1-12

 オチビの体は、次第に冷えていきました。それまで私はずっと、首に牙を当てていました。涙が私の鼻先へと伝わり、オチビの血と混じって地面へと失せていきます。

 オチビの鼓動が消え、オチビ自身の何かがこの場から消えていくのが確かに、私には感じられました。

 私はずっと、動かないまま涙を流していました。外敵がまた居るかもしれませんが、この時だけは、私は何も考えられませんでした。

 虚無感が私の中を占めていました。しかし、涙が枯れるまで声も出さずに泣いた後、私は立ち上がらなくてはいけませんでした。

 私まで死ぬ訳にはいきません。この試練を生き延び、そしてオチビの分まで生きなければいけません。

 立ち上がった後、私は大蛇の方へと歩きました。失った悲しみによる体の気怠さもあり、私は歩いている今でさえも眠ってしまいそうでした。

 空腹もあったのですが、取り敢えずはと私は大蛇の死体から流れ出ている血を飲み、また、その死体に隠れて寝る事にしました。

 これなら寝ている間に殺されるという事は無いだろうという安易な推測だったのですが、私にはオチビの死体をきちんと埋めるか何かしようとする気も出ない程に、気力も尽きていたのです。


-*-*-*-


 何かを貪り食う音がして私は、はっと目を覚ましました。

 私の上に覆いかぶさっている大蛇の体が少しだけ動いていました。食べられているのはこの大蛇です。私は動かずに、食べている者を見極めようと、その音をじっと聞きました。ばりばり、ぶちぶち。

 ……それは豪快な、骨ごと噛み砕く音でした。それがマメである可能性はありません。マメはまだ、骨をここまで豪快に、簡単に噛み砕く事は出来ません。

 現役引退のワイバーンか? そう思い、私は嘆きました。体の疲れは案の定、全てが取れているという訳ではありませんでした。気持ちの気怠さも、全身の疲労もまだまだ残っています。

 どうするべきか、私は悩みました。ここから出て逃げ出す事は馬鹿らしい選択だと思いました。幾らそのワイバーンが高齢であろうとも、私の方が足は遅いと思えたのです。

 かと言って、このまま隠れていて大丈夫なのでしょうか。見つかったとしたら、奇襲を掛けるよりも先にその牙で噛み砕かれるとも思えました。

 どうすれば良いか決めあぐねていると、また足音が聞こえてきました。四足の動物の足音です。

 成獣しているワイバーンの居る場所に近付いて来る獣なんて、同じ魔獣しか考えられませんでした。

「グルアッ!」

 大蛇を食べていたワイバーンがその何かの魔獣に向けて威嚇をしました。声質は老いているワイバーンのものとは思えないものでした。

 それを聞いてものす、のす、という重量感溢れる足音は変わりませんでした。その足音は、私のどこかの記憶を刺激しました。

 ……赤熊?

 赤熊は普通の樋熊と同じ程度の大きさではありますが、膂力、そして頑丈さは樋熊とは比べ物にならない魔獣です。自重を利用して殺そうとしようとも刃が全く通らないとか、そんな事を私は知っていました。

 どちらが強いかは私は知りません。けれども、どちらが勝とうとも、戦いになってくれればそれが一番私にとって好都合でした。

 戦っている最中に、私のような雑魚が逃げ出してもどちらも追いはしないでしょうし。

 グルルル、とワイバーンは喉を鳴らして威嚇し続けますが、赤熊と思える魔獣はワイバーンには近寄らずに、違う方に行って同じ大蛇の肉を食べ始めました。

 無駄に戦いをする事は無い、という現れなのでしょうか。私にとってそれは大きな迷惑でした。ワイバーンも威嚇するのを止めて、食事を再開してしまいました。

 二か所で、私の身を隠している大蛇が食われています。ばりばり、みちみち。

 唯一幸いなのは、大蛇が木に巻き付いて私を殺そうとした事でしょう。どちらが大蛇を食い千切ろうとしても、大蛇自体が動く事はそうは無く、私は今の所隠れられたままで居られたのです。

 とは言え、私の心臓はかなり激しく動いていました。こんな状態で見つかってしまえば、あるのは確実な死です。赤熊の方は食料が目の前にある状況で追い掛けては来ないかもしれませんが、ワイバーンの方はそうは思えません。

 しかし、何も出来ないまま、ばりばり、みちみちと肉を食らう音を聞く事しか出来ないまま時は過ぎて行きました。


 赤熊が去っていく音がして、その後にワイバーンも食べるのを止めました。

 ワイバーンは何故か、ここから去ろうとはせずにうろうろと辺りを回っていました。足音が一向に消えずに私はいらいらとし始めていました。また、オチビの死体をどうにかしようとしている訳でも無さそうでした。

 もしかして、この大蛇を殺した私を探しているのでしょうか。大蛇には私の小さな歯型や鉤爪の痕が沢山残っています。これを殺したのは私のような小さなワイバーンだと気付いていてもおかしくありません。

 それに加え、オチビの死体があると言っても、相打ちになった可能性は私が介錯をした痕が残っているので消えてしまいます。

 私を探している、という推測は当たっている可能性が高いでしょう。

 見つけられるのは時間の問題だ、と私は思いました。死んだふりなど役に立たないでしょう。念の為と、一撃加えられたらそれでお終いですし。

 私はここから出なくてはいけませんでした。それが死を早めるだけであっても、待ち続けても同じ結果が確実に来るなら、不確実な未来を選ぶしかありませんでした。空腹と疲労が私を弱らせていても、オチビをちゃんと埋める事が出来なくても、です。

 そうと決めてから、私はより一層耳を澄ませました。逃げるタイミングはワイバーンがこの遠くを探している時です。

 ふわぁ、という大きな欠伸が聞こえました。そのままワイバーンは足音を小さくしていきました。

 次に欠伸をした時、と私は出るタイミングを決めました。そして、決めたすぐ後にワイバーンは欠伸をしました。

 私は体を起こし、大蛇の体を押しのけて飛び出しました。

 一瞬だけワイバーンの方を見ます。私の方を見て、半ば驚いた顔をしていました。こんな場所に隠れているとは思わなかったのでしょう。

 私はワイバーンから背を向けて全力で走り出しました。ワイバーンが満腹で満足に走れない事を祈りつつ、自分の体が血塗れで赤黒く染まっている事にも驚きつつ。

 はっ、ふっ、はっ、ふっ。

 ワイバーンが追ってきていないのに気付いたのは、少しだけ時間が経った後の事でした。


 はあ、はあ、と息を整えながら私はまた歩き始めました。

 喉の渇きは、昨日寝る前で血で潤した為にありませんでしたが、空腹は私の体を襲っていました。

 また断末魔が聞こえ、疲れたな、と私は単純に思いました。いつまでこれは続くのか、また何をしなければいけないのか、私には全く分かりません。

 もう、私に頼れる味方が居るとしたら、兄妹しか居ませんでした。それも生きているかどうか分からないのです。

 その兄妹達を探す気力も私にはありませんでした。たった一匹で居る状況が危険過ぎるとしても、探している内に敵わないような獣に遭う可能性が高まるのと、探し出せる可能性が低いというその両方が私の気力を削いでいました。探すにせよ、探さないにせよ、総合的に危険な状況なのは変わらなかったのです。

 こびりついた赤黒い血を舐めて、また払い落としながら、マメが一番死んでいる確率が高いか、と何となく思いました。兄妹の中で一番弱く、友達も私と同じく一匹しか居ない。噛む力は一番強いのですが、問題は噛めるかどうか。

 覚悟が出来たとしても、マメは勝てるかどうか。マメの友達もマメと同じような小柄なワイバーンだったので、二匹で覚悟が出来たとしても獣にさえ勝てるかどうか。考えても、中々怪しい所でした。

 けれども、オチビを失ってしまった今、それを考えても大した感傷は浮かんで来ませんでした。それ程に、私にとってオチビの死は大きかったのです。

 目の前をリスが通りました。駄目だ、捕まえられないと即座に私は思いました。駆けるスピードはリスの方が早く、木に登る事も出来るのです。尾の毒針を飛ばせるようになったら捕えられると思うのですが、尾からは新しい毒針もまだそんなに生えて来てはいませんでした。

 素早く私の視界から消えたリスを私は眺めていると、後からがさがさと枯葉を撒き散らしながら走る音が聞こえてきました。

 私と同じ、ワイバーンの子供の足音でした。その雌のワイバーンは私を見つけ、立ち止まりました。すると、私の腹の音と、そのワイバーンの腹の音が同時に鳴りました。

 どちらも、相手の目をじっと見ました。そのワイバーンは血走っているような、もう我慢出来ないようなそんな顔をしていました。

 とても、嫌な予感がしました。

 ……私は酷い顔をしていたのでしょう。そのワイバーンは勝てると踏んでか、襲い掛かってきました。私を殺して食うつもりなのがもう、私自身にも分かってしまいました。

 私は迷いながらも、勿論迎撃します。走り、叫びながら振るわれた翼腕を躱して、更に飛んで来た尻尾も軽く跳んで躱しました。体を回転させる攻撃でしたが、速度も威力も成獣のと比べたら、いや、子供の中でも比べたら弱い方でした。

 私は一瞬無防備になった体を蹴りつけます。ワイバーンはごろりと転がり、距離を取ってまた吠えました。それは単なる勢いだけの声に私は聞こえました。また、私以上に疲労していて、私以上に空腹で渇きもあるのもすぐに分かりました。

 このワイバーンは私よりも、辛い思いをしたのかもしれません。

 ワイバーンはまた走ってきました。頭も働いてない。働かせる事すらも出来なくなっているみたいだ。そんな事を思いながら、私は噛みつきを躱して頭を殴りました。まだ、私はどうするべきか迷っていたのです。殺すべきなのか、私が逃げるべきなのか。

 グゥ、と体をふらつかせながらも、ワイバーンは倒れずに私の方を睨み付けてきました。

「ア゛ガアアアッ!」

 その声を聞いて殺してくれ、と頼まれたような気がしたのは私の気のせいでしょうか。憐れむ位なら殺せ? どうせ私はお前を殺せなければ死ぬんだろうし、殺せ?

 私は一層困惑しながらも突き出された、毒針がほぼ尽きている尻尾に横から噛みつき、引っ張って仰向けに転ばしました。 

 どさり。そして、そのワイバーンは動かなくなりました。泣きもせず、叫びもせず、何もせずに、倒れたままでした。目を閉じて動かないその姿は、殺されるのを待っているように見えました。

 ……大蛇の肉はまだまだ残っているのでしょうが、私はそこに戻るのは嫌でした。言う間でもなく、このワイバーンを殺すのも嫌でした。

 選ぶとするならば、どちらか一つでした。殺さずにただ私がここから去ろうとしても、このワイバーンは追って来るでしょう。殺すか、殺さずに現役引退のワイバーンが居るかもしれない事を覚悟して大蛇の肉の元に連れて行くか。

 けれども、私の心の内はすぐに決まりました。二日続けて、同じ子供のワイバーンを殺す方がよっぽど嫌でした。

 私はそのワイバーンを蹴り、無理矢理立ち上がらせました。

 そして、付いて行くように示し、歩き始めました。私はどうやっても倒せないと思ったのか、もう襲う気は無さそうでした。

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