四幕『亜人通りの古き女王』Ⅴ
ミスタ・トバリの、明らかに今ふと思いついたという様子で放たれた申し出に対し、声の主は失笑と共に許可を出したのが今から数分前のこと。
そのやり取りに対して、私の意思確認というものがなかったことに不満がないかと問われれば、答えは間違いなく
そして懊悩する私の気持ちなんて慮ることもなく、振り返って「ほら、行くぞ」とまるで私が同行を拒む可能性なんて少しも考えていない口調で言うのだ。
ああ、こういうところは伯爵と同類なのでしょう。結局、人の意見なんて聞きもしない。
私は何度目とも知れない溜め息を零した。
「あんま溜め息ばっか吐いてると、幸せが逃げるらしいぜ」
「……誰です? そんなこと言い始めたのは」
呆れ気味に訊ねると、ミスタ・トバリは「さあ?」と他人事のように肩を竦めた。じろりと睨む私の視線など何処吹く風で、彼は悠々と前を歩く。私はもう一度だけ溜め息を吐いて、彼の後に続いた。
薄暗く、それでいて何処か卑猥な光源に照らされている廊下を、ミスタ・トバリは涼しい顔で進んでいくけど、その後に続く私のいたたまれなさなんて、きっと彼は露一つ知らないのだろう。
(そもそも、普通こういうお店に女性を伴って来るのは可笑しいでしょう!? どういう神経をしているんですかこの人は!)
高級と名が付けども。
応対する多くが亜人の女性であろうとも。
ここは娼館――つまり、そういう場所なのだ。あまり考えないようにしてはいたけれども、通りかかる扉の向こうから微かに聞こえてくる艶声は、否応なしにこの場所に顧客がどのような目的でやって来るのかを思い知らされる。
(ああ、聞こえない。聞こえない。私にはなにも聞こえません!)
ついてきたのがそもそもの間違いだったのだろうと、今更になって痛感する私を他所に、ミスタ・トバリは館の中央に設置されている広い階段を昇っていき――その先にある扉の前に立って言った。
「さあ、着いたぜ」
くいっと、持ち上げた右手の親指で扉を指差しながら、ミスタ・トバリは不敵に笑う。
「……いったい、何方がお待ちになっているんですか?」
私の訝る言葉に、ミスタ・トバリは愉しそうに口の端を一層吊り上げる。
「たぶん、アンタの想像を遥かに超えた御方さ」
「貴方の言葉遣いがお行儀よくなっている時点で、誰が居ても驚かない自信はありますが」
「だといいがなー」
そう言うミスタ・トバリが浮かべる表情は、意地の悪い笑みだった。この人は、本当にこういう人の不快感を煽る笑みがとても上手だと思う。まったく、いいことなんてないでしょうに。
怒りよりも呆れを感じる私を他所に、ミスタ・トバリは言った。
「それじゃあ、入るぞ。先に言っておくが、お行儀良くしろよ?」
「それ、貴方が言っても説得力ゼロですよ。お行儀の悪い人間代表でしょう」
「違いねぇ」
私の皮肉に、ミスタ・トバリ呵々と笑いながら扉を開けて、中に足を踏み入れた。急いで、私も彼の後に続く。
そして、一歩部屋に足を踏み入れた――その瞬間だった。
――ぞわり
首筋に。
いや、いっそ全身に悪寒にも似た寒気を感じて、私は目を見開く。咄嗟に、右手を翳して《
だけど、そうはならなかった。
翳した私の右腕を、ミスタ・トバリが抑えたから。
目を剥く私に対し、私を制止したミスタ・トバリが口の端をくくっと持ち上げながら言う。
「良い勘してるし、その判断の速さは素直に称賛するが……今抜いちまったら俺たち生きて帰れねぇぞ」
彼は何でもない風に言ったが、私は彼のその言葉にこそ驚きを隠せなかった。
「……《血塗れの怪物》が居て生きて帰れないって――」
「アンタの中で《血塗れの怪物》の評価が思ってた以上に高いことに吃驚だよ」
言いながら、ミスタ・トバリは私の手を離す。そして彼は「お行儀よく――な」と肩を竦め、彼は部屋の奥へと視線を向けて口を開く。
「少々の無礼には、眼を瞑っていただけると有難いのですが?」
窺うように発せられた言葉に、部屋の奥から返事が返ってきた。
「――子供の癇癪に目くじらを立てるような、そんな短慮な女に見えたかしら?」
返ってきたのは、揶揄するような微笑の声。
言葉を投げられたミスタ・トバリは、困ったように眉尻を下げながら肩を上下させた。
「愚問、でしたか。礼を欠いたのは、むしろ俺の方でしたかね」
「言ったでしょう。貴方はちゃんと敬意を払ってくれている――と。それにしても、面白い
奥から響いてくる声。
耳朶に届く優しい響き。
と同時に、暖かい空気の中にいるのに、何処か寒気を覚える違和感。暗がりの向こうから此方をじっと見つめている、値踏みするような視線。
安心感と不快感。本来ならば同時に感じることなど早々ない感覚に、私は戸惑ってしまって。すると、
「そんなに怯えないでおくれ、お嬢さん。安心しなさい……というのも、変な感じだけれど、私は貴女を害することはないよ」
また、声が響く。優しく、調和のとれた声が、戸惑う私の心を解すように鼓膜を擽る。そしてそのことを自覚して、不快感が沸き起こる。そうしてジレンマにも似た悪循環に陥る私の頭に、ミスタ・トバリの手が乗せられた。
子供をあやすようなその所作に、私は先程まで感じていたのとは別の意味で不快感に見舞われる。
じろりと彼を睨むと、ミスタ・トバリは微苦笑と共に言った。
「未知に対する警戒心を覚えるようになって何より。その感覚をいつも持っていてくれると、俺の仕事が減ってありがたいね」
「貴方や伯爵の言うところの幻想に対しては素人ですので、不慣れなのは当然でしょう。できて当然と思っている貴方たちのほうが可笑しいんですよ……ご安心を。早急に対応を覚えますので」
つっけんどんに言葉を返すと、ミスタ・トバリは驚いたように一瞬目を丸くし、続いて舌打ちと共にがしがしと頭を掻きながら言った。
「皮肉じゃなくて、一応褒めたつもりなんだが……」
そう言って眉を顰めるミスタ・トバリの様子を見て、私は「……それで褒めたつもりだったんですか」と、思わず呆れてしまった。本気で言っているのなら、余りに言葉選びが下手糞である。口を開けば悪態、罵倒、皮肉が零れるその口上に、時折皮肉を言わなければ死んでしまう病気にでもかかっているのかと言われているが……まったく以てその通りだと私は思った。
(この人、普通の言葉選びの仕方を知っているんでしょうか?)
訝しげに見上げる私の視線に、ミスタ・トバリは居心地悪そうに視線を逸らす。
同時に、部屋の奥から楽しそうな笑い声が響いた。
「楽しい掛け合いは終わったのかしら、《血塗れの怪物》。老婆心から言わせてもらえば、女性を褒めるときは愚直なくらいが調度良いと、
「……今後の参考にしますよ。で、本題に入っても宜しいですか。女王様」
「女王?」
ミスタ・トバリが、溜め息交じりに話しの方向を切り替えようとした際に発した呼び名に、私は聞き返す。
ミスタ・トバリは一瞬私を見て、ついで部屋の奥へ視線を向けて、そうして一人「ああ」と納得した風に首を縦に振った。
「そういえば、紹介がまだでしたね」
「説明なしに連れてきていたのかい?」
「そのほうが驚きも一入かと思いまして」
「呆れた坊やだこと……」
舌を出して茶目っ気を
「……それで、誰なんですか?」
私も文句の一〇や二〇くらい言いたいのを必死に押し留めて、どうにか今すべき問いを口にする。
「なんてことはない。単なる古い妖精族だよ」
答えたのは、部屋の主だった。
かつん、かつん――と硬い足音を響かせて、薄暗い部屋の奥から、その人は姿を現した。
床に広がるほど長い艶やかな黒髪を引き摺って。
ほっそりとした長い手足を、艶やかに動かして。
切れ長の双眸の色は、光の加減で極色彩に揺れる、人知を超えた虹色。
ぞっとするほど――見事な工芸品のような精緻さを窺わせる面立ちの女性。
絶世の美女とか、そういう言葉すら
と同時に、私は理解してしまう。思ってしまう。
(――
私は、本能的に感じ取ってしまった。これは、未知との遭遇だった。これまで生きてきた経験の中で一度として出会ったことのないような、超越的な何かとの邂逅に、私は金縛りにあってしまったかのようにその場で固まってしまった。
そんな私の顔を、ミスタ・トバリと女性が揃って覗き込み――そして苦笑した。ミスタ・トバリに至っては失笑の域だった。
「怖がらなくていいのよ、
「え、あ、その、えっと、は……い?」
諭されて、私はどうにか口を開いて返事をした。それも疑問形で。
「いやどんだけ混乱してんだよ、アンタ。姿見ただけでそれじゃあ、名前聞いたら真っ白になりそうだな」
呆れ顔のミスタ・トバリの向う脛を、私は思い切り蹴り上げておいた。だけど彼は痛がる様子もなく「おーおー、怖い怖い」と軽口を叩く始末だった。腹立たしい。
私は最後の抗議するように彼を睨み付けて、お腹の中で渦巻く憤慨を消すように大きく息を吐いて、女性へと向き直って一礼する。
「お恥ずかしい姿をお見せして、申し訳ありません。エルシニア・リーデルシュタインと申します。お見知りおきを、マダム」
「ふふふ。礼節が人を育てるは言うけれど……なるほどなるほど。その通りだね。私のところに来る客は、往々にして礼儀の欠けた者か、うわべだけの者ばかり。真心籠った挨拶というのは、実に気持ちがいいものね」
言いながら女性がちらりとミスタ・トバリを見た。彼は苦笑いを浮かべながら「伝えておきますよ」と肩を竦める。誰のことを言っているのかはまあ、察するに余りあった。
ミスタ・トバリの返答に満足したのか、女性は美しい笑みを浮かべながら大仰に頷くと、母性を感じさせる暖かな眼差しを私に向けた。
そして、
「改めて――よく来たわね、
……今、この女性は何と言ったのだろう。
私は、発せられた女性の言葉の意味が理解できなかった。
いや、理解はできたのだけれども、現実を受けれるのが困難だった――というほうが、正しくて。
助けを求めるように、ミスタ・トバリを見た。
彼の口から、どうか冗談だと言って貰えるようにと、半ば祈りを乗せて。
だけど、彼は無言で首を横に振った。
同時に、一〇〇〇年を生きる錬金術師を相手だろうが不遜な態度を崩さない彼が、この女性に対しては丁寧な言葉を使い、心なし敬意をもって応対している理由が、判ってしまう。
つまり。
まさか。
でも。
(――そんなことって、あるんですか?)
私は半ば呆然としながら、目の前の女性を――ティターニアと名乗る女性を見る。
彼女は、悪戯が成功した子供のような明朗な笑みを浮かべて、「よろしくね」と囁いた。
『多分、アンタの想像を遥かに超えた御方さ』
数分前に、ミスタ・トバリが言った言葉が脳裏を過った。
まさにその通りだった。
私は言葉を失ってその場に立ち尽くしてしまう。そんな私を見て、ティターニア……ティターニア女王はからからと笑いながら踵を返し、奥にある長椅子に腰を下ろしながら言った。
「かわいい
「……このお嬢さんが現実に帰還したらな」
そんなやり取りの横で、私は一人その場に蹲って頭を抱えていたのは……どうか気にしないで欲しいです。
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