1-13
来た所まで迂回しながら、あの老ワイバーンが居ないかどうかびくびくしながらも私は歩き続けました。
後ろのワイバーンは疲れ切った顔のまま、私の後をふらふらとしながらもずっと付いて来ていました。もし、今何かと出遭ってしまったとしても、何の役にも立たないでしょう。
少しの時間の後、私は血の臭いを嗅ぎつけます。犬よりは鈍いですが、流石に人間とかよりは鋭い嗅覚は私に染みついた大蛇の臭いを感じ取る事が出来ました。
もうそろそろでした。私は最大限周りに注意を払いながら、そこに向って歩きました。
音は何もしません。肉を貪る音も、私達以外の何かが歩く音も聞こえませんでした。逆にそれが怖くもあったのですが、後ろのワイバーンはそんな事も気にする余裕も無さそうでした。
もう少しだけ歩くと、とうとう大蛇の死体が見えてきました。隣にはオチビの死体もまだそのままありました。後できちんと埋めようと思いながら、大蛇を見るとまだまだ肉は沢山残っています。
肉を食える、と私は思った時には口から唾液がいつの間にか漏れていました。
誰も居ない事を何度も耳と目、鼻も使って何度も確認してから、私は大蛇の死体まで走り鱗の内側にある肉に齧り付きました。それは冷たく、硬い肉でしたが、空腹な私にはそれでもとても美味しい肉でした。血が私を潤し、肉が私を回復させていくのを体が感じていました。
付いて来たワイバーンも夢中になって顔を大蛇の腹の中へと突っ込み、血を飲み、肉を貪っていました。やっぱりこっちを選んで良かった、と私は思いました。
体はとにかく肉を噛み千切り、胃へと運んでいます。満腹になるまでは食べない方が良いな、とは思っているのですが、この空腹に対する欲求はそんな意志を弾き返してしまいます。
丁度良い腹の具合になるまでずっと、私は多くの肉を欲していました。
満腹までは食べませんでしたが、満足するまで私は肉を食べ続けました。赤熊と老ワイバーンが食い、私ともう一匹のワイバーンが腹の中を貪り、大蛇の体は穴だらけでボロボロになっていました。
勿論、食べている時も警戒はしていました。ちゃんと警戒出来ていたかは別として。
私は首を大蛇の腹から出し、未だに肉を食べ続けているワイバーンの方を見ました。これから共に行動する事になるな、と思っていたのですが、どうにもあだ名が無いと変な気がしました。
私も今はそうだったのですが、体が血塗れだったので彼女の事はアカと呼ぶ事にしました。
さてと、と。
私は未だにそのままのオチビをきちんと埋める事にしました。ワイバーンが川に死体を流した時、私は疑問を感じていたのですが、それと同時に少し驚いてもいたのです。ワイバーンには死者を弔う習慣が少しだけでもあるという事を私はその時初めて知ったのです。
ただ、全てのワイバーンが弔われる訳でも無いという事も私は既に知っています。そして、オチビはその対象です。飛べずに死んでいったワイバーンは糞塗れの中に放置されたままでした。カラスもきっとそこに腐って埋もれたままです。
強い者だけが、弔われる。成獣のワイバーンの骨もあの糞塗れな場所で見つかったのも考えると単にそれだけでは無いのでしょうが、強い者だけは、というのはきっと合っていると思います。
オチビはこの試練で死にました。埋葬されるべきではないワイバーンです。分かってはいますが、そんなもの関係ありません。アカがそれを今理解しているとも思いませんし、この位の我儘は許されるべきです。
……なので、老ワイバーンがそれを止めようとして、そして私とアカを殺しに来ても、私は逃げずに抵抗します。
アカも立ち上がり、肉を飲み込んで威嚇しました。
どす、どす、と老ワイバーンは私達の方へと近付いて来ていました。
口には血の痕が残っています。大蛇を食べていたワイバーンと同じかどうかも分かりませんが、その血には屠られた子供のワイバーンの血があるのは確かでしょう。
状況を確認しましょう。アカは、飢えと渇きが満たされたとしても、疲れは消えていない筈です。大して動けはしないでしょう。私も同じようなものです。アカよりは疲労は酷くないでしょうが、残念な事に私自身、そんなに長い間全力で動ける気はしません。老ワイバーンはどうでしょうか。もし、大蛇を食べていたワイバーンと同じだとしたら、何故あの時私を追って来なかったのか。
それは満腹まで大蛇の肉を食べたからなのでは? 満腹だったから、全力では走れなかったのでは?
けれどもそれは当たっていると良いな、位に留めておきましょう。今まで私の勘は大体当たっていますが、今回も当たるとは限りません。
私はオチビを最後に見てから歩き、アカの隣に並びました。
二度目の戦いの時です。大蛇よりも手強いのは考えなくても分かります。勝たなくてはいけないのも同じです。
「ルアアアアッ!」
私は吠えました。
「グオオオオッ!」
老ワイバーンも私に向けて吠えました。私達と違い、耳がおかしくなるような音量ですが、もしこれが族長だったならば、私の鼓膜は既に破壊されてしまっているでしょう。
私もアカも疲労は溜まっていますが、私には勝てる自信が十分にありました。
そして、合図をした訳でもなく私達は同時に、老ワイバーンの両脇へと走りました。
老ワイバーンは姿勢を低くし、翼腕を広げて私達を迎撃する体勢に移りました。鋭い鉤爪と破れていない皮翼が私に襲い掛かってきました。私はギリギリまで跳躍せず、鉤爪をしっかりと見極めて翼腕を踏みつけてそれをやり過ごしました。
私達に背を向けた老ワイバーンがそのまま攻撃を許す訳なく、尾が暴れ始めたのが視界に入ります。私の方が元気そうだったのが見えたのか、尾の先端が私に向きました。
私は半ば反射的に地面を横に蹴り、その直後、私の居た場所に毒針が数本飛んで行きました。
「アアアアアッ!」
アカがその暴れる尾に噛みつき、そしてしがみつきました。アカは自分に戦える体力が無い事を分かっていたようです。暴れる尾から振り飛ばされない事だけに全力を尽くし、必死になりながら、私の方をちらりと見ました。
お前が殺せ、と言っていました。
ずっとしがみついてくれているなら、それはそれで好都合でした。
尾に神経を尖らせる必要が無くなっただけで、私の負担はかなり減りました。
老ワイバーンが体を回転させ、向って来た翼腕を伏せて躱しました。顔面が迫る中、空中に跳ぶのは危険だと思ったのですが、それは当たりました。牙をむき出しにして私が跳んでいたであろう場所を老ワイバーンは噛み砕いていました。噛み砕かれたのが空気であったのは本当に幸いでした。
私は今度は跳び、回転して地面すれすれを飛んできた翼腕を躱します。そして、皮翼に鉤爪を突き刺しました。
自分の勢いで破れてしまえ。そう思っていたのですが、結果は全く違いました。
皮翼は破れる事なく、私の鉤爪は逆に老ワイバーンの皮翼に固定されてしまいました。そしてそのまま老ワイバーンは回転を続け、危険を感じた時には私は宙を舞っていました。
世界が一回転し、そのままゴロゴロと私は転がり大蛇の死体に激突しました。
「アグッ……」
駄目だ。よろめいてしまう。立ち上がれない。大蛇の死体が衝撃を和らげてくれたものの、体がおかしくなっている。私の体はまるであの儀式の時のコボルトのようでした。
くそ、何が老いたワイバーンなんだ。そんな事を吐きながら、体はおかしくなって危機的な状況だったのですが、それでも勝てる気は未だにしていたのです。
老ワイバーンが尾ごとアカを木に叩きつけて、アカを落としたのが見えました。
アカはそのまま倒れ、そして動かなくなりました。けれども、まだ生きています。流石に老いたワイバーンに叩きつけられた位で死ぬような軟な体は私達ワイバーンはしていません。
私は地面に鉤爪を勢い良く突き刺し、足に力を込めて何とか立ち上がりました。コボルトのように吹き飛ばされたものの、私自身は大きなダメージを負っていません。この僅かな時間で私は回復していました。もう、十分に立ち上がれます。
「ルアアアッ!」
もし、この老ワイバーンが全盛期だったら。大蛇が衝撃を和らげたとしても、私はまだ立ち上がれなかったでしょう。アカは木に叩きつけられた時点で死んだのでしょう。勝てる気がした理由は正にそれでした。
老ワイバーンはアカに止めを刺そうとしていたのを止めて、私の方を見ました。老ワイバーンは既にもう、息を大きく上下させていました。
力もとても衰え、また、その巨躯を生かして戦える体力は殆ど残っていないのでしょう。体は大きくとも、もう大きいだけでしかない。
どすどすと老ワイバーンは私目掛けて走ってきました。口を大きく開けながら、涎を垂らして、体を大きく上下させて。
私も走り始めました。狙いは足。重心すらも定まっていない足。
皮翼の後ろから尻尾が見えました。私は身を伏せながらも走り続けます。しかし、ビシュ、と音がして背中に毒針が刺さりました。
「ア゛ッ」
痛みで目を閉じてしまい、体がふらついたその瞬間、私は老ワイバーンと衝突しました。
巨体の足が私の全身を蹴り飛ばそうとしましたが、何とか私は足を踏ん張って堪えました。崩れた姿勢で蹴りは顔面に当たり、鼻が折れて血が出始めていて、更に足の先は私の腹に爪を立てていました。どちらも酷い痛みでしたが、堪えられるものでした。蹴られて、そのまま吹き飛ばされるような威力ではなかったのです。
私は更に身を屈め、鉤爪をその足の先に刺しました。そこは誰にとっても怯む場所の一か所である事を私は知っていました。
老ワイバーンもその例外ではありませんでした。短く悲鳴を上げ、私の鉤爪を抜こうと足を退きました。
私はそれに合わせて鉤爪を抜き、同時に重心が不安定になっているもう片方の足に向って全体重を掛けて突進をしました。
ぐらり、と老ワイバーンが傾きます。もう一度、私は突進しました。
そして、枯葉を巻き上げながら、老ワイバーンは仰向けに倒れました。
同族であるワイバーンと言えども、容赦するな。そんな事を私は自分に言い聞かせました。殺さなければ、何をしようともこのワイバーンは殺しに来るのです。尻尾が反撃に移る前に、仰向けに倒れた老ワイバーンの隠れている性器の部分に私は足を掛け、全体重を掛けて踏み抜きました。丸い二つのモノの感触は感じられませんでしたが、ぐにゅりとしたソレ自体の感触はしっかりとしました。
老ワイバーンはその急所を踏まれて、尻尾をびくりとさせた後全身を縮こまらせました。反撃はもう、出来そうにありませんでした。
更に私は念には念を入れて心臓や肺の部分も何度か踏んでから、喉の前に立ちました。
「アッ……カッ……」
老ワイバーンの体は痙攣していました。息も出来そうになく、放っておいても、もうすぐ死にそうでした。
とは言え、止めを刺さなければいけません。殺さなければいけないのは分かっている事ですし、けじめでもありました。
私は喉に牙を当て、力を込めました。ぶしゅ、と血が噴き出したのを確認して、私は牙を離しました。やはり、殺しに来たとは言え、同族を殺すのは慣れるものではありません。
力をゆっくりと、全身から抜きました。私の中には疲労が極度に溜まっています。今、誰か新たに来てしまったら、流石に勝てる気はしません。
ふぅ、と息を吐き、アカの元へと行こうとしたその時、ふらり、と私は唐突に倒れました。何故、と思ったと同時に私は毒針が背に刺さっていたのをそこで思い出し、そのまま体も頭も働かなくなってきました。
最後に私は、ワイバーン自身の毒に対する耐性がある事を願いました。
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