういった道を進むにしても、彼女だけは付いてきてくれるだろうと確信したのは、何気なく口にしていたその言葉を聞いた時だった。
途中昼の休憩を挟み、何人かの農夫達から農具などの説明を受けていると、何時の間にか日が傾きかけていた。
「姫様。今日はもう冷えてまいりました。アミーンをご覧になるのは翌日といたしましょう」
「そうだね。帰るとしよう」
エミリーの言葉に頷き、マルセルに目配せする。彼はきっちりとした礼を俺に返すと、周辺を警備していた騎士達に号令をかけた。
「アミーンへ帰還する。総員、撤収の準備にかかれ!」
察しの良い隊長と、迅速に帰り支度を始める騎士達の姿に満足げに頷いた後、農具の説明の為に残ってくれていた農夫達に向き直る。
「今日はありがとう。おかげで色々と知る事が出来ました」
「お姫様っ。もったいのうございます」
礼を言うと、彼らは膝を突き、恐縮しきって頭を下げた。だが前世において、下々の苦労も身を持って経験していた俺は、構わずに礼を重ねる。
「いいえ、耕す者あってのクラネッタです。あなた方が安心して耕作に励めるよう、私達も力を尽くします」
「ありがとうございます。ありがとうございます……」
土下座せんばかりに深いお辞儀になっていく彼らに困り果てた俺は、エミリーに目線で助け舟を求める。彼女は苦笑しつつ近づいて、俺をそっと抱き上げた。
「さあエリザベート様。お風邪を召すといけません。そろそろ馬車へ戻りましょう」
「うん。それでは」
エミリーに抱かれながら、農夫達に手を振る。彼らが益々深く頭を下げるのを見ながら俺は車上の人となった。
◆
「行かれたか」
「おう、もう馬車の音も聞こえん」
農夫の一人の問いかけにそう他の者が答えると、今まで膝を突き、頭を下げていた全員が弛緩したかのようにへたり込む。
「き、緊張したぁ」
一番歳若い農夫の言葉は、全員の気持ちを代弁していた。
「まさかお姫様がこんなところに来られるとは……」
「騎士様の先触れがあったとはいえ、実際にお姿を見たときは、皆腰を抜かしていたな」
「お前が一番驚いていただろうに」
「わしはついに神様のお迎えが来ちまったかと思ったよ」
神々しいまでの美しさをもったエリザを間近に見た老年の農夫の冗談に爆笑がおこった。滅多にない緊張状態から解き放たれた彼らは、そのまま地べたに座ったままエリザに対する世間話を始める。
「確かにお可愛らしい方だったなぁ。俺はあんな綺麗な子供を見たことがないよ」
「それだけじゃあない。あれほどの幼さで随分としっかりとしている。俺の息子も同じ位だが、洟ばっかり垂らしているぜ。やっぱり育ちの違いかね」
「いやいや、あれは
『てんせい』違いではあったが、否定した農夫の言はある意味真実を言い当てていた。日も沈みかけているというのに、エリザの愛らしさ、賢さに魅了された農夫達は口々に彼女を褒め称える。
「それにしても、俺達農民の事まで気にかけてくださるとは。公爵様も素晴らしい方だが、あの方はもっといい領主様になるな」
「女の子だから領主様はいくらなんでも無理だろう」
「まぁ、そうか」
「いいや。分からんぜ」
意味深な言葉を発した年若の農夫に、他の者の視線が集まる。
「そりゃ、どういうことだい」
「覚えてないのか? あの方の瞳の色とお名前を!」
「おお、そういやきらきらの金色だったなぁ。名前は……」
「エリザベート様だ。お付きの従者が言っていただろう」
若者の言葉に皆あっ、と声を挙げる。
「きっとあの姫様は女王エリザベート様の生まれ変わりだ。俺達は、とんでもない方にお声を掛けて頂いていたんだ」
「すげぇ! 俺らは将来の領主様、いや女王様と話してたのか!?」
「こ、腰が抜けちまった」
「わしゃもう死んでもいいかもしれん」
それぞれの反応を見せる農夫達であったが、皆エリザを好意的に捉えていた。実はそれは常々エリザの名を広めようとしているエミリーの、無意識下の宣伝工作の成果であった。彼らがエリザの姿とわけ隔てない態度に平伏しているタイミングで彼女の名前を呼んだのが今回はそれに当たる。純朴な彼らはその噂をそれぞれの家に持ち帰り、黄金色の瞳の姫の話を誇らしげに語った。そして後にエリザが実際に農業改革を行い、成果を上げた事で、その噂は彼ら農夫達の中で真実となり、そこから領内に爆発的に広まる事となるのだった。
◆
アミーンに到着した頃には、もう日も沈みかけていた。昼にはごった返していた人通りも殆ど無くなり、飲みに繰り出す男達がちらほらと見える位だ。
都市に入り速度を落とした馬車から行きは見る余裕のなかった町を眺めていると、道端に足を投げ出したまま動かない子供らしき姿が目に入った。
「馬車を止めてくれ!」
御者に叫び、急停止した馬車からエミリーの手を借りて降りる。そして足早にそこへ駆け寄った。
「おいっ。大丈夫か!」
声を掛けても痩せた子供はピクリとも動かない。年の頃は十二、三位の濃い青髪の少年で、垢と道の泥にまみれた、ぼろぼろの布切れのような服を来ていた。声を掛け続けているうちに、騎士達が近寄ってきた。
「姫様っ。如何なされましたか」
「この少年を馬車へ! 呼び掛けても返事がない。早く医者に見せなければ!」
慌てて彼らに指示をするが、困惑した顔つきをしたまま動こうとしない。
――何をしているんだこの者達は! 子供が目の前で死に掛けているんだぞ!
苛立ちを露にする俺に驚いたのか、その中の一人が声を掛けてきた。
「姫様。その子供は汚らわしい浮浪児です。先の農夫達とは違い、時たま盗みを働く問題児達です。なぜそのようなものまでお気にかけられるというのですか」
「何故この子自身が盗みを働いたと分かる! それにここはクラネッタの領都、アミーンだ。父が治めるこの地で、弱り、死に掛けている者を道に打ち捨てていいはずが無い。さあ、彼を馬車に乗せてくれ」
騎士を叱責し、彼らが納得できるよう理由をつけてまで命令を下しても、未だ彼らは躊躇っていた。領主の馬車に少年を乗せる事を戸惑っているようだ。そんな事を気にしている場合かと声を上げようとしたところへ、マルセルがやんわりと俺を諫めつつ、折衷案を申し出てきた
「かしこまりました。ですが姫様の警護をお任せされた私どもの立場では、得体の知れぬ者を姫様と同席させるわけには参りません。このマルセルの背に括り付け、領館まで運ばさせて頂いてもよろしいでしょうか」
「……すまない。貴方達の立場を考えていなかった。それで頼む。それと先触れを出し、医者を呼んでおいてくれ」
「承知!」
マルセルが少年を背負うと、そこにエミリーが馬車から持ってきた紐でてきぱきと固定した。二人には垢と泥で汚れた子供への嫌悪感も、差別的な眼差しもない。諫言をしながらも理解を示してくれたマルセルの忠義心をありがたく思い、そして主の意向を何も言わずとも汲んでくれるエミリーの姿を見て、畑で感じた彼女への信頼感がより強くなっていくのを感じた。
こうして極度の疲労と飢えに苛まれ、重い風邪を併発して死に掛けていた少年は、領館での看護により一命を取り留める事となった。
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