第11話 帝釈天
セミが鳴いている。今年最初のセミだ。気が付いた時、僕は玄関ホールの椅子に座らされていた。
「キミは相変わらず重いねえ。ここまで運ぶのは一苦労だったよ」
八大さんは珍しく疲れ切った様子で汗を拭っていた。
「八大さん……僕は何を」
「何をじゃないよ、事務所を飛び出したと思ったら、道に出た途端に意識を失って、頭を打ったんじゃないかと肝を冷やしたぞ」
意識を失っていた。ではあれは夢の中の、いや、また夢と現の狭間での出来事だったのか。迦楼羅、青龍、オロチ、蛇の沼。ぞっとした。自分はあそこで間違いなく死にかけたのだ。夢と現の狭間で死んだ者はどうなるのか。おそらく二度と目覚める事は無いのだろう。首の後ろに冷たいものを感じ、思わず手で押さえる。
手……?
腕の感覚がある。普通に動いている。どういう事だ、僕の両腕は毒で腐ったのではなかったのか。あれはオロチの嘘だったとでも言うのか。それとも、あの体験それ自体が全くの夢の中の話で、夢と現の狭間での出来事ですら無かったという事なのか。
「迦楼羅の炎には蛇毒
ハッと見上げる僕の顔を見て、八大さんは満足そうにニッと笑った。
「混乱しているね。いいだろう、明日になったら説明してあげよう。今日の所は帰ってゆっくり体を休めたまえ。連中もしばらくは動けないだろうからね」
アパートに帰り着いたのはまだ昼前の時間帯だった。そして僕は途方に暮れた。八大さんは明日になったら説明してくれると言った。が、一体何を説明してくれるのだろう。どれ程説明してくれるのだろう。いや、それより何より、明日までどうやって時間を潰せば良いのだろう。
今の仕事は基本朝九時から夕方五時までだが、週に三日当直がある。ほぼ一日置きだ。と言うと大変そうだが、当直室にはシャワーもあるし、仮眠時間は八時間あるし、アパートのように隣や下階に気を遣わなくても済むしで、僕にとっては快適この上ない。そうなると自然、当直室での生活が中心になってしまい、アパートの居心地が悪くなる。お金を払って居心地の悪い部屋を借りていると思うと何とも言えない気分になるが、住み込みで働かせてくれと言えるほど図々しくもないので仕方ない。結果、たまにこうして昼間から部屋にいると、手持無沙汰で泣きたくなるのである。
世間の人々はこんなとき、何をするものなのだろうか。パチンコとか。駄目だ、自分には博打の面白さがわからない。以前一度興味本位で入った事があるが、千円使っただけですぐ出て来てしまった。自分には合わないのだろう。では酒か。昼間っから酒でもかっくらってみるか。そう思って冷蔵庫を開けてみたが、ビールの買い置きは随分前に無くなっていた事に気が付いた。酒は嫌いではないのだが、無くても困らないタイプなのだ。大体、部屋で一人で飲んでいても楽しくない。しんみりしてしまう。部屋にはゲームも無いし、PCも置いていない。テレビはあるが、見たい番組が思いつかない。どうしよう、本格的にやる事が無い。
その時、部屋の電話が鳴った。ディスプレイに表示されたのは、随分と懐かしい名前だった。
「でな、普段の様子から神経質な所とか臆病な所とかありますか、て聞いたんだよ。そしたら向こう、何て言ったと思う。『そっちはプロなんだから、それくらいどうとでも出来るでしょう』だってさ。できねえよ。どんだけプロの知識があろうが技術があろうが経験があろうが、その個体の個性を
「おまえ随分と『訳』好きだなあ」
高校時代からの旧友、長尾守はそう言うと、ビールをぐびりとやった。夕食時の居酒屋の店内では、店員が忙しそうに走り回っている。
珍しく暇なので今晩飲みにでも行かないか、と電話をくれた長尾に対し、今すぐ飲みに行きたいと無理を言って、結局二時過ぎに駅前の居酒屋で落ち合ったのだ。そしてもう夕方である。
「おいてめえ人の話聞いてねえだろ」
「こうやって聞いてるじゃんか、昼からずっと酔っぱらいの愚痴をさ」
「愚痴じゃねえよ! ……あと酔っぱらってねえし」
「おまえホントにわかり易い酔い方するよな。今日はこれくらいにしといたらどうだ」
「何言ってんだよ、まだ夕方じゃんかよ、久しぶりに会ったんじゃねえかよ、もうちょっと付き合えよ」
「おまえこそ何言ってんだよ、別に今生の別れでもあるまいし、そんなに遠くに住んでるわけでもないんだぜ、また暇なときに飲みゃいいじゃないか。それに明日も仕事あるんだろ」
「明日? ああ、明日かあ」
明日、八大さんは説明してくれるという。何を? 自分はそもそも何を疑問に思っていたのだっけ。いかん、酒が回って頭が回らない。
「何がっくりしてんだよ。仕事あるだけマシじゃんか。うちの会社なんか今、火の車だぞ。ほら、立って立って。歩ける内に家に帰るぞ。今日は
「馬鹿にすんなよ、金ならある……そうか、すまん」
支払いを長尾に任せ、僕は居酒屋の外に出た。夕方の生温い風が顔を撫でまわす。ああ、夏なのだなあ、と思いながら一歩二歩歩き出した。すると誰かにぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
だが返事は無かった。そのはずである、相手は人間では無かった。台に乗った銅像だった。
そう思って周りを見渡すと、街の様子が違う。自分がさっきまで飲んでいたのは駅前すぐにある六階建てのビルの一階の居酒屋だ。そのビルが無い。他に目立つものはコンビニくらいしか無かったはずなのだが、えらく食べ物屋が多い。広場の周囲は食堂だらけだ。待てよ、駅前にこんな広場なんてあったか。いや、いやいやいやそれどころではない、向こうに見える駅、その名前が全然違うぞ。
『柴又駅』
何処だここ。柴又?柴又って何処だ。……まさか葛飾柴又か?
「そうだよ。気付くのが遅いねえ」
声のした方を振り返った。しかし誰も居ない。居るのは銅像だけだ。
「銅像が
喋った。銅像が喋っている。
「そこは銅像だけにどうぞー、とか言って欲しいんだけど」
オヤジギャグだ、オヤジギャクを言う銅像だ。何だこれは。何の冗談だ。
「冗談じゃあないよ。ちょいと気になる事があったから、こっちまで来てもらったんだけど、アレかな、おいらが誰かとか、わかんないかな」
誰と言われても、映画の人というくらいしか。
「いやいやそういう事を言ってるんじゃないよ。困ったねえ、これじゃ話しても通じないな。アナンタも大変だ」
アナンタって何だ。また何かのギャグなのだろうか。
「山のアナンタの空遠く、ってか。いやそうじゃないから。アナンタは知ってるだろう、龍王の事だよ」
龍王……青龍!
「そうそう、その青いアナンタ龍王に伝えておいて欲しいんだけど、どうもアヒが最近何やら動いているらしいんだ。もしかして誰かさんがアヒに目を付けられるような事したんじゃないかな。とにかくアヒの動向に注意をしなさいよ、とね」
いや、伝えろと言われてもその。
「アヒだよアヒ、二文字だから簡単だろ。さすがに覚えただろ、アヒだよアヒ。じゃ、後はよろしくね」
転瞬。僕は居酒屋の前に居た。だが人の気配が無い。居酒屋の中からはコトリとも音が聞こえてこなかった。やはり、夢と現の狭間か。今日だけで二回目だぞ。どういう事だ。癖にでもなってるんじゃなかろうな。
「そんな癖はありません」
と、僕の隣で足利百子は言った。
「うああっ!」
僕は一気に十メートルほど飛び退った。
「何よ、そこまで驚く事ないでしょう」
「ど、どこからっ、い、何時の間にそんな所にっ」
「失礼ね、ストーカーでもあるまいに。つい今しがた来たところです」
「で、今日は何の御用でしょうか」
「何言ってんのよ、忘れたの、マスコミ対応の事。そっちが言いだしたんでしょう」
そう言えばそんな事もあった。でも、電話するとか言ってなかったっけ。
「電話したら具合が悪くて早退したって言われたのよ。それでちょっと様子を見に来たら」
「あれ、心配してくれたんですか」
「馬鹿じゃないの。何であんたなんか心配するのよ。本当馬鹿じゃないの。あの男じゃ話が通じないから、あんたの方に話を通そうと思っただけでしょ。物凄い馬鹿ね」
すみませんでしたすみませんでした、調子に乗りました。僕は馬鹿な男です。
「わかればいいのよわかれば。あんまり謝らないでちょうだい、迦楼羅に見られたらまたややこしい事になるから。ただ、一つどうしても気になる事があるんだけど、聞いてもいいかしら」
「はあ、何でしょうか」
「あなたさっき帝釈天と会話してたわよね。何を話してたの」
「帝釈天? 帝釈天で産湯を使い、の帝釈天ですか」
確かそんなセリフがあったような。
「そうよ、その帝釈天。で、何を話してたの」
「へえ、あの人帝釈天だったんですね、映画の人だとばっかり思ってました」
「あの人じゃないわよ!」
足利百子の怒鳴り声に、僕はさらに数メートル飛び退いた。一体何を怒っているのだろう、この人は。
「まったくもう、迦楼羅といい帝釈天といい、あなた自分が誰を相手にしてると思ってるの。こんな底無しの馬鹿初めて見たわ」
「すみません、無知なもので」
何で怒られてるのかさっぱりわからないが、とりあえず謝る。足利百子はコメカミをぐりぐり押している。頭痛がするようだ。
「もういいわよ。とにかく何を話してたのよ」
「はあ、アヒがどうとかこうとかで注意するようにと」
足利百子の顔から、さあっと音がする様に血の気が引いた。
「ああ、そう。じゃ私には関係無いわね。明日あなたの上司に聞きなさい」
「は」
「あの男なら知ってるはずよ。アヒについて教えてもらいなさい」
「あれ、教えてくれないんですか」
「何でそこまでする理由があるのよ! こっちまで巻き込まれたらどうするの」
「どうなるんです?」
「とにかくマスコミ対応の件は了解しました。余程都合の悪い日程でない限りは参加します。それ以外の事はあの男に聞いて頂戴。いいこと、絶対に巻き込まない」
ぷつり。何の予告も無く足利百子は消え去り、目の前には長尾が立っていた。
「どうしたんだ、お前。大丈夫か」
長尾が僕の肩をゆする。居酒屋の中からは賑やかな声が響いていた。
「あれ。俺何か言ってた?」
「いいや、ぼーっと立ってた。立ちながら寝てた感じ」
「ああ……寝てたかもしんない」
「おい何だよそりゃ、疲れ果ててんじゃないのかお前。ちゃんと帰れるか?タクシー呼んでやろうか?」
「いや、いい大丈夫。ちゃんと歩いて帰れるから」
「ホントだな。じゃここで別れるぞ、いいな、大丈夫だな」
「大丈夫、大丈夫だって。今日は付き合ってくれてありがとうな」
「おう、また何かあったら電話しろよ」
「ああ、電話するよ。そいじゃな」
長尾に背を向けて歩き出した僕の脳裏には、足利百子の顔が浮かんでいた。そして映画の人の銅像に八大さん。全ては明日か。何か物凄く面倒くさい事になってる気がするんだが、どうしたものか。
「今度はお前の奢りだからな」
後ろから飛んできた長尾の言葉に軽く振り向き、僕は笑顔で片手を上げた。
アパートに戻ったのは七時を少し回った辺り。まだ明日までには随分と時間がある。さてどうするか。
一番確実なのは、ちょっと早いけれど寝てしまう事だ。酔いも良い具合に回っているし、すぐに寝付けるだろう。ただ。
眠ってしまったらまた夢と現の狭間に行ってしまうのではないかと思うと、素直に寝る気にはならない。何せ今日は二度も狭間の世界に行って、うち一回は殺されかけているのだ。三度目にはどんな目に遭わされるか知れたものではない。よし、仕方ない。今夜は眠るのをやめよう。ちょっと長いが、それでも長尾のおかげで時間的には半分ちょっとくらいになっているのだ、なんとか我慢して一晩乗り切ろう。そう心に決めて、僕はテレビの前に座った。スイッチを入れた。そこから五分くらいは記憶にある。
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