三幕『混沌の坩堝の、その片鱗』Ⅱ


「――うげっ」

 顔を上げた男が開口一番に発した言葉がそれだった。

「予想外の時ほど、人は本性を現すものだが……お前の本音が良く判る一言だったよ。スペンサー」

「――もももももももももも、申し訳ございません! ホームズ卿!」

 仮面の男――マイクロフトが肩を上下させながらそう言うと、レナード・スペンサーはその場で跳び上がるような憩いで慌てて立ち上がり、直立不動の姿勢を取り軍人式の敬礼と共にそう謝罪の言葉を叫んだ。

 腕に一抱えもありそうな荷物は未だ抱えたままであるが、それを咎めることをマイクロフトはしなかった。むしろその姿を見て、マイクロフトは安堵の吐息を零す。

「……どうやら、最悪の事態は避けれているようだな」

「ええ、まあ……本当に綱渡りのような状況ですが、どうにか」

 言いながら、レナードはちらりと彼を――《血塗れの怪物》であるツカガミ・トバリを一瞥する。

「幸運にも、彼の助力を得られまして……一端は窮地を脱した、とう状況です」

問題イレギュラーかね?」

正体不明の化け物アンノウンに襲われた――としか言いようがないですね。襲われたから反撃したのですけど、どうにも手応えがないというか……おかげで支給されていた干渉機関クラッキングエンジンの試作機も使用限界キャパシティ・オーバーですよ」

 言いながら、レナードは衣嚢ポケットから懐中時計を取り出した。正しくは、懐中時計の形をした干渉機関クラッキングエンジンである。

 レナードが差し出す懐中時計を見つつ、マイクロフトは「正体不明の敵?」と問いを続けた。レナードは首を横に振る。

「言葉通り。僕にはあれがなんなのか判らなかった……レヴェナント、だとは思うんですけどね。其処のところどう思う、《血塗れの怪物グレンデル》?」

 敬礼を解きながら、レナードはトバリを見た。「お前なれなれし過ぎだろ」と苦言を零すトバリ。彼はエルシニアから紅茶入りのカップを調度受け取った所で、向けられた視線に肩を竦める。

「――レヴェナント、ってのは間違いないだろうが、見た目がこれまで見た八のどれとも一致しやがらねーし……どうにも手応えが違ったな」

「見た目と手応え……かね?」

 椅子に座ったまま、ヴィンセントはトバリを振り返って訊ねる。トバリは紅茶に一口つけてから頷いた。

形状かたちは人型に近いのに空中を漂ってやがるし、全身を襤褸布で隠してるからどんな姿をしてるのかは判らねーし。で、肝心の手応えだが――そこのオニーチャンが言葉通りだよ」

「言葉通り、ですか?」肩を竦めるトバリの言葉を反芻するエルシニア。トバリは頷き、片手を翳し、ぐっと拳を握る。

「そう、言葉通り――手応えが、ない」

 握り締めた手を気軽に開いて見せながら、トバリは実感の籠った言葉を発した。

「受け止めてる時には重さがあるのに、いざ此方が攻め手に回ると、どういうわけか何も感じられない――まるで空気に殴りかかってるみたいな感じだったよ」

「寝ぼけてた?」と、リズィが首を傾げるので、トバリはすかさず「二人揃ってっていうなら、そうかもなぁ」と皮肉を返す。リズィは「ぶぅ」と拗ねた声を零した。

 トバリは苦笑し、視線を少女から仮面の男へと移す。

「まあ、その件は一端置いておこうぜ、ミスタ・マイクロフト。議論よりも先に、アンタの依頼を聞くのが先だ」

「そうだろ?」と、トバリはヴィンセントに続きを促した。錬金術師は「確かに、その通りだ」と、首肯と共に苦笑いを浮かべる。

「――ホームズ卿。貴殿は先程、依頼の一つをと言ったが……つまり、貴方の依頼内容の一つは、この青年の捜索ということだったのかね?」

「ええ、その通りです。サン=ジェルマン伯爵」ヴィンセントの問いかけに、マイクロフトは鷹揚に頷いた。

「この一見間抜けに見える若者は、これでも私の腹心の部下なのですよ。無茶な仕事を任せたという自覚がある手前、もしも不測の事態に陥っているならばと思い、〝人探し〟と〝護衛〟の両方を――それも即座に対応できる人材となれば、やはり限られている。そう――」

 マイクロフトはトバリを見上げ「――このロンドンに喧伝される《血塗れの怪物》とかね」と、わざとらしい科白を吐く。トバリは彼の戯言に取り合わず、代わりにレストレードを見た。

「アンタは何でこんな胡散臭い奴と一緒にいるんだ、レストレード警部」

「無礼だぞ、《血塗れの怪物》。そして、好きで一緒に来たわけじゃあない」

「アンタの言い分も充分無礼だと思うけど……まあいいや。で?」

 ――ならば何故、と続きを促す。するとレストレードは白髪交じりの髪をくしゃりと撫で上げ、うんざりした様子で答えた。

「――今日、ストランドの裏路地で変死体が発見された」

「こう言ってはなんだが……ロンドンの路地で死体など、珍しいことでもないのではないかね?」

貧民街スラムだろうが中心部シティだろうが、路地一つ踏み入れば破落戸に物乞い、窃盗略奪暴力の見本市オンパレード。殺しの一つや二つは日常茶飯事だろ」

 茶々を入れるヴィンセントと軽口を叩くトバリに、レストレードは「……貴様らは黙って人の話も聞けないのか」と唸りながら頭を抱える。

「……お二人とも、警部の話の腰を折らないでください」

 エルシニアが溜息交じりに苦言を零すと、ヴィンセントは「申し訳ない」と微苦笑し、トバリは返答代わりに肩を上下させた。彼らの動向を確認し、強めに二人を睨みつけてから、改めてレストレードは口を開く。

「ただの殺しだったら、いちいち貴様らのところになど足を運ばん。問題なのは、その死体の死に様だ」

 皮肉をたっぷり込めて嫌味を吐きながら、レストレードは一枚の篆刻写真を取り出し長机の上に放り投げる。マイクロフトを除くその場の全員の視線が、自然とその写真へと集中し――

「……これは――」

「随分立派な木乃伊だな」

 写真をのぞき込んだエルシニアが絶句し、トバリが感嘆する様子で口笛交じりに言い、レストレードを見る。

「これが被害者やっこさんだってか?」

その通りだexactly

 レストレードが沈痛な表情で頷く。その眼は真剣そのもので、どうやら質の悪い冗談を言っているわけではないようだった。トバリはヴィンセントと視線を交わす。彼は猛禽を思わせるその双眸を鋭くし、写真に写る死体をつぶさに観察する。そして、


「まさか――吸血鬼か?」


 と小さく零した。それは誰かに確認を取るつもりで言葉を発したというよりは、検分によって得た情報を考察した際に漏れた囁きだったのだが、

?」

 トバリが、彼の呟きに呼応する。

「――ということは、トバリにもそう見えるわけか……」トバリの言葉に、ヴィンセントは常に余裕ただよわせる彼にしては非常に珍しい――苛立ち交じりの嘆息を零し、レストレードを横目に見て言った。

「レストレード警部。此処に来た君の判断は、実に正しい。これは、確かにだ……しかし――」

 ヴィンセントはそこで言葉を止める。その表情には、僅かな逡巡の色が浮かんでいる。彼は口髭を撫で、そのまま数秒沈黙し、眉尻を下げながら口を開いた。

「――場合によっては、我々でも対処に苦労する案件だろうな、これは」

 同瞬、

「ほほう」

 ――と。

 興味深げに、そしてわざとらしい口調で、「貴方ほどの人物でも、難しいと判断するか」と、マイクロフトが訊ねる。挑発の意味もあったのであろうマイクロフトの言葉に――しかしヴィンセントは強がることなく首肯する。

「勿論だとも、ホームズ卿。もしこれが我々の想像通りの存在による案件ものなれば、相応の対策が必要だ」

「ニンニクとか?」

 真剣に話し合う中に投げ込まれたのは、そんな暢気な一言だった。緊張感とは度遠いのんびりとした声音でリズィがそう口を挟んだ瞬間、一同は僅かに目を丸くして少女を見る。視線を一心に受けた彼女は首を傾げた。赤みがかった髪を揺らし、自分が注目されている理由が思い至らないらしいリズィは、「ん?」と言って視線を巡らせる。

「――……それ、偽情報デマだからな。あと、十字架クロスも効かねぇから」

「……マジかーreally

「あははっ、発想が可愛らしいお嬢さんだね」

 トバリの指摘に残念がるリズィを見て、レナードが声に出して笑う。何処か緊張感の欠くそのやり取りを見て、レストレードは「此処は児童預り所かよ」と悪態を零す。

「まあ、そう腐ることはあるまい」と、ヴィンセントはレストレードに微笑んで見せた。

「――まあ、この事件の真偽はさておいて……レストレード警部。早急の解決は約束できないが、事態の終息に微細なれど助力を約束しよう」

「それで構わん。俺は市民の安全を守るために打てる手を打つだけだ」

警官ヤードの鏡。正義を体現するような君の高潔なる精神に、素直な賞賛の言葉を送ろう」

「いらん」

 ヴィンセントの仰々しい科白を一蹴し、彼は帽子と外套コートを手に取って立ち上がる。

「分野がかぎつける前にどうにかしろ。でなければ、市民が不要な混乱に陥るからな」と念押しするレストレードに、ヴィンセントは「努力しよう」と曖昧に応じる。その辺りが妥当な返事だった。事件の片鱗しかまだ知りえない状況で、確約をする気はできないという意思表示。レストレードにしてみれば釈然としない返答ではあるだろうが、彼もまた現状では打てる手が限られていることを理解している。

 事態の全貌を把握することで、初めて物事は解決に至る手管を考じ得るのだ。それが判っているからこそ、レストレードはそれ以上の文句は口にせず、一言「……急いでくれよ」と言い残すと、一度も足を止めずに部屋を去った。

 彼が出て行ったのを見送り――レナードは感嘆の吐息を零す。

「いやぁ、噂に名高き腐敗したロンドン警視庁スコットランドヤードの中ただ一人燦然と輝く名警部って看板に嘘偽りなしって感じの御仁だね」

「その通りだ、レナード。君も見習い給え」とマイクロフトが言うと、レナードは「あそこまでお堅くはなれないですよ、僕は」と皮肉と共にに笑った。

 そんな二人の様子を窺いながら、ヴィンセントは不思議に思って眉を顰める。

「てっきり彼と共に帰るものと思っていたのだがね」

「そうしてもよかったのだが……私からの仕事の依頼――その返事を貰っていないのでね」

 マイクロフトの言葉に、ヴィンセントは「ふむ」と一人頷き、暫し若者レナードを観察した後不思議そうに首を傾げる。

「其方の青年の護衛――というのならば……正直その必要があるのかと、疑問符を浮かべるところだが。君と合流した以上、その身柄は上司である君が守るのが筋ではないかね?」

「まったくその通りだ、サン=ジェルマン伯爵。常識的に考えれば、それが当然だろう。しかし、私や私の部下ではどうにも対処しきれない事情が、彼にはある」

 ヴィンセントに負けず劣らずの芝居がかった所作と科白染みた言葉を連ねるマイクロフトに、ヴィンセントは愚か、エルシニアとリズィまで顔を突き合わせて首を傾げた。

「……ヴィンス、そいつは――」

 その中でただ一人、心当たりのあったトバリが口を開いた――その時だった。

 声が――


 ――GRRRRRRR……


 声が――

 この場で聞くはずのない声が、確かに聞こえた。


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