一幕『その列車に乗り合わせたのは、幸か不幸か』Ⅰ

[ブライトン発、ロンドン行き列車を待つホームで]


 濛々と吹き出す煤煙が駅構内に蔓延し、男は思わず口元を手拭ハンカチーフで塞ぎながら、ふと足を止めて振り返った。

 男の視線の先には、海が広がっている。真っ暗で、汚れ切った海だ。

 かつて――

 かつて蒸気機関エンジンによる公害によって汚濁に塗れる以前、この海が紺碧に染まる美しい海だったと言ったのは誰だったか。隣に住んでいた老婆だったかもしれないし、飲み屋パブで昼間から飲んだくれている爺さんだったかもしれない。

 兎に角、老いぼれたちは口を揃えて似たようなことを言うのだ。

 青い空。白い砂浜。燦燦と照り付ける太陽、紺碧の美しい海――最早取り戻すことのできない過去の姿を追い求める声は、世界中何処にでも転がっている。

 だが、どれだけ過去の美しい風景を追い求めても、取り戻すことは不可能だ。

 第二次産業革命――世に機関エンジン革命と呼ばれる蒸気機関文明の躍進から半世紀余り。蒸気機関の発展と進化は歯止めを知らず、大都市では日々新たな蒸気機関の開発が進み、都市開発によって次々と聳え立つ蒸気機関を備えた超高層建造物は日々数を増していく。

 それは、大英帝国の片隅。かつて観光名所の一つとして数えられていたこのブライトンでも変わらない。かつては観光客のために列挙していた土産物屋や宿泊施設の多くは店を畳み――代わりに軒を連ねるようになったのは、魚などの養殖用機関プラントであったり、都市部では騒音を始め、運用に難のある大型機関機械を使った大量生産型工場たちである。

 まるで森林の如く列挙する煙突からは、天高くまで昇る煤煙が吐き出され、工場群からは大量の蒸気が濛々と噴き出ており、街の景色は灰色と蒸気によって呑み込まれていた。

 酷い、酷い光景だ。しかし、それは最早世界中の何処にだってありふれている光景である。むしろ、このような光景がない場所を探すほうが難しいだろう。

 合衆国の北の果てか南の果てか。あるいは暗黒大陸の南に広がる大森林に向かうかだ。かつては極東という選択肢もあったが、近年では極東の島国オリエントも蒸気機関文明の洗礼を受け、帝都を中心に蒸気機関技術が普及しているという話を、随分前に三流タブロイド紙に書かれていたような気がする。

 まあ、どのみちそのような場所に足を運ぶ気など、男にはなかった。男は蒸気機関文明を是とする人間だ。 確かに大気を始めとした自然破壊は目に余るが、今更手に入れたこの高度蒸気機関技術が齎す文明社会を手放すことなど不可能なのである。

 ならば受け入れた上で、改善策を模索するしかないだろう。そしてそれは、男の仕事ではない。そんな面倒なことは、碩学様がどうにかすることだ。企業の務め人でしかない自分は、今日も今日とて企業のための取引を終えて、サインのされた契約書を手にロンドンへ取って返すだけである。

「えー、ロンドン行き。ロンドン行きの列車の準備が完了しました。お待ちのお客様は切符をご用意してお並びください」

 と、物思いにふけているうちに、どうやら列車の準備が終わったらしい。振り返れば、わらわらと砂糖に群がる蟻のように、乗客たちが乗り口に集まりだしていた。

 男は足元に置いてあった大きな鞄を手に取ると、懐から切符を取り出し、彼らに倣うように乗り口へと向かった。




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