四幕『亜人通りの古き女王』Ⅶ
「……ヴィクター、ね。聞かない名だな」
言って、トバリはエルシニアに視線を向ける。彼女は無言で首を横に振る。彼女も心当たりはないらしい。
エルシニアの返事を確認したトバリは徐に
『お電話ありがとうございます。
「潰れちまえ」
『君がもれなく失業してしまうのだが!?』
相手の長ったらしい口上を待たずして、暴言の一語で全てを切り捨てるトバリの科白に、通話機の向こう側でヴィンセントが悲嘆の声を上げた。が、トバリはそんな雇い主のわざとらしい泣き言を無視。要件だけを早々に伝える。
「――予感的中。吸血鬼絡みだ。吸血鬼の名はメアリ=シェリー。不可侵の盟約を破った理由は不明だが、恐らくメアリ=シェリーが生んだ
『私の悲嘆の声は一切無視かね……。本当に酷いやつだな、君は。まあ、それは置いておくとして――吸血鬼に、ダンピールか。となると、ミスタ・スペンサーが連れていたのは件のダンピールかね?』
「流石の御慧眼、恐れ入るね。
おざなりに賞賛の言葉を投げると、ヴィンセントは通話機越しで得意げに鼻を鳴らしながら続けた。
『魔眼持ちの
「相手の男の名前くらいだな。名前はヴィクター。ファミリーネームは不明。心当たりはあるか。やたらめったら顔が広くて知り合いの多い伯爵殿」
『ヴィクター……か。ふむ。平凡といえば平凡な、ありふれた名だな。すぐには思い当たらな――いや、待て』
うむむ、と唸ったのもつかの間。ヴィンセントには、どうやら心当たりがあるらしかった。トバリは思わず通話機越しに驚嘆の声を上げた。
「え、まじで判ったのか」
『……吸血鬼に関して研究している知り合いの弟子に一人、そんな名前の青年がいたような気がするな。しかし参ったな。連絡手段が限られている相手だ。すぐに確認するには、会う必要がある』
「ホント、お前の顔の広さには毎度のことながら驚かされる……荒事の心配は?」
『そう物騒な相手でもない。見目だけならば、私よりも高齢な男だ』
「なら、護衛はリズィでも大丈夫だろ。場所は?」
『さいわい、今はロンドン大学に客員として来ていたはずだ』
「ならそっちは任せる。俺はこのままヤードに行って、レストレードに――」
報告をする、と言おうとした時である。ガシャン、となにかが壊れる音を耳にした。途端、来客用椅子に座っていたエルシニアが飛び上がり、一目散に部屋をあとにするのを一瞥しながら、
「――
『
トバリの一言で全てを察したヴィンセントの声援を最後に通話機を戻したトバリは、瞬時に踵を返し先んじたエルシニアの後を追う――前に、一瞬だけ足を止め、彼は
「慌ただしい退室、お許しを」
「気にしないくてよ、《血塗れの怪物》。騒動なんて、
ぱちりと片目を瞑って軽口で応じる妖精の女王にもう一度だけ会釈をすると、トバリは地を這う獣のように駆け出した。部屋を飛び出すと走る勢いを殺さずに同時に壁に着地。視線を一瞬だけ通路に向ける。先程の騒音に驚いたのであろう、客に従業員が慌てふためき混雑している通路を一瞥。
(――ああ、くそ。邪魔だな)
胸中で悪態を零し、舌打ちをひとつ打つと、トバリは床には降りずに再び壁を蹴り、天井へと跳んで、着地。天地が逆転する中、彼は通路に存在する
あとは只管その動きを繰り返し――トバリは通路の壁と床と天井を使って、縦横無尽に飛び交って行くという出鱈目な軌道を描いて通路を走り抜けたのである。
わずか数秒で商館の受付兼待合室に飛び出したトバリは、足を止めずに一階へ降り立つ。そしてレナード・スペンサーと赤ん坊が待機していたはずの部屋の扉に目を向ける。
お揃いの
(――つまり、二流程度の連中ってことか)
エルシニア・リーデルシュタインは、対レヴェナント戦闘においては、その身に宿す異能故に一級の戦闘力を有して入るが、こと対人戦闘においては素人である。人と争った経験もほとんどなく、ましてやトバリの知り及ぶ範囲では、人を殺した経験もない。彼女はただただ
闘争の最中に殺気を放つこともなければ、明確に相手を殺すという殺意を放つこともない。そんな彼女を前に、幾ら奇襲を受けたからとああも無様に狼狽えるようでは、甚だ程度が知れるというものだ。
トバリはそう判断するや、敵陣の飛び込んだ。短剣は抜かず、懐に飛び込むと同時に拳打や頭突を用いた粗野な暴力を振り翳し、一気に相手を制圧する。
腹部を殴られ、顎を撃ち抜かれ、額に硬い一撃をお見舞いされた黒服連中は、自分たちに何が起きたのかすら判らぬままに悲鳴を上げてうずくなるしかなかった。そうして倒れている連中になど見向きもせずに、トバリは室内に足を踏み入れた。
室内では普段利用している大剣に比べて比較的細身の剣と、
武装した集団に突如襲撃された状況で、赤子を手放さずにいたことだけは褒めるに値するかもしれないが、そのことを指摘する前に聞かねばならないことがある。
トバリはがしがしと頭を掻きながら、床に転がる黒服たちを足蹴にしつつ、レナードへと歩み寄った。そして今も「ひえぇぇ、助けてください! 勘弁して下さい!」と固く目を瞑ったまま、相手も確認せずに身の安全を嘆願する間抜けの襟首をむんずと摑み、問答無用で立ち上がらせながら声を上げた。
「おいこら
「ぎいいいいいいいいやあああああああ!! やめてよして触らないで助けて下さいぃぃぃぃ!」
声量そのものが衝撃波を生むのではないかというくらいの大音声が、至近距離で鼓膜を突き抜けていく羽目になったトバリは、
「――……殴っていいか?」
思わず振り返ってエルシニアに問うた。
エルシニアもまた、余りの騒々しさに耳を塞ぐほどだったらしい。両耳に手を当てた姿勢のまま、彼女は「我慢して下さい……」とかぶりを振る。
トバリは舌打ちをし、仕方がないとレナードの額を指で弾くに留めた。それでも相当の威力があったのだろう。額を弾かれたレナードが「痛いっ!」と悲鳴を上げ「何をするんだ!?」と、怒鳴りながらトバリを睨みつけ――そして怒りに染まった表情は、一瞬で青ざめた。
「や、やあ……
「レディの足元で震え上がっているのを待ちくたびれて退屈してたと表現できるテメェの性根に驚嘆するよ、オニーチャン。もう一度訊くぞ。こいつはどういう状況だ?」
トバリは低い声音でそう言いながら、レナードを睨みつけた。レナードは露骨に視線を反らし「最近は物忘れが酷くてね……君が何を言っているのか、僕にはさっぱり判らないんだ。アハハハハ……」と、誰が見ても判る程度の嘘を口にするので、トバリは隣で侮蔑の表情を浮かべるエルシニアと視線だけを交わし、そして無言で腰の短剣に手を伸ばす。
「おーっっとぉ!!! なんだか急に頭が冴えて口が軽くなってきた!」
途端に、レナードは
するとレナードは、眠る赤ん坊を抱えながら気まずそうに眉尻を下げた。
「――……たぶんだが、あれだ。彼らのタイピンに付いている刻印から察するに、ニューカッスル辺りを縄張りにしているマフィアだね。見覚えもある」
「素性はどうでもいい。こいつらが筋モノだってことは、見てくれで判る。どうしてそんな連中がお前を襲撃したのか、って聞いてんだよ」
「言わなきゃ駄目?」
渋るレナードの言葉に、エルシニアが「言わなくてもいいですよ」と答えた。救いを得たと言わんばかりに喜色に彩られたレナードの表情は、エルシニアの放った次の言葉で、瞬く間に土気色になった。
「言わないのならば、貴方を彼らに引き渡すだけです。心苦しいですが、私たち――と伯爵が受けた依頼の主な部分は、貴方よりもそちらの赤ん坊のほうが重要と思えますし」
エルシニアの発言に、とばりは「ああ、それもそうか」と納得する。
依頼内容としては確かに『レナード・スペンサーの護衛』となっているが、それは彼の腕の中にいる赤ん坊を、彼が確保した状態であることを前提としている。もし、
「この赤ん坊さえ無事なら、最悪どうとでもなるな」
「いっそ私たちが預かったほうがよほど安全な気もします」
「……どうか御慈悲を下さい、お二人さん」
薄情な二人の科白に、レナードは涙声でそう訴える。成人を過ぎた男性が涙声で懇願してくる姿にはまったく情けなさばかりが滲み出ていていっそ哀れにすら思えたが、そもそもこの男が言葉を濁し誤魔化そうとしているのが原因なので、同情の余地はない。
「いい加減間を引き延ばそうとするんじゃねぇ。三秒以内に答えなかったらふん縛って店の前に放置していく」
トバリが本気の声音でそう言い放つと、レナードは観念した様子で口を開いた。
「……少し前に仕事で
そしてら翌朝、こいつらとおんなじ格好した連中が飛び込んできたんだ。
どうもそのときの女性が、ボスのお気に入りだったみたいなんだよねぇ。で、追っかけ回されて、どうにか逃げ帰ったんだけど……この様子を見るに、どうもめちゃくちゃ根に持ってるみたいだね。まさかロンドンまで追っかけてくるとは思わなかったよ。アハハハハ……」
最後の方はわざとらしい乾いた笑いを零すレナードの話は、まったく予想を裏切らないくらい情けなく、そして下らない話だった。
トバリは無言でエルシニアを見た。
エルシニアも、同じ用にトバリを見た。
視線を交わし、二人は一言も言葉を交わすことなく、意思疎通を完了した。
「置いていこう」
「置いていきましょう」
二人の意見は完全に同じだった。勿論、その反応に悲鳴を上げたのはレナードである。
「
再び泣き喚き出すレナードに、トバリもエルシニアも冷ややかな眼差しで見下ろすす。
「面倒事の最中だってのに全く別の――しかも完全に
「僕だってこんな
「まあ、そりゃそうだな」
レナードの言葉には、トバリも納得した。逆にエルシニアは彼らの会話の意味することが判らないのか「どういうことです?」と訪ねてきた。トバリは別段隠す気もなく、淡々と答えた。
「こいつらの組織がどれだけの規模なのかは知らないが、まあ……あれだ。ニューカッスルでどれだけ影響力があったとしても、此処はロンドンだ。
もし、ロンドンを縄張りにしている他のマフィア連中に、なんの断りもなくこんな
そいつら全員を敵に回すなんて、普通に考えれば自殺したがってる莫迦か、本当に物の道理を知らない莫迦のどちらかだよ」
「一番危険な場所は、同時に一番安全な場所……ってやつですか?」
「そーゆーこと」
納得した様子のエルシニアの言葉に相槌を返しながら、トバリはレナードの襟首を掴んで改めて立ち上がらせる。
「とっとと出るぞ。こいつらが想像以上に莫迦なら、他にも追撃があるかもしれねぇ。これ以上マダムに迷惑かけるなんざ、俺はごめんだ。イングランド中の幻想種を敵に回す羽目になる」
「それは……考えたくないですね」
険しい表情を浮かべるエルシニアに、トバリは「だろ?」と肩を竦め、そしてレナードを見た。
「だからしっかり走れよ、お荷物。遅れたら、置いてくからな」
「あ。その際は赤ん坊は預かりますので、そのつもりで」
壁や床を縦横無尽に飛び交う男と、文字通り空を飛べる女性からのまったく優しさを感じない科白に対し、
「――はい」
レナード・スペンサーという男は目尻に涙を浮かべながら頷くしかなかった。
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