四幕『亜人通りの古き女王』Ⅳ


「うわ……」

 その店に一歩踏み入れた瞬間、エルシニアの口から零れた一言がそれだった。トバリもレナードも、揃って顔を手で覆い溜息を零す。トバリは周囲の視線が此方に向けられていないことに心底安堵しながら「レディの口から出ていい言葉かよ」と、エルシニアの頭を小突いた。途端、エルシニアも自分の醜態に気づいたのだろう。慌てた様子で自分の口を抑え、一目でわかるくらい申し訳なさそうに眉尻を下げている。

「……すみません」

「まったくだ」

 トバリは擁護フォローもせずに首肯する。それだけで彼女が猛省することは判っているし、聡明である故に同じ失態はまず犯さないだろう。その点については信用しているので、トバリはそれ以上攻め立てることはせず「行くぞ」と二人を促した。

 高級娼館『マグ・メル』。この亜人種通りでも最も場所は何処かと問われれば、まず最初に名が挙げられるのは、この店である。

 ただ見目の良い娼婦が揃っている娼館ならば、この亜人種通りには言っては何だが星の数ほどあるし、ただただ美しい女性と一夜の楽しみを求めるというならば、何もこんな蒸気まみれの地下空間に足を運ばずとも、地上にだって同等の施設はいくらでも存在しているのだ。

 ならばと、人ならざる容姿をしている女をただただ集めていると言われれば、そうでもない。

 高級娼館『マグ・メル』が最上級たる所以は、娼婦たちの質は当然として、施設としての質も合わせてのものである。

 まるで王室や上級貴族アッパークラスの屋敷に仕えるような、教養は勿論のこと所作の細かなところまで行き届いた教育体制。建物の趣を損なうことなく、一室一室それぞれに相応しいように揃えられた一級の調度品。運営において充実した様々なサービスの提供――等々。

 様々な総合的観点から、この店の名がこの亜人種通りにおいて最も知れ渡っている――というのは、ヴィンセントの言である。

 実際、彼の説明がすべて正しいとは思っていないが、この建物の造りや内装を見ただけでも、ロンドンに存在する高級ホテルと謳い文句を掲げた宿泊施設の多くが素人目にも霞んで見えるのは確かだった。

 そんな施設に足を踏み入れたにも拘らず、エルシニアが斯様な声を上げた原因は、まあ間違いなく目の前の光景になるのだろう。

 右を見れば、トバリの倍近い背丈のある熊を髣髴させる異形の婦人が、口元をだらしなくゆがめた恰幅の良い中年男の目掛け、長煙管で吸った緑色の紫煙を吐き出していた。

 左を見れば、これまた大蛇と呼ぶに相応しい長大な下半身をくねらせながら、裸体とも代わらないような薄絹を羽織った女が、客らしき男の顎を撫でながら舌をちろちろと躍らせている。

 奥にある長椅子には、腕が鳥の翼に変化している女性が、それまた鳥類を思わせる細い足を艶かしく組んで、左右に男をはべらせて艶然と微笑んでいて。

 他にも、列挙すれば切がない数の異形の娼婦と、彼女たちにまさに骨抜きにされているような男たちが散見できるのだ。

 見慣れるどころか、まず見たこともない光景に息を呑むなというほうが無理といえば無理なことか……。

(……あの通りを見たら想像もできそうなものなんだがなぁ)

 と思いつつも、トバリはその考えを頭から追いやりつつ、店の奥へと足を進める。

「今日も此処は盛況だねぇ」

「来たことあるのかよ」

「時々ね。なかなか楽しい場所だよ、此処マグ・メルは」

「ああ、そう」

 にやりと口元をだらしなく綻ばせたレナードに、トバリは嘆息一つ返すだけだった。この男の娼館遍歴など、欠片も興味のない内容この上なしだ。

「そういうキミこそ、随分足運びによどみがないけど。此処の常連さんかい?」

「そうなんですか!?」

 レナードの問いかけに、悲鳴を上げたのはエルシニアである。彼女は驚きのあまりその金色の双眸を零れんばかりに見開き、ついで侮蔑にも似た気配の宿る眼差しをトバリに向ける。

「ミスタ・トバリ……そういう人だったんですね」

「おい待て、勝手に一人で想像膨らませんじゃねぇよ」

 阿呆レナードの戯言程度なら聞き流すつもりでいたのだが、エルシニアからなにやら不名誉極まりない気配を感じ取り、トバリは思わず振り返った。

「この話何度繰り返すんだよ。此処に来た理由は最初に説明してんだろーが」

 コレがリズィであったなら、トバリが此処に足を運ぶ理由にもある程度察しもついてくれただろうに。

(こういうところはホント普通のお嬢ちゃんだよな、こいつ)

「本当にそれだけですか? 実は特殊な性癖を持っていて通い詰めている、というのは――」

「あってたまるか」

 追求するエルシニアの言葉を遮って、トバリは断言する。「またまた、隠さなくたっていいんだよ。誰しも人に言えない好みの一つや二つあるだろう?」と茶々を入れるレナードには、これでもかと殺気を乗せて一瞥することで黙らせた。顔を蒼褪めさせるくらいなら最初から口を開くなと言いたい。

 そう思ったときである。


『これはこれは……日頃飄々としているアンタが、随分とまあ振り回されているものだね。なかなか珍しいものを見れたよ』


 不意に、何処からともなく声が響く――否。その声は空気を震わせて鼓膜に届いた声ではない。直接頭の中に響くような奇妙な声だった。

 エルシニアとレナードが目を丸くし、とっさに周囲を見回すが――声の主らしき人影は何処にもない。

 当然だ。声の主はこの場にはいないのだ。

 そのことを知っているトバリは一人溜め息を零して、誰にともなく声を発した。

「――……覗き見とは悪趣味ですよ。マグ・メル婦人」

 トバリは普段用いている労働者階級訛りコックニーからは想像もつかない程丁寧な英国英語キングスイングリッシュで言葉を発した。

『この館の中にある限り、隅々に至るまで私の目があって、耳があるの。貴方はとっくに存じているはずよ。赤頭巾レッドキャップ

 揶揄するような言葉と共に微笑の音が響く。トバリは「そうでしたね」と眉尻を下げて肩を落とした。

『それで、今日はどのようなご用件で足を運んだの? 今日こそ娼館うちの子たちと遊んでいくのかしら』

「それはまたの機会に」

 矢次に響く揶揄いの言葉に対してトバリは肩を竦めて断れば、『いつもそれしか言わないのね。うちの子たちがいつも残念がっているのよ』という言葉とは裏腹に、別段残念そうに感じていない科白が続いた。

 その科白を聞いて、トバリは口の端を軽く持ち上げなげら本題に入る。

「今日は貴女に、少々お尋ねしたいことがありまして。ご拝謁叶えばと思い、足を運んだ次第です」

 伺い立てるトバリの言葉に対し、声の主は即応の言葉を返した。

『貴方だったらいつだって歓迎よ、赤頭巾。貴方の雇い主は嫌いだけどね』

 その言葉に、トバリは少しばかり驚いた様子で言った。

「普通は俺の方が嫌われると思うのですけどね。特に――貴女のような存在には」

『それは貴方が私たちに対して畏怖でも忌避でもなく、相応の敬意を払っているからね』

「それは我が雇い主サン=ジェルマンも同じですよ。胡散臭いだけで」

『その胡散臭さが致命的なの』

「納得のいく理由です」

 トバリは強い共感を覚えて失笑した。

『奥の部屋にいらっしゃい。其処で待っているわ。お連れの二人は、応接室に案内させるわね』

「変なことは教えないでくださいよ。其処の子連れの男はともかく、お嬢さんレディのほうはマリア様もびっくりの清純っぷりなので」

「ミスタ・トバリ!」

 置いてけぼりになっていたエルシニアが、顔を真っ赤にして非難の声を上げた。

「いきなり何を、しかも何処のどなたに言っているんですか!?」

「事実なんだから喚くなよ」

「まあ確かに、ミス・リーデルシュタインは穢れとか知らなそうだよね」

 と、トバリの言葉に乗っかるようにしてレナードがにやりとした。途端に、トバリは「お前と違ってな」と皮肉を零す。

「人をオチに使わないでくれないかな!?」と悔しそうに眉を顰めるレナードに、「お前はそういう性質だろ。ヴィンスと一緒で」と、トバリはおざなりな言葉を投げながら、

「それじゃ、俺は用事を済ませて――」

 言いかけて、口を閉ざした。そして数瞬逡巡するように視線を中空に彷徨わせた後、思い立ったように言った。


「――婦人。此方のお嬢さんレディもつれてお伺いしても構わないでしょうか?」


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