2-16
数日が経ち、動く事自体には支障が無い位に怪我は治ってきました。
崖の上で飛べなくなってしまう程の怪我を負ったワイバーン達も崖から遠回りして降りて来たり、誰かに降ろして貰ったりして、日々の生活は徐々に戻って来ています。
しかし、変わった事は沢山ありました。
まず一番大きな事として、色違いのワイバーンはここから去って行きませんでした。族長同士は毎日のように、もう命がけではないいつも通りの喧嘩を楽しくしていますが、それ以外は大して接触する事もなく、どちらも追い出す事も出来ずに二種が混じって、どうにも言えない関係でこの崖で暮らすようになっていました。
快く思うワイバーンも少なければ、また不快に思うワイバーンも少なく、きっとその内それが当たり前になっていくんだろうな、と私は思いました。ワイバーンは種類が違えど、感情を引き摺らないのは同じようでした。
夜になれば戦いの前のように交尾が、しかし戦いの前以上に活発に為されています。どちらも、とても数が少なくなってしまい、それを早急に補わなければいけないのを分かっているようでした。
一匹で、交尾をしない私が昼間でも変な目で見られる程でした。
他にも変わった事は沢山ありましたが、私は今この群れから出なければ、一生出る事は無いだろうと、今の状況を鑑みて思っていました。
今、交尾はしたければする、という事からしなければいけない、という事に変わってきています。番と交わりたい、肉欲を満たしたい、というより子を作らなければ、群れの数を増やさなければいけないという方が重視されてきています。
きっと、私がこの群れでこのまま一匹で居る事は無理でしょう。頑なに一匹で居たら、もしかしたら族長が来るかもしれません。
私と交尾するのが族長でないにせよ、私はもう、交尾を拒否する事は出来ません。今の体では全力も出せませんし、群れの意志をそこまで無視する事も出来ません。そうしたら私は子を宿し、そして産む事となり、母となって子を育てなければいけません。
そうなった時点で、私はこの群れに縛られる、一生出て行けないと思っていました。
怪我の痕はまだ生々しく全快はしていませんが、出るなら今しかありませんでした。
-*-*-*-
体を動かすのに大体支障が無くなった次の日の昼、私はとうとうこの群れから出る事にしました。
アカには会いません。母にも会いません。族長にも、一匹だけ生き残ったマメとアズキの子にも、他のワイバーンにも誰にも会いません。万が一勘付かれて引き留められたら、それを拒否する術を私は持っていませんでした。
ただ、森のすぐ近くで私は八年間過ごしたその崖を少しの間眺め、そして去る事にしました。
立ち上がり、私は空を舞うワイバーンや、下で昼寝や喧嘩をしているワイバーンをもう一度眺めます。
もう、それはいつも通りの毎日の光景でした。色違いもこの群れに馴染んでいました。
……この群れの中で、一番自分勝手なのでしょう。私は。
ロのように、私は自分の都合だけでここから去るのです。こんな、群れとして危機に陥っている時期に私は自分の都合だけで、自分の都合を優先させてこの群れから去るのです。
ロのように、けれど、ロよりも私は自分勝手です。
戻って来る何て事、出来ないでしょう。
母を一匹にさせ、族長には疑問を持たせたまま、私以外殆ど友達を喪ったアカを放るのです。
けれども、それ以上に私は私が何かを知らなければ、気が済まないのです。この群れで一生をワイバーンとして生きるよりも、自分自身の謎を知る方がとても大切でした。
「……ヴゥ」
ごめんなさい、とただこんな所で言っても何にもなりませんが、私はここから去ります。
ありがとうございました。そして、ごめんなさい。
どく、どく、と心臓が鳴っていました。それが何の感情なのか私は形容する言葉を持っていません。
悲しみ、虚しさ、謝罪。緊張、希望、そして僅かにとうとうここから出る喜び。
様々な感情がとにかく入り混じって、けれど白と黒が混じって灰色にはなっていないような、そんな感覚でした。
……行きましょう。
そう思い、最後に上を見上げます。すると、一匹、こっちに向って来ているワイバーンが見えました。
遠い先からも私を見て真直ぐに飛んで来るワイバーンを見て、私は即座に飛び上がり、背を向けて全速力で森の向こうの山脈に向って逃げ始めました。
「ウルラッ!」
それは族長でした。遠くから、その綺麗で雄々しい咆哮が聞こえてきます。
逃げなければ、と私は直感的に思っていました。
幸いながら、飛ぶ速さはワイバーンの中で個体差はさほどありません。この距離の差があれば逃げ切れるでしょう。
「ウラララッ!」
何故、逃げる? 訳が分からない。
そんな混乱する感情を持ちながら族長は何度も吼え、確実に私を追いかけてきました。
私は答える事も、勿論止まる事もしませんでした。ただただ無言で、とにかく全速力で飛び続けました。
「ラルルッ!」
咆哮を身に受ける度に申し訳ない感情が溢れて来て、嫌だな、と私はやっぱり思いました。
本当に私自身を知る事は優先させるべき事なのか、私には分かりません。私に前世がある、私がおかしい、というのは私しか知りませんし、群れの意志よりも優先させる価値があると思えるのも私だけです。
共有も共感も、何も出来ないのです。
私自身の事を知れたとしても、それは私だけの自己満足であり、話す口を持たない私は誰にも話す事も出来ません。私自身を私以外が理解する事は無いのです。
ほんの少しだけ、私は迷いました。
自己満足、自己完結の為だけに私はこの群れから去るのです。傍から見たら、訳の分からない事に見えるのは当然です。
しかし、私はやはり、この道を選ぶ事に決めました。
生を、自分自身を知らないまま全うする事は私にはとても怖い事でした。何故か確信があるそれは、私に最後のもっとも強い決断をさせました。
私は、族長から逃げて、族長の咆哮を無視して、とにかく逃げ続けました。
初めて登る山脈は春になった今もかなり寒く、雲の中を突っ切り、登り切って世界が開けた時、族長の咆哮はもう聞こえて来ませんでした。
後ろを振り返っても族長はもう、居ませんでした。眼下は暗く薄い雲に隠れ、崖も川も森も、登って来た山肌も見えませんでした。
ばさり、ばさりと私は嫌な気持ちになりながらも暫くの間羽ばたき、それから一度、降り立ちます。
ワイバーンになってから初めて私は雪の大地に足を降ろし、「ヴゥ」と鳴きました。
雪の感覚は記憶が覚えていたのか大して真新しい感覚はせず、ただ少し懐かしい感覚だけを私に与えました。
私は振り返り、今まで見た事の無い、山脈の向こうを眺めました。
しかし、そこも暗く薄い雲で覆われ、この山脈の下に何があるのか全く分かりません。
沢山の黒と沢山の白、とにかく雑多な感情が入り混じったまま、私はその雲の中に入って行きました。
胸は逃げ始めた時からずっと、苦しいままでした。
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