「莫迦、間抜け、ドジ、お調子者。だーれだ」


「うっ……俺です」


大正解グレイト


 アタシの言葉に、ハリーはばつが悪そうに顰め面になる。

 あの現場に居合わせたのはほとんど偶然だ。ちょっとした御遣いの帰り道にほんの少し近道をと思って裏通りに入ったら、なんだか昔馴染みの孤児が我が物顔で目の前を走りぬけていったのが気になって後を追けただけ。

 そしたら何やら厄介事の気配がした。

 だから身を隠して様子を窺っていたのだが……案の定、ハリーは問題トラブルにぶち当たっていたのである。

 助けたのは成り行きだった。一瞬見捨ててもいいかと思った。どうせ身から出た錆ってやつだろうし、たまには痛い目にあってみるのも社会勉強かも――なんて思ったりもしたのだ。最初は。

 だけどハリーがナイフを抜いた瞬間、アタシはその場で呆気に取られてしまう。何せそれは完全に悪手だった。相手が何にも知らない旅行者だったり、ちょっと正義感を働かせた間抜けとかならまあいい手かもしれない。だけど、ハリーと対峙していた男は悠然と構えていた。その時点で気づくべきなのに、ハリーは相手がただの旅行者と侮って調子づいていたのが悪かった。

 コートの男は不敵に笑って――そしてい、つの間にかその手に短剣を握っていた。すごい速さで、様子を窺っていたアタシでさえ手品か何かと思ったほど。

 救いだったのは、男の人はそれ以上何かをする気がなかったらしいってことだ。

 もしあの人が本気になっていたら、ハリーなんて瞬きしている間に殺されていたかもしれない。

 そうならなかったのは、本当に運が良かったからだ。


「というか、ハリーさ。懲りずにまた掏ってたんだ」


「またって言うな! 今日はたまたまそういう日だっただけで――」


「何にしても、孤児院ホーム院長マザーと掏摸はしないって約束してなかったっけ?」


「うぐっ……そうだけど、さぁ」


 きまり悪そうに視線をそらすハリーに、私は呆れてため息をついた。


「あとさー、ハリー下手糞だよね」


「なっ!? 俺の何が下手だってんだよ!」ハリーは顔を赤くしながら叫んだ。


「――掏るの。標的を見定めるのも。周りの注目も集めてた。あとハリー自身は注意力、低い?」


 アタシは思ったままに言葉を口にした。一つ指摘するたびに、ハリーは「うぐっ」とか「ぐえっ」と潰れたカエルのような声を上げた。これはなかなか面白い。


「それに脅す手段も悪い。あと、喧嘩を売る相手も間違ってるっしょ。あのおにーさんがなんもする気なかったから今も無事だってこと、判ってる?」


「うえ、マジで?」


「うん、マジで」


 アタシはしっかり頷いて見せておいた。そうしないと、この莫迦はきっと理解しないから。


「あのおにーさん、たぶんかなーり腕が立つよ。それこそアンタなんて赤ん坊の手をひねるより簡単にやられちゃうくらいに」


「うげっ、ギャングか何かかよ」


「かもねー」


 アタシは適当に相槌を打つ。ハリーの言うことももっともだ。実際、ナイフを手にした相手を――たとえそれが子供であったとして――眉一つ動かさず泰然自若とできる人間が一般人カタギだとは思えない。

 と同時に、私はあの男の人の姿を思い出す。

 あの不敵な笑みと、まるでハリーを恐れなかった様子は、ほんの少し荒事に慣れている――なんて雰囲気じゃなかった。


(……あれはギャングっていうより――)


 もっとこう、すごい争いごとに慣れているような。職業軍人マーセナリーのような人間が纏っている雰囲気に似ていた。

 だけど、彼の姿は若かった。アタシよりも少し年上くらい。

 そんな人が、戦争を生業にいているとは考えにくくて。


「うーん、判らん」


 アタシは考えを放棄するようにそう零して、ポンとハリーの頭を叩いた。


「痛い! 何するんだよ、リズィ姉ちゃん」


「ハリーのせいで脳みそ使ったから、その仕返し」


「理不尽!」


「うるさいなー。それあげるからおとなしくしなよ。院長には、道案内のお礼とでも言えばいいし」


「へ?」アタシの言葉にハリーは間抜けな顔をして頭の上に叩きつけた札束を手に取った。「うお! すげー大金!」と目を丸くするハリーに「あのおにーさんが持ってたやつだよ」と言っておく。掏摸は悪いことと説教しておきながら、アタシ自身同じことをしているんだから実に締まらないお説教だった。


「へへ! サンキュー、リズィ姉。あ、リズィ姉は孤児院に寄っていかないの?」


「残念だけど。アタシ、御遣いの途中だから。帰って報告」


 ――しないといけないからね。と最後まで言うのは面倒くさくなって、アタシはぽんぽんとハリーの頭を叩いた。


「だから叩くなっての! あと、途中でしゃべるの面倒くさくなる癖いい加減直せよー」


「はいはい」


 アタシは適当に頷いて、もう一度ハリーの頭を叩いて「それじゃ、院長さんによろしくね」と言って近くの壁の出っ張りに足を掛けて、手を掛けて、するすると壁を登ってその場を後にする。すると、


「リズィ姉、パンツ見えてる! 見えてるから!」


 という、やたら必死なハリーの叫び声が聞こえてきた気がしたけど、アタシは気にせず屋上に立って、街区の屋根を伝って走り出した。

 風を切って疾駆はしる。

 景色を置き去りにして、アタシは屋根から屋根をひょいひょいと飛び移っていく。

 誰にも邪魔されず、周りを気にすることなく走れる屋根の上このばしょが好きだ。

 そんなことを思いながら、目的地に向かって殆ど一直線に走る。迷路のように広がるロンドンの路地も、屋根の上では無意味だ。

 にやっと、口の端を釣り上げてアタシは走った。

 灰色の空。蒸気が満ちるロンドンの空の下を、アタシは気ままに走り抜けていく。

 そうしてあっという間に店の近くにたどり着き、アタシは登った時と同じように壁の出っ張りやパイプなどを手掛かりにするすると地上に降りて行って。

 コートに着いた埃やら煤やらを手で叩いて落としながら店のドアを開けた。


「ただいまー」


 間延びした声に返事はない。

 それはいつものことだ。

 店主は無口で愛想がない厳めしいおっさんである。挨拶にうるさいくせに、自分は無口ってどういうことなんだろうなぁなんて考えながら店主を探し――どうやら、返事がなかったのは来客中だったからだと理解する。

 店の奥――工房のほうで店主が誰かと話をしていた。アタシはひょいと中を覗き込み、


「あれ、院長?」


 店主と対面している人物を見て、首を傾げた。

 初老で丸眼鏡をかけた、質素な服に身を包んだ女性。其処にいたのは、つい先ほどハリーとの会話の中に何度も出て来た孤児院の院長その人だ。

 アタシの声で気づいたのか、二人が揃ってアタシを見た。店主のほうは相変わらずの顰め面だが、院長のほうは花が咲いたように表情を綻ばせて、


「ああ、リズィ! お帰りなさい。最近顔を出してくれないからどうしているのかと思っていたのよ。でも、見たところ元気そうね。ちょっと安心したわ」


「うん。アタシは元気だよ、院長。でもどうしたん? 店に来るなんて珍しい」


「そうね。でも、少しミスター・アレック……店主オーナーさんと話をしておかないといけないことがあったから」


「ふーん」


 頬に手を当てて首を傾げる院長に、アタシは適当に相槌を打つ。店主の名前ってアレックだったのか。知らなかったな。なんて考えていると、そんなアタシをじろりと見据える店主と目が合った。その視線が「さっさと報告しろ」と言葉よりも如実に語っているのに気づき、アタシは溜め息交じりに肩を竦める。


「ちゃんと届けてきた。あと――ほい」


 言いながら、アタシは腰の鞄ポーチから包みを取り出す。届け先から受け取った代金の入ったそれを受け取り、店主は「ご苦労」と短い労いの言葉を投げて寄越し、


「直に、店じまいだ。今日はもう帰っていいぞ」


「ういっす」


 低い店主の言葉にアタシは頷いた。壁にある時計を見ると、いつもより少し早い上がりだった。早めの晩御飯を食べに大衆食堂にでも行こうかなー、なんて考える。


「あ、待って。リズィ」


 トコトコと荷物を取りに行こうとしたアタシを、院長が呼び止める。アタシは「ん?」と振り返った。


「最近ね、変な噂話をよく耳にするの。霧の深い夜に出歩くと、行方不明になるって。聞いたことはない?」


 その噂なら、何度か聞いたことがあった。


(えーと、なんだっけ? 確か――)



 

 深い霧が立ち込める夜、出歩いていた人がいなくなる。

 いなくなった誰かは、別の日の霧の夜に街を彷徨っている。

 だけど、それはもう別の人。

 その人であって、その人ではない。

 心を失った彷徨う存在レヴェナント

 魂を失った彷徨う存在。

 霧の夜に攫われて、霧の夜を歩く生きた亡霊レヴェナント

 霧の夜に喰われて、霧の夜に迷う哀れな亡者レヴェナント

 深い霧が立ち込める夜、決して外に出てはいけない。

 いなくなった誰かに出会ったら、今度は貴方がいなくなる。

 次に貴方がいなくなったら、次は貴方が別の人になるからレヴェナント




(――……だっけ?)


 最近よく聞く、まるで語り歌のような噂話。

 実に現実味のない話だった。確かに霧の夜は危ないし、ホワイトチャペルの特にひどい場所なんかになれば、人攫いなんかもいると聞くけど――流石にお粗末チープすぎると聞き流していたやつ。

 アタシはそう見切りをつけていた話なのだが、どうやら院長のほうはそうではなかったみたいで。


「実際、院の近くでも人がいなくなっているし……貴女の周りはは大丈夫? 変な事件とか起きていないかしら?」


 院長の言葉に、アタシは「んー」と唸りながら記憶を辿ってみる。

 だけどアタシの近所付き合いというのはなかなかに希薄で、オンボロの集合住宅アパルトメントは人の出入りも激しいからあまり気にしたことはなかった。


「あんまり聞かないなぁ。それに孤児院のある貧民街じゃ、人がいなくなるなんて珍しくないんじゃ?」


「そうだけどね。でも、気を付けておくに越したことはないと思うわ。夜遅くに一人で出歩くのは控えてね。そうでなくとも、リズィ。貴女は女の子なんですから――」


「――あ、うん。判った。気を付ける」


 話が長くなりそうな気配を感じて、アタシは早々に話を切り上げるために取り敢えず納得したふりをして頷いておくことにした。だって院長、説教長いし。

「本当に大丈夫かしら……」という院長の心配する声を余所に、アタシはいそいそと受付の隅に置いておいた肩下げ鞄を手に取って、「そいじゃ、また――」明日とまで言い切らずに店を後にした。

「最後までちゃんと言わんか……」という、呆れた様子の店主の声が聞こえたような気もするけど、アタシは聞こえないふりをして颯爽と店を後にした。


 ――そう。このときアタシは、院長の言葉なんて気にも留めていなかったのだ。


 もしも――

 もしもこの時、アタシが院長の言葉をもしっかりと気に留めていれば。

 もしも――

 もしもこの時、アタシがもっとたくさんのことを気にかけてさえいれば。

 なにか。


 なにか、結果は違っていたのかな? 







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