蒸気機関大国たる大英帝国。その栄光なれり首都ロンドンの空は今日も灰色の雲に覆われている。発展した蒸気機関が生み出す大量の排煙が空を覆っているからだ。

 その空の下の英国市民の営みは変わらない。人の往来は相変わらず。悪天によって降る排煙から身を守るように外套を頭から被った人々が、あるいは傘を差す人々が行きつ行かれつ。天を衝くような無数の高層建造物が立ち並び、機関式自動四輪ガーニーが蒸気を吐き出し、けたたましい駆動音を響かせて走り抜け、蒸気馬スチームホースに引かれた馬車が大通りを闊歩する。都市に張り巡らせた無数の線路を、幾つもの蒸気機関車が黒煙を吹きながら客車を運び、回転羽根付飛行機ダ・ヴィンチ=フライトや機関飛行船が灰色雲の下を飛び交う、まるで混沌を絵に描いたような在り様――それはいつも通りのロンドンの姿だ。

 そして、ロンドンの裏路地もまたいつも通り、虚脱と悪徳に満ちている。

 華々しいロンドン中枢地区シティ・オブ・ロンドンだろうが、貧困と病悪に満ちるホワイトチャペル地区だろうが、それは同じこと。輝かしい表舞台の裏側には、いつだって光を浴びることのない日陰者たちがいるように。少し人目の届かなくなれば、暴力に恐喝。窃盗に密売。浮浪者に娼婦。果てには労働種の売買まで――文字通りなんだってある。

 ましてや掏摸スリなどこの都市では茶飯事だ。

 被害者の多くは身形の綺麗な富裕層や、遠方からやって来た外国人の旅行客など。

 対して加害者の多くは、発達した蒸気機関や労働主たちの登場によって仕事に失った失業者だったり、親のない浮浪児だったり、掏摸を専門とする掏児など、多岐に渡るだろう。それは発展と共に肥大化した貧富の差が齎す、繁栄の弊害とも言えるだろう。

 そして――



「――待て! 待たんか! この小汚い盗人が!」



 今日もまた、ロンドンの何処かでそんな声が響く。

 身形の良い、そしてこれまた恰幅も宜しい男の怒号に、通りを歩く人々は何事かと振り返る。そして、そんな彼らの間を縫うように、影が一人駆け抜けていく。

 こちらの格好は、お世辞にも小奇麗とは言い難い。どちらかといえば、そう。全身薄汚れていて、襤褸の服を着た――浮浪児という言葉が適する子供だ。

 少年は得意げに笑みを浮かべ、追ってくる男を何度か振り返る。顔を真っ赤にしながら追いかけてくる男の体格と人込みが相まって、二人の距離は見る見るうちに開いていった。

 最早捕まることはないないだろうと、少年は口元を歪める。

 すると、


「――おっと。気を付けろよ」


 走っていた最中、誰かにぶつかった。振り返ってみると、買い物の帰りらしい若い男の姿が見えた。鋭い視線でこちらを睨んでいるものの、それ以上何かする様子もなかったので、「ごめんなさーい!」と誠意のない詫びの言葉だけを残し、少年は近くの路地に駆け込んだ。

 狭い路地を走って右に左に。更に右に曲がって一気に駆け抜けて――漸く追ってくる気配がなくなった。足を止めて息を整える。


「――へっ、ざまぁみろ。金持ちめ」


 擦れた科白を零して、必死に追いかけてきていた男の顔を思い出す。顔を真っ赤にし、汗だくになりながら追ってきた姿はなかなかに滑稽だった。


「さーて。あんだけ良い服着てるんだ。財布の中もたんまりしてるんだろうな」


 ひとしきり笑った後、少年は今日の成果を確認しようとポケットにしまっていた獲物を取り出す。丸くて、手に取るだけでずっしりとした重さを感じる。その重さににやりと笑って、少年はすっと自分の目の前にそれを取り出した。

 なんだか一つ大きなことをやり遂げた気分になる。見るがいい。この丸くて、茶色くて、ずっしりとした。それはそれは大きな馬鈴薯が――


「――……は?」


 なんとも間抜けな声が漏れた。寸前まで浮かべていた自信満々な笑みも何処かに置き忘れたように目を丸くして、思わず手の中のものを凝視する。

 見間違いかと、思わず目を擦って、もう一度手の中にあるものを確かめる。

 間違いなく、それは馬鈴薯だ。毒芽を摘んで、しっかり蒸かして食べれば熱々ほくほくの、美味しい食べ物になる馬鈴薯である。


「は? え? なんで?」


 何がどうなっているのか判らず、困惑する少年のその背中に、


「――財布なら、もうおっさんのところに戻ってるぜ?」


 かかる声、一つ。

 突然の声に驚いて、思わず飛び上がってしまった。そして恐る恐る振り返って、相手を見る。

 其処には、買い物袋を手に抱えた黒髪の男の姿があった。

 見覚えがあった。

 それはついさっき、あの金持ちから逃げているときにぶつかった、あの男だった。


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