三幕『混沌の坩堝の、その片鱗』Ⅲ


 それは忽然と現れた。

 前触れもなく現れた。


 ――目の前に。


 虚空に揺れる襤褸布。

 その間から覗く赫い眼。

 ゴゥンゴゥンと脈動するが如く響くのは、蒸気機関の駆動音。吐き出される黒煙と蒸気を引き連れ――それは其処に出現した。

 蒸気機関の身体と鋼鉄の外装を持つ機械仕掛けの人食いマシーン・マンイーター


 エネミー・オブ・クローム――即ち、鋼鉄の怪物レヴェナント

 

 それが今、如何なる理由によってそれを可能としたのかは不明だが、この請負屋事務所ランナー・オフィスの中央にまるで幽霊の如く姿を現し、その赫く輝く瞳が、じっとレナード・スペンサーを捉え――


 ――おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお……


 亡者が発する呻きのような声を上げた。獣に似た咆哮とは異なる、粘りつくような陰鬱な声を発し、レヴェナントが動く。

 襤褸布の奥からぬうっ……と鎌首を持ち上げるように出現する、鋭利な鋼鉄の刃。それが、一瞬の間を置いてレナードへと放たれる。

 あまりに忽然と、あまりに唐突に目の前に出現したレヴェナントに、その場にいた全員が意表を突かれてしまった。

 反応が遅れる。

 つまり――対処が遅れる。

 想定の埒外にあったレヴェナントの登場に、動けた者は一人だけだった。

 《血塗れの怪物グレンデル》――ツカガミ・トバリ。

 ロンドンに在する腕利きの請負屋ハイ・ランナーにして、単身ソロで鋼鉄の怪物と対峙できるレヴェナント殺しスレイヤー

 ほんの僅かな違和感と、長年の研鑽によって培われた警戒本能が微かに敵意を感じ取り――レヴェナントが出現したのと同時に臨戦態勢へ意識の切り替えマインドセットを完了させ、

「――吹ッ!」

 鋭い呼気と共に振り上げられた蹴足が、彼の目の前にあった長机を高々と蹴り上げる。トバリの蹴りによって浮き上がった長机は、中空のレヴェナントへと激突――けたたましい破砕音と共に長机が粉砕し、机を打ち付けられたレヴェナントが僅かにその身体を傾ぐ。

「――足だ!」

 瞬間、トバリが叫ぶ。

 主語も目的語もない指示。宙を漂うレヴェナントに足はなく、ならば誰のものを? という疑問を口にするよりも先に、小柄な少女が床を這うような低姿勢で腕を伸ばし――摑んだ足を力の限りに引く。

「――うわっ!?」

 途端、が悲鳴を上げて背中から床に倒れたのと、寸前まで彼が立っていた空間を、レヴェナントの襤褸布から伸びた刃が貫いたのは、殆ど同時。

「セーフ」

 レナードの足を引っ張ったリズィが、額の汗を拭いながら軽口を叩く。

 その間に、トバリが机を蹴り上げた勢いのまま跳躍――しながら、右腕に備えている機関機械を起動。

 がしゃん、という重々しい機械の変形音が周囲に響き――次の瞬間、彼の右腕からは蒸気と黒煙が噴出。機械仕掛けの手甲マシーン・ガントレットの指先、五つの刃爪が赫々色の光を帯び――

「――そら、よっ!」

 レヴェナント目掛けて突進しながら、トバリは〈食い散らすもの〉を叩き込む! 

 鳴動する五指がレヴェナントへ直撃。攻撃を撃ち込んだ勢いのまま、トバリはレヴェナントと共に窓際まで飛び――窓諸共壁を粉砕して外へと押し通す。

 硝子片に砕けた壁材と共に空中に飛び出しながら、トバリは〈食い散らすもの〉を収納し、同時に腰に括り付けている鞘から二刀を抜き払って、追撃に入る。

 しかし、それはレヴェナントの方も同じだ。

 トバリの追撃に対し、レヴェナントも迎撃態勢にあった。襤褸布の奥から放たれる蛇腹の如き鋼鉄の触腕が躍り、トバリへと襲い掛かる。

 二本連続で襲い掛かる刃を左右の二刀で受け流し、三本目を蹴り足で強引にいなす。そしてなおも続く追撃に対し、トバリは舌打ちをしながら切っ先を足場にして、突き刺す勢いを利用して後ろに跳んだ。

 そして、後ろに跳んだトバリに尚追いすがるように迫る触腕――

「――はっ!」

 ――白刃一閃。

 機関機械の飛翔機械――〈剣翼機関ヴァルキュリア〉を背に展開したエルシニアが、身の丈ほどある機械剣で触腕を弾き飛ばす!

 エルシニアは機械剣の一撃でレヴェナントの触腕を弾く一方で、もう片方の手で落下寸前のトバリの手を摑む。

「――無事ですか?」

「間一髪ってところだな――背中借りるぞ」

「は、はい?」と、唐突な申し出に困惑するエルシニアを他所に、トバリは摑まれていないほうの手に握っていた短剣を頭上へと放り投げ、空いた手でエルシニアの背――展開されている〈剣翼機関〉の一端を摑む。そして体を腕一本で持ち上げ――そのままくるりと宙返りし、機械翼を足場に再びレヴェナント目掛けて跳躍した。

 向かい来るトバリに対し、襤褸布のレヴェナントは再び触腕を出現させて《血塗れの怪物》を迎え撃つ。

「莫迦の一つ覚えだな!」

 呵々と笑い、トバリは空中で身体を捻った。曲芸さながら回転で襲い掛かる触腕の間隙を縫うように回避――更にすぐ傍を通り抜けて行った触腕を足場代わりにし、一気に肉薄。頭上に投げ放った短剣を落下ざまに掴み取りキャッチし

「――あらよっ!」

 襤褸布越しの頭部へと振り下ろした

 断頭台の刃ギロチンの一撃さながらの刃がレヴェナントに叩き込まれる。通常であれば充分な手傷ダメージを追わせられた一撃だが、しかしトバリの表情にそのような感慨はなかった。

(――やっぱり手応えがねぇ……)

 刃を撃ち込んだ際に感じるのは、従来のレヴェナントならば必ず伝わってくる硬い感触はなく、僅かな抵抗の後に刃が通り抜けるような感覚だけ。

 まるで真綿でも布の塊を切り裂いているような手応えのなさに、トバリは舌打ちをしながらレヴェナントの反撃を二刀と蹴り足、体術で流しながら再び後方へ――そして後ろを見もせずに着地の姿勢を取る。

 転瞬、靴底に硬い感触。それを感じると同時に、トバリは再び〈食い散らすもの〉を起動させた。

「思い切りぶん投げてくれていいぞ」

 口の端を持ち上げて、機械剣の腹でトバリを受け止めたエルシニアに言う。

「お望みのまま、貴方への鬱憤諸共に――そうさせてもらいます!」

 応じるのは、怒りに彩られたエルシニアの声だった。

 彼女は叫ぶように答えると、まさに言葉通りに剣を思い切り振り抜いた。振り抜く勢いを利用し、振り抜かれる瞬間に合わせてトバリは再びレヴェナントへ肉薄――赫く輝く〈食い散らすもの〉を、襤褸布のレヴェナント目掛け真っ直ぐに打ち込む。

 そして五つの刃爪が、まさにレヴェナントの身体を貫こうとした――その瞬間である。

 霧が晴れるように。

 煙が霧散するように。

 落ちた花弁が、風に吹かれて舞い上がるように。

 それは出現した時とまったく同じ――唐突に目の前から消失した。まるで最初からレヴェナントが存在していなかったかのように、忽然と。

 端から見れば、そう見えたことだろう。

 少なくとも、同じ戦場にいたエルシニアの目には、そう映っていたに違いない。

 ただ――直接眼前で対峙し、その消失を目の前で見て感じたトバリにだけは、ある違和感があった。

 〈食い散らすもの〉の爪が触れた瞬間、雲散霧消の言葉さながらに消え去った襤褸布のレヴェナントが消える様相に心当たりがあった。

(――まさか……)

 脳裏に過った違和感と、そこから導き出される答えに、トバリは困惑する。

 だから――だから、トバリはあるミスを犯してしまった。

「――ミスタ・トバリ!」

 エルシニアの悲鳴にも似た呼びかけに我に返ったトバリの視界に飛び込んできたのは、凄まじい速度で距離が迫ってくる木造の壁だった。

 ――何故壁が? と一瞬だけ疑問を覚え、今の自分の状況を思い出す。しかし、思い出したところで、背中に翼があるわけではないトバリには、慣性の法則に抗うことなどできるわけもなく――

「――……マジか」

 間抜けな声を発したのと同時、彼の身体は木造の壁を突き破って建物の中へと突撃した。

 突貫し破壊した木壁の残骸に埋もれながら、トバリは「……締まらねぇなぁ」と一人愚痴を零しながら体を起こし、周囲を見る。どうやら住人はいないらしい。というよりは、放置されて随分立っている空き家のようだった。

 イーストエンドにほど近い地区だ。こういう建物は割と存在していて、雨風を凌ぐために貧民街の住人がたまに利用しているが……幸運にも、今日は使い手もいなかったようだ。名前も知らない誰かを巻き込まずに済んだのは幸いだろう。

「……怪我は、なさそうですね」

 そう一人納得するトバリの前に、追いかけてきたらしいエルシニアがそう訊ねる。

「頑丈なのが売りだからな。そっちこそ、憂さは少しは晴れたか」

「少しばかり、という感じですね」

「どんだけ溜まってるんだよ。欲求不満か?」

「……そういう女性に対しての配慮デリカシーのない発言をしているうちは、溜まる一方でしょうとも」

 羞恥で顔を赤らめれば少しは可愛げもあるだろうが、それすら通り越した様子で呆れ果てたように、エルシニアは嘆息を零しながら手を差し出した。

 その手を取って立ち上がったトバリを確認すると、エルシニアは振り返って今し方トバリが開けた壁の穴を――正しくは、その向こうにある事務所の壁を見上げながら言った。

「……それにしても、レヴェナントが事務所に現れるなんて思ってもみませんでした」

「意見が合うな。おかげで事務所に穴開けちまったじゃねーか」

 トバリは服に着いた木片やら埃を払いながら「修繕の費用はホームズ兄に請求させよう」と悪態を零す。

「……気にする部分は其処ですか?」

「大事なことだよ。いやまあ、問題は別だがな……」

 呆れるエルシニアに答えながら、トバリは溜息を零した。そして少し前に出会った、さる貴人の言葉を思い出す。

「……混迷が続く、ね。思ってた以上に厄介じゃねぇか」

「どういう意味ですか?」

 トバリの独り言に、耳聡いエルシニアが疑問を投げかけた。トバリはその問いかけには応えず、代わりに顎をしゃくって事務所を指す。

「――今頃、そのことについて話してる頃だろ。とりあえず、戻ろうぜ」

 そう言うとトバリはさっさと踵を返し、事務所に戻るべく歩き始めた。しっかりと、建物の一階から戻るつもりである。

 そんなトバリの背を、エルシニアは「そういうところだけは常識的なんですね」と突っ込みを入れ、後に続いた。





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