「――ったく、なんで俺が買い物に出なきゃならねーんだよ……」


 二人分の食料三日分の入った紙袋を抱えて、トバリは盛大に溜め息を吐きながらそんな愚痴を零した。

 ロンドンに来て早数カ月。住み慣れない土地での生活に漸く慣れてきたはいいのだが、この国の食事事情にはほとほと困っていた。

 食材をそのまま焼くか、そのまま煮込むか、そのまま揚げるかの三択しかないなど、始めて料理を口にしたときは文化圏の違いによる衝撃カルチャーショックを受けたほどだ。味付けも特になく、調味料は各自のお好みにセルフサービスと言わんばかりにただ横に置かれているなど、なかなかに信じがたい絵面を見せられた時には思わず店に火でもつけてやろうかと半ば本気で考えたくらいである。

 しかも同居人はさもそれを当然のように食べているのだ。そんな食事が何日も続いた結果、トバリは早々に外食に見切りをつけた。だってどんなに取り繕ったところで、不味いものは不味いのだ。


 そうした諸々の結果、トバリは慣れぬこの国で自炊することを余儀なくされたのである。 

 幸い同居人はそのことに特に異を唱えることはなかった。それどころか「ちゃんとした味のある美味しいものが食べられるのならば是非に」と、ちゃっかり丸投げする有様だった。


(まあ……住み込みで給料も出て、しかも食事も自炊とはいえ食えるんだから、文句は言えねーけどさぁ)


 自分がこの国に来た当初の目的が疎か気味になっているのは否めなかった。この国に来た理由は、ずばり人探しである。だが此処まで長期化するとは思っていなかったのだ。早々にケリをつけてさっさと帰国する程度の気持ちでいたのだが、世の中そう上手くはいかないのが現実だ。ロンドンは広く、また常に人の出入りが激しい都市。所在の知れない人間一人を探すのはかなりの難題だった。


「……気長にやるしかねーのかなぁ」


 溜め息一つ零し、それはまあ仕方がないかと自分に言い聞かせて、帰路につこうとした時だ。



「――待て! 待たんか! この小汚い盗人が!」



 背後から、野太い怒声が聞こえてきた。

「何事だよ」と思って振り返ると、遠くで肥満体質の高そうな服に身を包んだ男が顔を真っ赤にして走る姿が見えた。いや、本人は走っているつもりなのだろうが、傍から見れば歩いているのと大差ない速度だった。

 いや、それはさておいて。

 自分と同じように、男の声に何事かと振り替える通行人たち。その間を低い姿勢で縫うようにこちらに向かって擦り抜けてくる人影を見つけた。随分と襤褸い服を着た、長い襟巻の子供だった。


(……なるほどな)


 大体の事情を察し、トバリは少年が背後を窺ったタイミングでひょいと僅かに立ち位置をずらした。すると、走っていた少年とほんのわずかにぶつかる。


(――これか)


 ぶつかった瞬間、少年の服に硬い感触を見つけてするりと引き抜く。

 同時にぶつかった少年を振り返り「おっと。気を付けろよ」と睨みつける。「ごめんなさーい!」という、実に言葉ばかりの謝罪が返ってきて、その姿はすぐ脇にあった路地の向こうへと消えた。


(五十歩百歩だな……)


 その背中を見送りながら、トバリは手の中の財布を見てそう思いながら苦笑する。

 其処で漸く、顔を真っ赤にしながら走っていた男が追いついてきた。


「くそ……何処に、行き……おった……のだ」


 全身で息をしながら周囲を見回す男に、トバリはひょいと近づいて財布を差し出した。


「探し物はこれか?」


「――ん? なんだ貴様……って! それは私の財布!? お前、取り戻してくれたのか!」


「偶然、子供が落としていったんだよ」


 勿論嘘だが、そんなことは男に理解できないだろう。実際、男は財布を受け取るとトバリの言葉をすぐに信じて喜んだ。


「おお! なんにしてもありがたい! 君、これは礼だ。取っておいてくれたまえ」


 そう言って、男は財布から紙幣を十枚ほど手渡してきた。ちらりと財布を覗けば、財布が膨れ上がるくらいに札束が入っている。そりゃ掏児に狙われるわけだ、とトバリは内心呆れつつも紙幣を受け取っておく。男は「感謝するよ、若いの」と、喜々として踵を返していった。掏児のことなどもう頭にないらしい。トバリは呆れて嘆息を零し――代わりに、視線を先ほどの掏児が駆け込んだ路地に向けた。


「……さて、どうなってることか」


 ほんの少し興味がわいて、トバリは路地に踏み入った。薄暗い路地だ。人の姿は人っ子一人見当たらず、先ほどの少年の影も形もない。トバリは視線を僅かに下げた。路地の地面には煤が降り積もっていて、煤には真新しい小さな足跡が残っている。これでは見つけてくださいと言っているようなものだ。


「もうちょっと隠そうとしろよ――って、ガキに言うのは酷か」


 にっ、と口の端を釣り上げて、トバリは悠々と路地を進んだ。確かに足は速かったが、所詮は子供の足。路地を数度曲がった先に、少年の姿を見つけた。どうやら丁度検品するところだったようで、彼は手にした馬鈴薯を見て呆けているのが見えた。財布を掏った代わりにと入れておいたものだ。重さだけなら似たようなものだったから気づかなかったのだろう。馬鈴薯を手に得意顔した瞬間はなかなかに滑稽だった。


「――財布なら、もうおっさんのところに戻ってるぜ?」


 そう、何気なく声を掛ける。すると少年は面白いぐらい肩を強張らせてこちらを振り返った。その表情は『どうしてお前が此処にいるんだ?』と言葉以上に如実に彼の身上を物語っている。


「なんで俺が此処にいるのか、って聞きたそうな顔してるな。答えは簡単。お前の後をつけたから。理由はそうだな――お前の手にある馬鈴薯を返してもらいたいってところか」


「これ、お前の仕業なのかよ! 俺の財布は何処にやった!?」


「勿論、持ち主に返した。別に無視してもよかったんだけど、面白そうだったからつい――な。掏るのは得意でも、掏られるのには慣れてなかったみたいだな」


「バ、バカにしやがって……!」


 トバリの言葉に、少年は怒りを露わにした。この程度の挑発で簡単に煽られる辺りは年相応のようだった。のだが、


「――あのさぁ。あんまり俺を舐めんなよ、外国人」


 チャキ――という軽い金属音。ふと目を凝らしてよく見れば、少年の手にはナイフが握られていた。少年は手に取ったナイフを得意げに手の上で転がし、見せびらかすように刃をこちらに向けて来たのである。


「――何しに来たのか知らないけどさ。此処が何処か判ってんの? 掃き溜め通りローグ・ストリートだぜ。お綺麗な服や金とは縁のない奴らの住処なんだ。何処の国から来たのかは知らないけどさ……興味本位で足踏み入れたら、痛い目見るぞ?」


 随分と堂に入った脅し文句だった。そして実に的を射た言葉でもあり、少年自身そのナイフを構えた姿勢は、脅し文句も相まって充分様になっていた。ロンドンの事情を知らないただの旅行客なら、裸足で逃げ出すかもしれない。


「ご忠告痛み入るよ、少年。で、そんな物騒なものを振り翳して何をするんだ?」


「なんだよ、はったりだ思ってるのか?」


「いいや、そんなことはないけどさ」


 鋭い視線を向けてくる少年に対し、トバリは肩を竦めて微苦笑する。余裕の態度を崩すことはない。何せその程度の脅しなら、トバリにとっては日常と言っても過言でないのだ。

 一歩、前に出る。不敵な笑みを崩さずに、意識してゆっくりと少年へ近づいた。

 対して、少年が一歩下がる。険しい表情で視線をより鋭いものに変えて「近づくんじゃねーぞ」と声を荒げる。だけど、こちらを見る目には間違いなく焦りの色が窺えた。


「そう怖い顔するなよ。あんまり凄まれると――」


 科白を零しながら、左手を閃かせる。

 黒いコートの裾が揺れる。

 所作としてはそれくらい。

 だが次の瞬間には――何も握られていなかった左手に、一瞬にして片刃の短剣が握られていた。


「――こっちも勢い余って抜いちまうだろうが」


 そう言うと、少年の顔色が目に見えて青褪める。

 まあそうだろう。何せ凄んで見せたところで、少年は掏児である。脅すことに慣れていても、こうも露骨に敵対される経験はそう多くはあるまい。

 勿論、トバリのほうにはそれ以上何かをするつもりはない。ないのだが……少年の反応に、ほんの少し悪戯心がくすぐられたのも確かだが。

(さーて、どうしたもんかねぇ)

 ついつい勢いで得物を抜いてしまったのだが……そのあとどうするのかは考えていなかった。少年の表情は焦りと緊張でいまにも襲いかかって来そうな始末。

 ちょっとからかいすぎたかと反省しつつ、そろそろ本格的にどうにかしよう――なんて考えていたときである。



「――あ、隙あり」



 そんな覇気の声と、共に。

 突然、気配が出現した。

 ぞわりと背筋に走る悪寒。気配はすぐ傍――頭上から!


(――マジかよっ!)


 此処まで気づかれずに接近されたのは久しぶりだった。

 翻すように頭上を仰ぐ。同時に何かが背後に着地した――のを察した瞬間、殆ど反射で左手を一閃!

 白銀の軌跡が虚空を疾る!

 手応えはなし。代わりにするりと脇をすり抜けていく影一つ。


「ほら、走って」


 声を追って視線を戻せば、少年と共に走り去っていく小柄な姿が映った。暗がりだが捉えた姿。鮮やかな朱色の髪を短く切り揃えて帽子を被った少女だ。


「――これ、貰ってく」


 走りながら捨て科白と共にひょいと、掲げた手に握られているのは紙幣の束だ。先ほど男から貰った謝礼である。確認してみれば、確かにコートのポケットに入れていた札束はなくなっていた。

 実に鮮やかな手腕だった。思わず感心して目を見張ってしまう。その間に、少女は少年を引き連れて路地の向こうへと姿を消した。

 取り残されたトバリはというと――暫くその場で呆然と立ち尽くし、やがて所在をなくした短剣をコートの裏にしまって、


「お見事――の一言だな」


 まさかああもあっさり背後を取られるなんて、思ってもみなかった。それに掏摸としての技術もかなりのものだった。見せられるまで全く気づけなかった。周囲の警戒を緩めていたつもりはなかったのだが、どうやら相手のほうが予想以上に上手だったようである。

 やれやれと溜め息を零し、トバリは買い物袋を手に踵を返す。取られた札束に関しては、別段気にしていなかった。元々降って湧いたような金である。自前の財布は無事なら、損得はない。

 そんなことを考えながら歩き、表通りに戻ってきた辺りで、


「――ん?」


 ふと、脳裏を過ぎるのは、先ほど少年と走り去っていったもう一人のほう。

 目深にかぶった帽子で顔はいまいちはっきりとしないが、帽子から覗いた明るめの朱色の髪を含め、何処かで見覚えがあった。


「……あー」


 記憶を辿って、そういえばと思い出す。

 会ったのはつい最近だ。

 今着ている黒のコートとは異なる――愛用のコート。その修繕を頼んだ店で、そういえば。

 トバリはなんとなしに立ち止まって、今出て来た路地を振り返る。そしてうっすらと口の端を釣り上げて、


「――変なところで会うもんだなぁ」


 そう、楽しげに言葉を零した。




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