――ゴゥンゴゥンゴゥン

 今日も大機関の音が何処からともなく鳴り響く。天気は最近にしては珍しい晴れ模様。機関式音声放送機エンジン・ラジオでおなじみとなった司会者もそう言っていたからまず間違いない。尤も、ロンドンの晴れというのは、灰色雲が薄くなり、普段よりいくばくか明るい――という程度の違いなのだが、それでも晴れと感じる辺り、だいぶこの都市に染まってきたようだと他人事のようにトバリは思う。


――『怪奇! 発条バネ足ジャック再びか!』――


「――発条足のジャックねぇ。確か一昔前にロンドンを騒がせたやつか。これが極東だったら発条足一郎とか、発条足権兵衛になるのか? やべぇ、語呂悪いなぁ」


 居候している集合住宅の一室。その客間兼書斎でそんなことをぼやきながら大衆新聞に書かれている見出しの一つを適当に眺めていると、奥の部屋からけたたましい騒音が聞こえてきた。そしてその音が徐々に大きくなっていくことに気づくと、トバリはそっと紅茶のカップを手に取り、長椅子から立ち上がった。以前使っていたカップを壊してしまったとき、そのカップが一つで数十万もする品だと後から知って以来、トバリはこの家の食器を使う際は細心の注意を配っている。そして今はまさに、その細心の注意が必要となる瞬間だった。

 この音は碌でもないことの前触れだ。主にこの客間兼書斎にいる人間が被害を被る類の――即ち、現状被害を被るのは間違いなく自分であることを理解しているトバリは、そそくさと部屋の隅まで歩き、隣の部屋に通じる扉を開いて身を隠した。

 そして腰を下ろして手にしている紅茶を一口つけた――その瞬間、まるで爆薬が吹き飛んだかのような轟音が襲った。

 今しがた開け閉めをした扉が、黒煙を引き連れながら吹き飛んでいく様を何処か夢うつつの出来事のように眺めるトバリだったが、そうは問屋が卸さない。


「ゲホッ! ぐはっ……トバ――ゲホッ! トバリ! 何処にいる? 今すぐ窓を開けてくれ! 煙……ゴフッ! 煙で何も見えないのだ!」


 煙の向こうから、雇い主様が必死の思いで名を呼んでいた。トバリはやれやれと溜め息を零しながら、とりあえず手近にあった窓を開ける。締め切っていた空間に新鮮な空気が入り込み、入れ替わるように隣室から吐き出されていた煙が窓の外へ排出されていった。

 やがて室内の煙が薄れて、漸く視界が開けた頃、トバリは空になったカップと読みかけの新聞を手に書斎に戻る。其処には若干焦げ臭くなった紳士が一人立っていた。


「――よう、ヴィンセント。随分男前になったな」


「ゲホッ……うぐ。失礼だな、これでも昔は社交界を騒がせた美男子だったのだ。男前で当然だろう」


 何処かとぼけた返事を返す雇い主にして古の錬金術師――ヴィンセント・サン=ジェルマンは、衣服に着いた煤やら灰やらを手で叩きながら肩を竦めて見せる。「そういう冗談いらねーから」と嘆息しつつ、トバリは書斎の奥にある扉に視線を向けた。その扉は、ヴィンセントの研究室に繋がるもので、今は書斎すら飲み込んだ凄まじい黒煙を吐き出している最中である。


「今度はなにやってたんだ?」


「なーに。ちょっとした装置を作っていたのだよ。まああれだ。機関式の武器だ」


 彼はこともなげに言い放つ。しかし一言に機関式の武器というが、作っているのは稀代の怪人であり、並外れた知識を持つ錬金術師である。どうせ碌でもないものを拵えているのは想像に難くない。


「……なんでもいいが、失敗して爆発させるのは勘弁してくれ。いちいち非難するこっちの身にもなれよ」


「こんな予定ではなかったんだがな……どうやら配線を間違えたらしい。いやはや、流石は今の社会の基盤とされる機械――なかなか言うことを聞いてはくれない。まったく興味深い限りだよ」


「その現代社会の基盤たる機関を、たった数カ月で自作し始められちゃあ、先人たちは立つ瀬がないな」


 新しい紅茶を淹れ直しながら、トバリは呆れ顔でそうぼやく。そんなトバリのぼやきを余所に、ヴィンセントは苦笑いしながら執務机レゾリュートデスクの上を舞う羊皮紙やら新聞の記事やらを拾い集め、そしてふと思い出したように言った。


「そう言えば、この前修繕に出した君のコート、そろそろ直っている頃だな」


「あー……そういえばもうそんな日取りか」


 言われてトバリも思い出す。愛用していたコートは、ヴィンセントの引き受けた無理難題な仕事ビズのせいで、見るも無残なことになったのだ。今使っている黒いフーデットコートは修繕している間の代替品である。使い勝手は悪くないのだが、やはり請負屋の仕事ランナー・ビズをするときはあのコートのほうが色々便利だったりするのだ。「――そういや、あの店の店番してた娘にこの間会ったぜ?」


 コートを預けた仕立屋のことを考えていると、芋づる式に数日前の出来事を思い出す。


「店で見たときはぼけっとしてるように見えたんだがな。ありゃなかなかの食わせ物だぜ」


「アレックのところのか? その口ぶりからすると、何か一悶着あったのかな?」


「ポケットの中身を掏られた」


「ほっほっ!」


 簡潔に告げると、ヴィンセントは猛禽の如き目を丸く見開いて声を上げる。


「君ほどの手練れが! 近づかれたことに気づかず、挙句に衣嚢の中身を盗まれるとは! なかなかその娘、腕が立つじゃあないか」


「あー……まあ、別のを相手にしてて油断してたのは認めるさ」


「そんな風に、自分の失態ミスをしっかりと認識できるところが君の美徳だ」


 微笑するヴィンセントに、トバリは言葉を口にし難い気持ちになって柳眉を顰めた。「そういうのはいらねぇよ」と悪態を零しつつ、トバリはカップを長テーブルの上に置いてヴィンセントを一瞥する。


「なんでもいいけど、そろそろ仕上がるんなら受け取りに行こうぜ? どうにもあれじゃないと身が引き締まらない」


 言うと、ヴィンセントは納得した様子で鷹揚に頷いた。


「衣装というのは職務においては非常に重要な要素の一つ。その人物を象徴するものだ。ましてや君は、鋼鉄の怪物を狩る鮮血の狩人――黒衣では様にならないというものだよ」


「まあその狩人の象徴は、誰かさんの無茶ぶりに次ぐ無茶ぶりによって風穴開いちまったんだがな」


 皮肉と共に口の端を釣り上げる。「だから然るべき店でしっかりと直してもらうのだろう……」と、ヴィンセントは僅かに視線を逸らして咳払い一つ零し、


「兎に角だ。最近やけに大人しい気がする。何かの前触れかもしれないな。急ぐように一報入れるか……」


 そう言って機関式電信機エンジンフォンの受話器を手に取ってダイヤルを回した。その様子を端目に、トバリは読みかけの新聞に改めて目を通す。

 先ほどの発条足ジャックの記事だ。

 どうやら二週間前から、郊外や貧民街のほうで三〇を超える目撃情報が上がっていたのだそうだ。しかしロンドン警視庁スコットランド・ヤードの対応は見回りの強化のみで、大した捜査はされていなかったらしい。

 しかし数日前、ついにロンドンの中心区でも目撃情報が上がったことによって、ロンドン警視庁は重い腰を上げて本格的な調査に乗り出したらしい。しかし未だ目に見えた成果は上がっていない――という内容だ。


(――そんな奴、本当にいるのか? って、そういや俺も二代目なんて一時期言われてたわ)


 ロンドンにやってきて間もない頃の自分を思い出して苦笑を零していると。


「――トバリ」


 緊張を孕んだ声で名を呼ばれ、トバリは新聞から視線をゆっくりとヴィンセントへ向けた。

 視線の先では、丁度受話器を元に戻したヴィンセントがにんまりと微笑んでいる。それはまるで物語に登場する悪役ヴィランのような微笑だ。

 それは彼にとって面白みのある展開が起きていることを意味している。そして、トバリにとっては面倒な厄介ごとが降って湧いたこととイコールだ。

 言葉なく、視線だけで「何だ?」と言葉を促す。ヴィンセントは笑みを深めながら口を開いた。


「――仕事ビズだ。場所は貧民街近くの孤児院。其処の院長含めた孤児十七人が死んでいるのが発見された。現場は半壊状態。死体のほとんどが原形を留めておらず、凄惨極まりない状況だそうだ。ヤードたちは労働種の仕業と考えているらしいが……」


「お前はそうは思わない?」


「私はそう考えているよ。しかも聞く話によれば、その孤児院の孤児が一人、事件の二日前に行方不明になっている。賢明なレストレードならばすぐに判るだろう。これは、労働種の仕業でもなければ、ヤード如きがどうこうできる事件ではないとね」


 ヴィンセントが口にした言葉をしっかりと頭の中で整理して噛み砕き、トバリは僅かに視線を鋭くしながら言った。


「……奴らか」


「だろうな。言っただろう。何かの前触れかもしれない――と」


 くつくつと笑うヴィンセントに、トバリはうんざりとした様子で立ち上がる。


「楽しそうに笑うなよ、ったく。っていうか、なんで仕立屋に連絡したはずなのに、そんな物騒な話が舞い込むんだよ」


「アレックは孤児院と懇意だった。余った生地などで服を作り、提供していたんだよ」


「あのオッサンの義理人情に乾杯。今どきなかなかお目にかかれない善行だな」


 ヴィンセントが差し出す紙片メモを受け取りながら、肩を竦めてそう苦笑を零す。

 メモに書かれている住所と頭の中のロンドンの地図を照らし合わせながら、さてどうやって行くかと考えながら踵を返す。その背に、「ああ、それと――」とヴィンセントが声を掛けた。

「なんだよ。まだ何かあるのか?」と首を傾げる。ヴィンセントは頷きながら言った。


「なんでも、アレックの雇っていた店番の娘。彼女もその孤児院の出身らしくてな。事件の話を聞いたら飛び出していったそうだ。可能ならば探してくれ、と頼まれている」


「……それも仕事ビズ?」


「勿論。これも仕事ビズだ」


 満面の笑みで頷くヴィンセントの言葉に、トバリは辟易した気持ちで天井を仰ぎ、十秒近く溜め息を吐いてから「……りょーかい」と諦めの科白を零したのである。




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