1-11

 シューッと蛇独特の声を上げながら、大蛇は鎌首を持ち上げました。

 私は息を整え、じっとその動きを見つめます。頭に噛みつかなければいけません。胴に噛みついたって、食い千切って動けなくさせられるまでに、巻き付かれて締め上げられて殺されるでしょう。

 オチビが私の隣に並びました。きちんとは見れませんでしたが、オチビは半ば震えていました。大蛇に怯えていました。狙われるとしたら、私よりオチビでしょう。

 けれども、守りながら戦える自信は私にはありませんでした。私はオチビを翼腕で後ろへ押しやりました。震えているなら逃げろ、と伝える為に強く押しました。

 大蛇はその瞬間、突っ込んできました。私は体を回して避けるものの、想像以上に大蛇の動きは速く、頭には噛みつけませんでした。

「ギィッ!」

 直後、私はその悲鳴を聞きました。オチビの悲鳴でした。

 ずるずると大蛇の体が這って私の横を過ぎ去って行きます。既に大蛇の眼中に私は入っていませんでした。後ろに居た筈のオチビが居なくなっていました。

 このままだとオチビが殺されてしまう! 私は大蛇の胴に咄嗟に噛みつきました。その部分はびくりと震え、私の体ごと持ち上がります。私は翼腕に生えている鍵爪を両方ともその滑らかな胴に突き刺しました。

「イ゛アアヴゥゥゥッ」

 みしみしと締め上げる音の中から、オチビの何か賢明に堪える声が聞こえてきます。私は後ろに続く胴が自分の周りに来るのを察知して牙と爪を離しました。食い千切れはしませんでしたが、口の中に血の味は十分にありました。突き刺した翼腕も血塗れです。

 私は地面に落ちると、今度は尻尾を突き刺しました。まだ、毒があるかどうかは分かりません。あるならば、少しの時間でこの大蛇は動きを止めてくれるでしょう。引き抜くと尻尾の毒針の数本が抜けた感触がしました。

「ヴヴ、ヴヴヴッ……」

 オチビの声は今にもぷつりと切れてしまいそうな弱い糸のようでした。オチビの居る場所は暗くて良く見えません。私は尻尾を引き抜いた後に、すぐ走り始めました。

 本当に短い距離ですが、それを走り切ってオチビを助けられる時間は、オチビが耐え切れずに死んでしまう時間より短いように感じられてしまいます。私はとにかく、全力で走りました。

 丸い塊が見えました。そんな、まさか。オチビの声が聞こえません。

「ルアアアアッ!」

 私は叫びながら、その丸く固まっている、オチビを締め付けている蛇の胴体に噛みつき、突き刺しました。

「アアッ、ガアァッ!」

 毒針が無くなっても、私は尻尾を突き刺しました。強引に肉を引き千切り、鉤爪で抉りました。

 冷たく丸い、絡まっている胴体は私をも縛り付けようとしますが、私はその大蛇の体を鉤爪で抉りながら、足の爪で引っ掻きながら強引によじ登ってそれから逃げ、更に攻撃を加えました。

 目には血が入り、口の中は今までの食事の時全てよりももっと濃い血の味で染まっていました。体中が血に染まっていました。

「ヴヴアアアッ、アアアッ」

 大蛇の全身が動きました。ぼとりとオチビが落ちる音がしました。けれども、オチビは何も言いません。

 大蛇は私へと顔を向けました。表情は分かりませんでしたが、怒っているのは確かでした。けれども、私はそれを見ても何とも思いませんでした。私の方がより怒っているのも確かでした。

「ガアアアッ!」

 私は一旦距離を置いてから、また吠えました。怒っているとは言え、私は冷静でした。自分から跳び掛かっても勝機は少ない事は承知していました。

 頭の中にあった作戦は、躱して脳天を潰す、それだけでした。

 大蛇はふらりと体をよろけさせました。私は弱っている証拠だと思い、自分から襲おうと体を動かそうとしましたが、罠かと思い、止めました。けれども血は沢山流させましたし、毒もあるならもう既に回っている筈です。弱っているのは間違いないのです。

 もし、次に私を襲おうとした時は、それは確実に作戦を成功させられる程に大蛇の動きは遅い筈なのです。

 ずる、ずる、と大蛇が私の周りを動きました。大蛇は出来るだけ私には頭を近付けずに倒そうとしていました。怒ってはいましたが、私を恐れていました。

 毒は回っていないのか? まだ、毒は私の尻尾には存在していないのか? それは困る。そんな事を思いながらも、作戦を修正している間に、大蛇の胴が倒れているオチビごと私の周りを取り囲んでいました。

 ふぅ、ふぅ、と私は大蛇をじっと見ながら呼吸を合わせました。胴の輪は私を中心にして狭まっています。

 胴は足場になります。それを伝って私は大蛇の頭に直接噛みつく事が出来ます。一歩間違えれば私が噛みつかれ、飲み込まれてしまう事になりますが、それしか今、私に出来る方法はありませんでした。

 ずっとゆっくりと輪を狭めていくのか、ある時点で一気に輪を締めるのか。

 私はふっ、と息を短く吐きました。蛇の頭と私の位置の真中に胴が来た時、攻撃を仕掛けることにしました。

 そして、その時が瞬き数回程の時間が経った後、来ました。私は走りました。前傾姿勢になり、短い助走でより跳べるように。

 蛇の胴が一気に加速します。私は胴が加速した瞬間に跳び、更にその胴を踏んで更に跳び、翼を広げて大蛇へと口を大きく開けました。大蛇も同じく口を開けて私に突っ込んできます。

 まずい! 眼前に広がる光景を見て私は何かをしなければ死ぬと悟りました。白く光る大きな牙と、闇に染まった口の中が私の目の前にありました。

 私は今出来る精一杯の動きで翼を動かし、一瞬だけ重力に逆らいました。その動きで、大蛇の私を呑みこもうとする狙いから私は辛うじて逃れられました。その結果、私の眼前に迫るのは大蛇の大きな口の中ではなく大蛇の鼻となり、私はそれに思い切り牙を突き立てました。

 大蛇がびくりと震え、鼻を食い千切られる前に体を大きく動かして私を地面に叩きつけようとします。

 私は叩きつけられる寸前に牙を離して頭の上へと着地し、大蛇が逃げる前に再び私は頭に牙を突き立てました。

 大蛇が体を振りますが、私は両腕の鉤爪を目に突き刺し、足も首に固定しました。大蛇は転がり、上下に揺さぶり、そして私を木へと叩きつけました。

 今、ここで殺さなければ。私はそれでも怯まずに、背中に走る痛みを力に変え、鉤爪を目の奥へと入れながら、頭蓋を破壊しようと顎に一層の力を込めました。

 そして、とうとうビグビグと大蛇の動きが緩慢になっていきました。けれども最期に殺してやるという思いが伝わってくるように、大蛇は木に体を巻き付けて、私を木と挟んで圧死させようとしてきました。

 私は翼腕が動けなくされる前に、目から鉤爪を抜きました。そして、もう一度思い切り、その鉤爪を目に突き立てました。

 ビグ、と蛇が一度締め付けようとする動きを止めましたが、まだ死んではいません。

 鉤爪は脳まで到達していません。私の小さな鉤爪ではまだ脳に届きません。顎で、頭蓋を破壊するしか殺す方法がありません。

 私は大蛇の締め付けが完成する前に、とにかく早くと顎に力を込めました。しゅるり、と視界の隅に胴が入ってきました。一重の巻き付けが完成しています。体を締められて、体の骨が痛みを訴え始めました。

「ヴヴヴヴッ」

 視界が真っ暗に染まりました。死んでたまるものか。殺してオチビと帰るんだ。

 蛇の頭蓋がみしみしと音を立て始めました。既に、頭蓋に牙が刺さっている感触もあります。砕けるまで後少しだとも思えました。

 みしりと、体が更にきつく締まりました。締め付けが二重になったようでした。体中が悲鳴を上げていました。もう、これ以上は体が耐えられません。

「ヴヴッ、ヴヴ」

 幾ら力を入れても、牙は頭蓋を破壊出来ません。後少ししか時間は無いのに!

 死ね、早く! さっさと砕けろ! 

 しかし、砕けずに締め付けは三重になってしまいました。

 みしみしと音を強く立て、骨が限界に近付いていました。後少しで破壊される!

 そして、バキリ、と音がしました。

 ずるり、と大蛇の体が落ちる音がして、締め付けられていた私も少しだけ落ちました。

 ……限界ギリギリまでの痛みが私の顎の力を一押ししたようでした。私は頭蓋をとうとう砕き、大蛇の脳を破壊し、拘束から解放されました。

 はあ、はぁ、はぁ……。

 私は鉤爪を引き抜き、転がって体を仰向けにしました。もう、疲れました。今にでも睡魔が襲ってきて、眠りそうでした。

 けれども、これで終わりではありません。私はほんの少しだけ休んだ後立ち上がり、ゆっくりと私は、恐る恐る歩き始めました。

 ……正直言って、怖かったのです。オチビが死んでしまっている恐怖が私の中に渦巻いていて、声が聞こえないオチビを確認したくありませんでした。

 長いようでとても短い、そんな時間を経て私はオチビの前へと辿り着きました。

「ァァ、ゥァ……」

 耳を近付けないと聞こえないような微かな声を辛うじて、オチビは出していました。

 ……生きてはいましたが、見ただけでオチビの全身は折れているのが分かってしまいました。翼腕も、足も肋骨も、背骨も、全て折れていました。

 魔法を使える智獣ならば、いや、知能を持つ誰かが居れば、助かるのかもしれません。けれども、オチビはワイバーンです。そして、ここは野生の世界です。

 オチビを助ける事は出来ません。もう、助かりもしません。

 私は立ち尽くしました。声も出ませんでした。

 オチビが私の方を見ました。赤く変色しつつある月の光の反射を受けたその目を見て、私はそれだけでオチビがして欲しい事が分かりました。

 それを理解した私の目からは、涙が勝手に勢い良く出てきました。

 ……前世を持っていた私は、生まれながらにしてワイバーンとしての同一性を持っていませんでした。私はそのせいで、友達を作ろうと出来ませんでした。

 私に唯一何度も喧嘩を仕掛けて来て、そして私に付いて来たオチビだけが、私の友達だったのです。兄妹や母以外で、唯一親しく出来る存在だったのです。ある意味では兄妹より、母より大切な存在だったのです。

 その別れが、こんな、私自身が楽にさせなくてはいけない別れだなんて。

「アアアアッ、アアァ……」

 ……泣くよりも先に、楽にさせてあげなくてはいけません。

 私は泣きながらも、オチビの目を見返してしゃがみ、首に牙を当てました。

 ごめん、助けてあげられなくて。

 そして、私は一気に牙を突き立てました。血がどぷりと溢れ出します。オチビの体が軽くなっていくような感覚がして、それは今、命が失われている事なのだと、私ははっきりと理解しました。

 オチビは最後に体を少しだけ動かし、翼を私の頭の上に乗せて覆い被せました。それは、最後の身振りでした。

 意味しているものは、感謝でした。

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